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第1章 好きな色は黒。
#4
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「すいません」
「いらっしゃいませ! 少々お待ちくださいませ!」
土曜日の午後。大人も子どももおじいさんもおばあさんも、様々な人の声が店内を行き交っている。閉店セールが始まったのかと思うほど今日は客数が多い。前回のバイトから3日間の休みをもらって、久々に出勤しているように感じる時に限って目が回るほど忙しい。次から次へと客がレジへ流れ込んでくる。隣にいる佳苗も普段よりも早口になりながら手を休めることなく接客している。
「お待たせいたしました!」
「トイレってどこにある?」
この季節にはあまり見ない麦わら帽子を被り、無数の笑い皺を顔に刻んでいるおじいさんが私の目を見てそう言った。口を開けて笑うと前歯が1本欠けていて、私にはそれが愛嬌に思えた。
「お手洗いでしたら、入り口を出ていただいて左側にございます!」
私は入り口の方に手のひらを向け、おじいさんの視線をそこへ向けた。色々言いたいことはあるけれど、この忙しい時間帯に一呼吸つけたと考えるとある意味ラッキーだったかもしれない。お爺さんに笑顔を向けると、お爺さんは軽く頭を下げて入り口に向けて歩き出した。
「はは。あんな近くにあったか。ありがとう」
「とんでもないです!」
「お嬢さん、笑顔が素敵だね。店員の鑑と言えそうな笑顔だよ」
「あ、ありがとうございます! 嬉しいです!」
お爺さんは最後まで笑顔を私に向けて手を振りながら歩いていった。こういう時、唯一接客業をしていて良かったと思える。私もお爺さんみたいに心を穏やかにしたい。出来るだろうか。多分、今のままだとお爺さんみたいに寛大な心を持てるのはずいぶん先の話だと思う。
「すいませーん!」
「は、はい! いらっしゃいませ!」
ほぼ条件反射で私を呼ぶ声に反応して後ろを向いた。そこにはビックリするぐらい大きな男の人と、ビックリするぐらい横幅の細い男の人がいた。正反対の体型をしている2人の、体格が大きい方の男の人は胸板もしっかりと厚く、腕の筋肉や足の筋肉は私の3倍くらいありそうなほど大きかった。隣の人が細いから余計に太く見えた。凛々しくて男らしいその人は表情さえも凛々しかった。
「お待たせいたしました!」
「小学生バレーボールで使う、ポールとネットが欲しいんですけど注文出来ますか?」
やっぱりバレーボールに携わる人だった。身長と体つきからバスケかバレーに関係のある人だと思っていた私の勘が当たった。こういうところはスポーツスタッフを長く続けている経験みたいなものかもしれない。
「かしこまりました! 少々お待ちくださいませ!」
私はレジの下にある引き出しを引っこ抜くように勢いよく開けてカタログを取り出した。野球やバスケ、サッカーの用具たちが並んでいるなか、カタログの最後辺りにバレーボールの用品も書いてあった。奇跡的にネットもポールも載っていたので、私は勢いよくその人に提案した。
「こちらでございます!」
「おー、結構種類あるんですね。値段も違ってたりするんだ」
「……」
大きな体をテーブルの方に寄せて、関心のある目で商品を見つめている人の後ろで何も話さずにじっとひとつの場所を見つめている。その目線を辿っていくと、そこには商品であるバレーボールがテーブルの上に置かれてあった。その独特な雰囲気が気になっていると大きな男の人が顔を上げた。
「これとこの商品って、同じようなものに見えるけど何が違うとか分かりますか?値段もかなり違っていると思うんですけど」
大きな男の人が指を差して言った「これとこれ」を見比べていると、確かに同じような外見に見える。というか、バレーボールは正直あんまり問い合わせで聞かれることがないし、ポールなんて尚更違いが分からない。そもそも競技中に柱を見ている人なんてまずいない気がする。けれど、スタッフが戸惑ってはいけない。不信感を抱かせることはあってはならない。私はカタログに書いてある情報の隅から隅まで猛スピードで目を通した。すると、救いの文章が書き込まれていることに気づいた。
『ポールの材質が違うため金額に差異があります。小学生がこちらを運んでいても怪我の恐れのないよう安全で丈夫であるように注視して商品を販売しております』
私は自分でも納得しながらその文章を読み上げた。男の人もへぇーと声を漏らしながら大きな腕を組んでゆっくり頷いていた。後ろにいる細い人は相変わらず何の反応もなくカタログを見つめている。
「確かに、私の学校の体育で使っていたポールは運ぶ時ビックリするぐらい重かったです! 男性なら1人でも持てる人も多くいたと思いますが、女子で運ぶなら相当苦労したと思います」
「そうですよね。ヘタをしたらさ、それこそ、それを足に落っことして怪我をしてしまう可能性だってあるだろうし。それに配慮された金額なんですね! あ、ここに重さが書いてありましたね」
「本当ですね。あとは材質がやっぱり良かったりするのかもしれないですね」
男の人が指を差すその箇所で私もひとつ商品の知識を学んだ。こんな結果オーライな形で分かったのも複雑だけれど、この人たちの役には立てたみたいで良かった。大きい人の後ろにいる細い人の目線がなんとなく気になり、ちらっとそっちを見てみると急に私と視線が合った。それと同時にどくんと大きく心臓が跳ねると、私は気づかれないように咄嗟 に視線をカタログの方へ戻した。急に目線が変わっていたものだから相当ビックリした。それに、まさか私の方を向いているとは思いもしなかった。ただ、その目は私を見ているようで感情はどこか違うところを見ていた気がした。思い込みかもしれないけれど、また目が合うかもしれないと思うともう一度彼の方を見ることは出来なかった。
「決めた! この軽い素材のものを買います!」
大きな男の人が体を起こすと、やっぱりびっくりするぐらい大きくてこの人と目を合わせるには普段は上げない顔の角度まで顔を上げなければいけないことに少し笑えた。もちろん、心の中で。
「ありがとうございます! では発注させていただきます!」
「代金は今日払っても大丈夫ですか?」
「はい! もちろんです!」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらいます」
私と大きい男の人が会計をしている間も、後ろの細い人は何も話さずに立っていた。さすがに視線は私の顔からは変わっていて、またテーブルの上のバレーボールを見つめていた。
「店員さん」
「は、はい!」
不意にその人が私を呼んだ。初めてその人の声を聞いた。思いの外、声は低かった。急にその人の声が聞こえたものだから返事をする私の声が不自然に大きくなってしまった。そんな私の目をじっと見つめて再び彼が口を開いた。
「ボール。空気抜けてますよ。それ」
「え?」
「穴が開いてる。多分、空気を入れてもまたすぐ抜けていくと思う。だから、処分した方がいいと思います」
テーブルには『品出ししておいて下さいください』と書かれているところにバレーボールが置かれているけれど、そのボールを触ってみると確かに萎んでいる。見たところ、穴らしきものは空いていないように見えるけれど。というか、この人はあの距離からボールを見ていただけでそんなことが分かったのだろうか。本当に穴が空いているのならすごい目をしている。
「し、少々お待ちください!」
私は事務所にいる北山さんを呼んでボールを見てもらった。それを触りながら北山さんはじっくりボールを観察している。
「あ、ここかな」
北山さんが押さえたボールの縫い目のところには確かに小さな穴があった。そこに指を当ててみると、本当に空気が少しずつ抜けていっているのが分かった。これだけ指を近づけないと分からないくらいの穴を本当に見抜けていたのだろうか。素直にすごいと思った。
「ありがとうございます。確かに小さな穴が空いていましたので処分させていただきます。ご指摘ありがとうございます」
北山さんはそう言って、バレーボールを事務所の中へ持っていった。一部始終を見ていた私をニヤニヤしながら大きな男の人が見つめていた。
「すごいでしょ? こいつの目」
「え? あ、はい! あんな小さな穴がそこから見えてたんですか?」
細い男の人に問いかけると、彼は何も答えずにそっぽを向いた。
「ごめんなさい。こいつ、照れると顔隠しちゃうんです」
「照れてないし」
否定をしながら彼が大きい人を見つめた。大きい人は口を大きく開けて笑った。その笑い声は店内中に響いているような大きな声だった。
「でも珍しいな!お前が人に話しかけるなんて」
「別に。気になったから言っただけだし。ただの気まぐれだよ」
終始テンションの違うこの人たち。間違いなく今日の客の中で一番印象に残った人たちだ。2人は最後までそのテンションのまま店を後にした。時計を見ると、30分近く接客をしていたようで自分でも驚くほど時間を使ってしまった。その分、バイトが終わる時間が早まった気がして得をした気分になった。
「やっと帰ったんだ。さっきの人たち」
佳苗も接客が落ち着いたようで、普段よりも眉毛が下がりながら私を見ていた。
「うん、大きな買い物されていったよ。てか、ごめんね! 他の接客、全部任せっきりになっちゃったね!」
「あぁ、いいよいいよ。タチの悪い客も来なかったし、上手い具合に時間も進んだし」
「あ、それは私も思ってた。ちょっと得したなって」
「この勢いであがる時間になんないかな」
「めっちゃ分かるけど、あと2時間はあるね」
「今から時計見るのと、時間言うの禁止ね。長く感じるから」
「それ、佳苗が言うとき、自分から言ってるからね!」
「我慢できずに見ちゃうんだよ」
嵐が去ったように静かになった店内は、まるで別の世界線にあるこの店になったように客がごっそりといなくなっていた。店内放送で流れている曲が、私の好きなバンドの新曲だったことに今さら気づいた。『疲れた時は自分の空気を抜けよ』という歌詞が、今の私の状況にピンポイントで胸に刺さったように思えて少し笑えた。
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