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第3章 離れてはいけないし、離れたくない
#29
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✳︎
「佳苗」
「ん? どした?」
不意に呼ばれた佳苗は、急に大きな物音がした方向を向いた猫のような可愛くも驚いた様子で目を大きくして私を見る。今日も優子さんとニケさんの店に足を運んだ私と佳苗は、目の前にある美味しすぎるチーズケーキを食べながら近況報告をしている。
「最近調子いいでしょ。あの人と仲良く出来てるの?」
「どうだろ。いつも通りだけどね。そんなことないでしょ」
「いや、そんなことあるよ。普段よりも声が高いし、客の目を見ながら接客してるし。絶対何かあったと思ったんだけどな」
「普段の私、どれだけテンション低く振る舞ってんだ。あ、まぁ強いて言うなら晴樹さんの試合、観に行ける日決まったのはあるかな」
「お、そうなんだ。良いじゃん。いつ?」
ずずずと音を立ててコーヒーを飲み、カップで顔を隠している佳苗は多分恥ずかしがっている。普段は恋愛なんて興味ないように振る舞っている佳苗だけれど、気になる人が出来ると分かりやすくのめり込んでしまうことを私は10年以上前から知っている。そして、佳苗のこういう天邪鬼なところが私は大好きだ。
「来月の第二土曜日。ちょうど名古屋の大きい体育館でやるみたいでさ。チケットもらっちゃった。しかも特別席? みたいな場所らしくてめっちゃ良い場所で観れるみたいなんだよね」
「めっちゃいいじゃん。人知れず佳苗のテンションが高いのはその影響で間違いないね」
「私が機嫌いいの知ってんの日菜ぐらいだからね。しかもその席さ、選手にも観客にもめっちゃ目立つ席とかだったら結構な勢いで恥ずかしいんだけど。それなら普通の観客席で観たいなーって思ってんだけど」
「確かに。変に目立つと試合に集中出来ないぐらい他の目線気になりそうだよね。でも、さすがにその辺はあの人も配慮してくれてるんじゃない?」
「どうだろなぁ。むしろ試合中でも私が見える場所に招待しそうな気がするんだよね。うん、あの人ならやりかねない。ちょっと機嫌悪くなってきた」
むっと眉間に皺を寄せる仕草ひとつで男の人を虜に出来そうな武器があることを、佳苗はいまいち自分では気づいていない。つまり、佳苗は天然で可愛いんだ。私が男なら絶対すぐに惚れてしまう自信がある。
「あはは。大丈夫だって。素直に楽しんできなよ」
「ありがとう。でもそのチケットさ、謎に3人分あるんだよね。これってさ、日菜とあのバンドイケメンも誘えって言ってるってことだよね?」
「そろそろさ、バンドイケメンって呼び方変えない?」
はははと目を細めて佳苗が笑うと、私もつられて笑ってしまう。素直にイケメンと言われたら言われたで、私が緊張してしまうのが自分でも分かるのが実際のところだけれど。
「だって名前知らないもん。誰のこと言ってるか分かるでしょ?」
「分かるけどさ」
「じゃあいいじゃん。てかさ、晴樹さんさもう少ししたら私が喜んでくれそうな報告するって言ってたんだけど何だと思う?」
「え? 何だろ? 何かそれ、意味深な言い方だね」
「だよね。全然想像出来ないんだけど」
「サプライズ告白的な? でも前もって言ってたらサプライズの意味ないしね。全然わかんないや」
「楽しみにしててって言ってたから楽しみにしてるんだけどね」
「私はてっきり佳苗と晴樹さんはもう付き合ってるものだと思ってたけどね」
「んなわけないじゃん。あの人、それこそ今はシーズンが始まってすぐだから忙しい時期だろうし。それでもあの人が頑張ってる姿が観れるなら応援にも行きたいって思うしね」
「ふふ」
「なに? その含んだ笑いは」
「いや、佳苗さ、昔より素直になったなぁって思ってさ」
「そう? 昔と変わんないよ」
「いやいや。全然違うよ。少なくとも私にはそう見えるし感じる」
「昔の私はよっぽど捻くれてたのかな」
「うん。何せ私と友達だからね」
「はは。それは言えてる」
目を合わせて笑うことが出来るから、私はこうして自分らしくいることが出来ている。まだまだ多くの人には素の自分を見せることは出来ないけれど、いつか優子さんやニケさん、それに佐藤さんには佳苗と話している時と同じように自然な笑顔を向けられるようにしたい。ふと壁にかかっている時計を見ると、この店に来て2時間以上経っていることに驚いた。
店内が私たちだけになって、西日がちょうど私の目の位置に到達した頃、私は佳苗に自分で決めたこれからのことを伝えようと決めた。速く動いている心臓を落ち着かせるように私はゆっくりと深呼吸をして佳苗を呼んだ。
「佳苗」
「ん?」
「私ね、すごく考えたんだけど、やっぱり店を辞めようと思ってる」
「……そっか」
私の言葉を肯定も否定もせず、驚きもせず、笑顔も見せずに佳苗はじっと私の目を見つめている。私の拙い言葉を真剣に受け止めてくれているだけで、私は感情が大きく動かされる。
「佳苗に紹介してもらった職場だし、佳苗からしたら急な展開だと思うし本当にごめんね。だけど、私はここで働きたいって気持ちが固まったんだ。佳苗と同じ職場にいないのはかなり寂しいけど」
「日菜」
「え?」
「自分がしたいようにすればいいんだよ。私のことは置いておいていい。働く場所が変わっても私たちはこうして会えると思ってるし。日菜の人生じゃん。前向きに応援するよ」
「……佳苗。ありがとう」
「やりたいことが決まったっていいことじゃん。正直羨ましいよ」
「……うん」
「泣きそうになってんじゃないよ」
「……なってないよ。佳苗がそんなに前向きな言葉をくれるなんてって思ってじーんって来てるんだよ」
「日菜の中の私はどれだけネガティブなんだよ」
佳苗を少し悪く言ったりしないと佳苗の言う通り、私は泣いてしまいそうだった。最近の私は自分でも思うぐらい涙もろくなった気がする。
「もちろん職場が変わってもこうしてご飯食べたり出かけたりしようね」
「当たり前じゃん。日菜がいないと私のストレス発散口が無くなっちゃうからね」
「言い方」
「まぁなんだ。新しい生活になっても無理しすぎず頑張るんだよ。最近の日菜は私みたいに力が抜けて接客出来てるからそれぐらいでいいさ。前の日菜は神対応しかしません! みたいな意気込みすら感じてきたからね。隣にいて」
「あはは。人の顔色ばっかり伺っていい人を演じてたからね。私、そんなにまともな人間じゃないし、なりたくはないからね」
「うん。それは私が一番よく知ってるつもり」
「ありがとう。ってそれ、いいことなの?」
「すごいいいことだと私は思ってるけど?」
しししと笑う佳苗の、悪いことを考えているような笑顔もたまらなく愛おしくなる。それを言うと佳苗は絶対、変な顔をするから絶対言わないけれど。
「んー、まぁ佳苗がそう思ってるならいいや」
「そうだよ。それぐらいゆるく過ごしたらいい。これが親友として一番日菜に伝えたかったことだね。てかさ、話し込んでて気づかなかったけどお腹空かない?」
「さすが佳苗だね。私もそれ、今言おうとしてた」
「ほんとかよ。日菜の口癖は今言おうとしてただからなぁ」
「そんなに言った覚えないんだけど。じゃあ私がとっておきの料理、注文してあげるね。あ、すいません。優子さーん」
「はーい」
「優子さん、私と親友の佳苗、お腹がぺこぺこぺこなんだ」
「……ふふ。かしこまりました。佳苗さん、とても楽しみにしてもう少々お待ちくださいね」
「え? わ、分かりました」
へらっと笑いながら優子さんはキッチンの方へ戻っていった。ぽかんと口を開ける佳苗を見て、私はこの日いちばんのドヤ顔を佳苗に見せてみた。
「日菜? さっきのわざとらしいやりとりは?」
「秘密の暗号だよ」
「秘密の暗号?」
「知ってる人しか知らない隠し絶品メニューがあるんだよね。それ食べちゃったらもう、やばいよ」
「とりあえず日菜の語彙力がやばくなるぐらい美味しいんだろうなってのは伝わってきた」
「そうそう。それぐらい美味しいから。マジで期待していいよ」
「日菜がそんなに言うって相当だね」
「うん。ほんとに相当美味しいんだって」
「分かったから。さっきから目が少女マンガのヒロインみたいになってる」
10分もしないうちに、優子さんがゆっくりと私と佳苗の分であるビーフシチューを持ってきてくれた。もうこの匂いだけで私の食欲は次々と刺激されていく。
「お待たせいたしました。ビーフシチューです」
「うわ……。マジで美味そう。何これ。お姉さんが作ったんですか?」
口に手を押さえて驚きを隠す佳苗を見ていると、私もしてやったりと思うと同時に私の頼んでいたビーフシチューもやってきた。
「はい。愛情と真心を隠し味に入れておきました」
えへへと笑う優子さんの笑顔。優子さんの笑顔を見ていると、私の中にある悩みなんかどこかへ行ってしまいそうになる。それほど安心するし、頼ろうと思わせてくれる。
「あ、そういうの言えるタイプだったんですね。笑い方も丁寧だし、お淑やかで聖母みたいな印象があったんで意外でした」
「ふふ。私だって人間ですから。ユーモアが使いこなせる人間になれるように日々勉強しているんです」
「優子さん、無意識かもしれないけど自分で笑いのハードル上げてるよ」
「あ、今のってそう捉えられちゃう? ごめんなさい、まだ修行中の身なので暖かい目で見守っていてください。えっと、今更だけど日菜さんのお友達の?」
「あ、佳苗です。佳苗でいいですよ。お姉さんが優子さんってお名前なのは日菜から聞いたりして知っています」
「ありがとうございます。佳苗さんも以前からよくここへ来ていただいているのは知っています。また秘密の暗号、さっきみたいに言ってくださったらこのシチュー、いつでも作るのでお声掛けくださいね」
「ありがとうございます、分かりました」
「ごゆっくりお過ごしください」
「あ、これは美味いわ。日菜が感動して勧めてきたのは普通に納得する」
「でしょ。ほんとに美味しいよね」
「うん。これが秘密のメニューってちょっと勿体ない気がするくらい美味い」
「うん。てかさ佳苗」
「なに?」
「味に対してもっとビックリするかとちょっと期待してたんだけど」
「そうかな? 食べ物に関してはここ数年で一番の衝撃を今味わっているところなんだけど。まぁ私の態度が分かりづらいのは日菜が一番知ってるとは思うけど」
佳苗は感動したりしても声や態度に出ることは極端に少ない。だからさっき、目の前にビーフシチューが来て驚いていた様子の佳苗を見たのは本当に珍しい。それほどこのビーフシチューが美味しそうに見えるし実際美味しいんだ。こういう感情が出にくいところは、すごく佐藤さんに似ている。
「それはもちろん知ってるよ。それでも腰がびっくりしたり、目が大きくなったり、さっきみたいに手で口を塞いだりするかなって思ってた」
「腰はびっくりしないし目も大きくなりません。手で口塞ぐなんて生まれてこの方やったことないの知ってるでしょ」
「さっき、ビーフシチューが届いた時、やってたけどね」
「え? 嘘でしょ?」
「いや、ほんとだから」
「まじか。それ、マジで無意識だったかも」
「それほど、美味しそうに見えたってことだね」
「うん。それはマジで認める」
私たちの笑い声は店内に溶けていき、あっという間にビーフシチューも食べ終えた。やっぱりこのビーフシチューは最高に美味しい。全てを味わい終えた私はこの瞬間に、あの答えが固まった。そう思った私は、店内を軽やかに歩く優子さんを呼んだ。
「あ、優子さん。今、忙しい?」
「ううん、大丈夫だよ。何?」
「決めた」
「うん?」
「ここで働きたい。……です」
照れくささと緊張を隠しながら優子さんの綺麗な目を見つめてそう言うと、優子さんはヘラッと笑って私を優しく抱きしめてくれた。私の体は一気に熱くなった。
「ゆ、優子さん!?」
「……ふふ。その言葉、ニケさんと一緒に待ってたよ。こちらとしては大歓迎です。今の職場で引き継ぎとかもあるだろうし、日菜さんの状況が落ち着いたらいつでも来て。ごめん、急に抱きついちゃって。つい嬉しくて」
体を離した優子さんの頬がほんのりと赤くなっている。本当に嬉しく思ってくれているようで、こんな私を歓迎してくれているという事実を考えると、感情がぐっと大きく動いてしまう。涙は流さないように気になっていることを聞いて気を紛らわせようと私は再び口を開いた。
「……ありがとうございます。ただ、ひとつ質問してもいいですか?」
「はい。もちろんです」
「料理、下手でもいいですか?」
「ふふ。私も最初、毎日自分に絶望しながら過ごしてた。それでも色んな資格を持っているニケさんに助けてもらいながら今まで頑張ってこれたから、日菜さんもきっと大丈夫。私もいるし、それこそニケさんもいるしね。ただ、いくつか免許を取ってもらう勉強とかは並行して頑張ってもらわないといけないけど。それでもいいかな?」
「はい。そのあたりは全力で頑張るつもりです」
「うん。それなら私たちはいつでもあなたを採用します」
日菜さんはもう一度、私を抱きしめてくれた。他の客もいる店内でこんなことをしていたものだから、私はその人たちからも拍手をいただいてしまった。その拍手ひとつひとつと、優子さんに改めて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
「日菜。転職おめでとう」
「まだ早いって! でも、ありがとう」
佳苗もその後に力強く抱きしめてくれた。今日はハグ記念日と名付けよう。そう思えるほど、多くの愛情をもらった気がした。それと同時に、大切な人たちに大切にしてもらえているということを改めて知った。自分にもこんな感情があるのだと知った日でもあった。うん。いい日だった。
「佳苗」
「ん? どした?」
不意に呼ばれた佳苗は、急に大きな物音がした方向を向いた猫のような可愛くも驚いた様子で目を大きくして私を見る。今日も優子さんとニケさんの店に足を運んだ私と佳苗は、目の前にある美味しすぎるチーズケーキを食べながら近況報告をしている。
「最近調子いいでしょ。あの人と仲良く出来てるの?」
「どうだろ。いつも通りだけどね。そんなことないでしょ」
「いや、そんなことあるよ。普段よりも声が高いし、客の目を見ながら接客してるし。絶対何かあったと思ったんだけどな」
「普段の私、どれだけテンション低く振る舞ってんだ。あ、まぁ強いて言うなら晴樹さんの試合、観に行ける日決まったのはあるかな」
「お、そうなんだ。良いじゃん。いつ?」
ずずずと音を立ててコーヒーを飲み、カップで顔を隠している佳苗は多分恥ずかしがっている。普段は恋愛なんて興味ないように振る舞っている佳苗だけれど、気になる人が出来ると分かりやすくのめり込んでしまうことを私は10年以上前から知っている。そして、佳苗のこういう天邪鬼なところが私は大好きだ。
「来月の第二土曜日。ちょうど名古屋の大きい体育館でやるみたいでさ。チケットもらっちゃった。しかも特別席? みたいな場所らしくてめっちゃ良い場所で観れるみたいなんだよね」
「めっちゃいいじゃん。人知れず佳苗のテンションが高いのはその影響で間違いないね」
「私が機嫌いいの知ってんの日菜ぐらいだからね。しかもその席さ、選手にも観客にもめっちゃ目立つ席とかだったら結構な勢いで恥ずかしいんだけど。それなら普通の観客席で観たいなーって思ってんだけど」
「確かに。変に目立つと試合に集中出来ないぐらい他の目線気になりそうだよね。でも、さすがにその辺はあの人も配慮してくれてるんじゃない?」
「どうだろなぁ。むしろ試合中でも私が見える場所に招待しそうな気がするんだよね。うん、あの人ならやりかねない。ちょっと機嫌悪くなってきた」
むっと眉間に皺を寄せる仕草ひとつで男の人を虜に出来そうな武器があることを、佳苗はいまいち自分では気づいていない。つまり、佳苗は天然で可愛いんだ。私が男なら絶対すぐに惚れてしまう自信がある。
「あはは。大丈夫だって。素直に楽しんできなよ」
「ありがとう。でもそのチケットさ、謎に3人分あるんだよね。これってさ、日菜とあのバンドイケメンも誘えって言ってるってことだよね?」
「そろそろさ、バンドイケメンって呼び方変えない?」
はははと目を細めて佳苗が笑うと、私もつられて笑ってしまう。素直にイケメンと言われたら言われたで、私が緊張してしまうのが自分でも分かるのが実際のところだけれど。
「だって名前知らないもん。誰のこと言ってるか分かるでしょ?」
「分かるけどさ」
「じゃあいいじゃん。てかさ、晴樹さんさもう少ししたら私が喜んでくれそうな報告するって言ってたんだけど何だと思う?」
「え? 何だろ? 何かそれ、意味深な言い方だね」
「だよね。全然想像出来ないんだけど」
「サプライズ告白的な? でも前もって言ってたらサプライズの意味ないしね。全然わかんないや」
「楽しみにしててって言ってたから楽しみにしてるんだけどね」
「私はてっきり佳苗と晴樹さんはもう付き合ってるものだと思ってたけどね」
「んなわけないじゃん。あの人、それこそ今はシーズンが始まってすぐだから忙しい時期だろうし。それでもあの人が頑張ってる姿が観れるなら応援にも行きたいって思うしね」
「ふふ」
「なに? その含んだ笑いは」
「いや、佳苗さ、昔より素直になったなぁって思ってさ」
「そう? 昔と変わんないよ」
「いやいや。全然違うよ。少なくとも私にはそう見えるし感じる」
「昔の私はよっぽど捻くれてたのかな」
「うん。何せ私と友達だからね」
「はは。それは言えてる」
目を合わせて笑うことが出来るから、私はこうして自分らしくいることが出来ている。まだまだ多くの人には素の自分を見せることは出来ないけれど、いつか優子さんやニケさん、それに佐藤さんには佳苗と話している時と同じように自然な笑顔を向けられるようにしたい。ふと壁にかかっている時計を見ると、この店に来て2時間以上経っていることに驚いた。
店内が私たちだけになって、西日がちょうど私の目の位置に到達した頃、私は佳苗に自分で決めたこれからのことを伝えようと決めた。速く動いている心臓を落ち着かせるように私はゆっくりと深呼吸をして佳苗を呼んだ。
「佳苗」
「ん?」
「私ね、すごく考えたんだけど、やっぱり店を辞めようと思ってる」
「……そっか」
私の言葉を肯定も否定もせず、驚きもせず、笑顔も見せずに佳苗はじっと私の目を見つめている。私の拙い言葉を真剣に受け止めてくれているだけで、私は感情が大きく動かされる。
「佳苗に紹介してもらった職場だし、佳苗からしたら急な展開だと思うし本当にごめんね。だけど、私はここで働きたいって気持ちが固まったんだ。佳苗と同じ職場にいないのはかなり寂しいけど」
「日菜」
「え?」
「自分がしたいようにすればいいんだよ。私のことは置いておいていい。働く場所が変わっても私たちはこうして会えると思ってるし。日菜の人生じゃん。前向きに応援するよ」
「……佳苗。ありがとう」
「やりたいことが決まったっていいことじゃん。正直羨ましいよ」
「……うん」
「泣きそうになってんじゃないよ」
「……なってないよ。佳苗がそんなに前向きな言葉をくれるなんてって思ってじーんって来てるんだよ」
「日菜の中の私はどれだけネガティブなんだよ」
佳苗を少し悪く言ったりしないと佳苗の言う通り、私は泣いてしまいそうだった。最近の私は自分でも思うぐらい涙もろくなった気がする。
「もちろん職場が変わってもこうしてご飯食べたり出かけたりしようね」
「当たり前じゃん。日菜がいないと私のストレス発散口が無くなっちゃうからね」
「言い方」
「まぁなんだ。新しい生活になっても無理しすぎず頑張るんだよ。最近の日菜は私みたいに力が抜けて接客出来てるからそれぐらいでいいさ。前の日菜は神対応しかしません! みたいな意気込みすら感じてきたからね。隣にいて」
「あはは。人の顔色ばっかり伺っていい人を演じてたからね。私、そんなにまともな人間じゃないし、なりたくはないからね」
「うん。それは私が一番よく知ってるつもり」
「ありがとう。ってそれ、いいことなの?」
「すごいいいことだと私は思ってるけど?」
しししと笑う佳苗の、悪いことを考えているような笑顔もたまらなく愛おしくなる。それを言うと佳苗は絶対、変な顔をするから絶対言わないけれど。
「んー、まぁ佳苗がそう思ってるならいいや」
「そうだよ。それぐらいゆるく過ごしたらいい。これが親友として一番日菜に伝えたかったことだね。てかさ、話し込んでて気づかなかったけどお腹空かない?」
「さすが佳苗だね。私もそれ、今言おうとしてた」
「ほんとかよ。日菜の口癖は今言おうとしてただからなぁ」
「そんなに言った覚えないんだけど。じゃあ私がとっておきの料理、注文してあげるね。あ、すいません。優子さーん」
「はーい」
「優子さん、私と親友の佳苗、お腹がぺこぺこぺこなんだ」
「……ふふ。かしこまりました。佳苗さん、とても楽しみにしてもう少々お待ちくださいね」
「え? わ、分かりました」
へらっと笑いながら優子さんはキッチンの方へ戻っていった。ぽかんと口を開ける佳苗を見て、私はこの日いちばんのドヤ顔を佳苗に見せてみた。
「日菜? さっきのわざとらしいやりとりは?」
「秘密の暗号だよ」
「秘密の暗号?」
「知ってる人しか知らない隠し絶品メニューがあるんだよね。それ食べちゃったらもう、やばいよ」
「とりあえず日菜の語彙力がやばくなるぐらい美味しいんだろうなってのは伝わってきた」
「そうそう。それぐらい美味しいから。マジで期待していいよ」
「日菜がそんなに言うって相当だね」
「うん。ほんとに相当美味しいんだって」
「分かったから。さっきから目が少女マンガのヒロインみたいになってる」
10分もしないうちに、優子さんがゆっくりと私と佳苗の分であるビーフシチューを持ってきてくれた。もうこの匂いだけで私の食欲は次々と刺激されていく。
「お待たせいたしました。ビーフシチューです」
「うわ……。マジで美味そう。何これ。お姉さんが作ったんですか?」
口に手を押さえて驚きを隠す佳苗を見ていると、私もしてやったりと思うと同時に私の頼んでいたビーフシチューもやってきた。
「はい。愛情と真心を隠し味に入れておきました」
えへへと笑う優子さんの笑顔。優子さんの笑顔を見ていると、私の中にある悩みなんかどこかへ行ってしまいそうになる。それほど安心するし、頼ろうと思わせてくれる。
「あ、そういうの言えるタイプだったんですね。笑い方も丁寧だし、お淑やかで聖母みたいな印象があったんで意外でした」
「ふふ。私だって人間ですから。ユーモアが使いこなせる人間になれるように日々勉強しているんです」
「優子さん、無意識かもしれないけど自分で笑いのハードル上げてるよ」
「あ、今のってそう捉えられちゃう? ごめんなさい、まだ修行中の身なので暖かい目で見守っていてください。えっと、今更だけど日菜さんのお友達の?」
「あ、佳苗です。佳苗でいいですよ。お姉さんが優子さんってお名前なのは日菜から聞いたりして知っています」
「ありがとうございます。佳苗さんも以前からよくここへ来ていただいているのは知っています。また秘密の暗号、さっきみたいに言ってくださったらこのシチュー、いつでも作るのでお声掛けくださいね」
「ありがとうございます、分かりました」
「ごゆっくりお過ごしください」
「あ、これは美味いわ。日菜が感動して勧めてきたのは普通に納得する」
「でしょ。ほんとに美味しいよね」
「うん。これが秘密のメニューってちょっと勿体ない気がするくらい美味い」
「うん。てかさ佳苗」
「なに?」
「味に対してもっとビックリするかとちょっと期待してたんだけど」
「そうかな? 食べ物に関してはここ数年で一番の衝撃を今味わっているところなんだけど。まぁ私の態度が分かりづらいのは日菜が一番知ってるとは思うけど」
佳苗は感動したりしても声や態度に出ることは極端に少ない。だからさっき、目の前にビーフシチューが来て驚いていた様子の佳苗を見たのは本当に珍しい。それほどこのビーフシチューが美味しそうに見えるし実際美味しいんだ。こういう感情が出にくいところは、すごく佐藤さんに似ている。
「それはもちろん知ってるよ。それでも腰がびっくりしたり、目が大きくなったり、さっきみたいに手で口を塞いだりするかなって思ってた」
「腰はびっくりしないし目も大きくなりません。手で口塞ぐなんて生まれてこの方やったことないの知ってるでしょ」
「さっき、ビーフシチューが届いた時、やってたけどね」
「え? 嘘でしょ?」
「いや、ほんとだから」
「まじか。それ、マジで無意識だったかも」
「それほど、美味しそうに見えたってことだね」
「うん。それはマジで認める」
私たちの笑い声は店内に溶けていき、あっという間にビーフシチューも食べ終えた。やっぱりこのビーフシチューは最高に美味しい。全てを味わい終えた私はこの瞬間に、あの答えが固まった。そう思った私は、店内を軽やかに歩く優子さんを呼んだ。
「あ、優子さん。今、忙しい?」
「ううん、大丈夫だよ。何?」
「決めた」
「うん?」
「ここで働きたい。……です」
照れくささと緊張を隠しながら優子さんの綺麗な目を見つめてそう言うと、優子さんはヘラッと笑って私を優しく抱きしめてくれた。私の体は一気に熱くなった。
「ゆ、優子さん!?」
「……ふふ。その言葉、ニケさんと一緒に待ってたよ。こちらとしては大歓迎です。今の職場で引き継ぎとかもあるだろうし、日菜さんの状況が落ち着いたらいつでも来て。ごめん、急に抱きついちゃって。つい嬉しくて」
体を離した優子さんの頬がほんのりと赤くなっている。本当に嬉しく思ってくれているようで、こんな私を歓迎してくれているという事実を考えると、感情がぐっと大きく動いてしまう。涙は流さないように気になっていることを聞いて気を紛らわせようと私は再び口を開いた。
「……ありがとうございます。ただ、ひとつ質問してもいいですか?」
「はい。もちろんです」
「料理、下手でもいいですか?」
「ふふ。私も最初、毎日自分に絶望しながら過ごしてた。それでも色んな資格を持っているニケさんに助けてもらいながら今まで頑張ってこれたから、日菜さんもきっと大丈夫。私もいるし、それこそニケさんもいるしね。ただ、いくつか免許を取ってもらう勉強とかは並行して頑張ってもらわないといけないけど。それでもいいかな?」
「はい。そのあたりは全力で頑張るつもりです」
「うん。それなら私たちはいつでもあなたを採用します」
日菜さんはもう一度、私を抱きしめてくれた。他の客もいる店内でこんなことをしていたものだから、私はその人たちからも拍手をいただいてしまった。その拍手ひとつひとつと、優子さんに改めて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
「日菜。転職おめでとう」
「まだ早いって! でも、ありがとう」
佳苗もその後に力強く抱きしめてくれた。今日はハグ記念日と名付けよう。そう思えるほど、多くの愛情をもらった気がした。それと同時に、大切な人たちに大切にしてもらえているということを改めて知った。自分にもこんな感情があるのだと知った日でもあった。うん。いい日だった。
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