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第3章 故郷
#57
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「露天風呂入った? 雫さん」
「当たり前じゃん。斗和さんも入ったでしょ?」
「うん。もちろん。すごく良いお風呂だったね」
「すっごく良いお風呂だった! しかも本当に他のお客さんがいなかったから、すごく羽を伸ばせて入れたよ。あれなら朝も入りたいなぁ」
部屋に戻り、素敵すぎた温泉の感想発表会をしているうちに、彼女の顔はお酒を飲んでいないのに少しずつ赤くなっている。彼女はテンションが上がると顔が赤くなりがちなのは前から知っているが、今日は特に気分が良くなっているようで僕も嬉しかった。
とんとん。
僕らの部屋のドアをノックする音が聞こえ、僕は反射的にその音に「はーい」返事をした。ゆっくりとドアが開くと、そこにはおじさんとおばさんが僕ら2人を見て笑っていた。
「お、ちょうどいいタイミングだったかな。夕食の準備、できたからね。2人は部屋で食事をする形で良かったのかな?」
「うん。大丈夫だよ。ありがとう、おじさん。おばさん」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
僕の隣で頭を下げた雫さんからは、シャンプーの香りか、花の蜜をそのまま嗅いだような甘くて上品な匂いが僕の鼻に届き、僕の心の中がほわっと暖かくなった。それが悟られないように僕は平然を装いながらおじさんとおばさんに笑顔を向ける。それを見た2人は、部屋の外に置いてあったワゴンから次々と料理の乗った皿を僕らの部屋の中に運び入れる。そこにあったのは、グルメ雑誌やテレビの特集などで映るような刺身や、とてもきめ細かい鮮やかなサシが入っている牛肉、それらに負けないような海鮮丼や寿司といった、錚々たる顔ぶれが並んでいた。
「うわぁー! すごい! テレビとか雑誌で見る料理だ。特にこの刺身。おじさん。今日の夕食って、こんなにいっぱい量あったっけ?」
「ふふ。これはね、私たちからのサービスだよ。斗和ちゃんも雫ちゃんも、とっても可愛いからね。この宿を楽しんでくれながら美味しい魚と酒を飲んでくれたら、私たちはそれが嬉しいんだよ」
へへへと笑うおばさんの顔を見ていると、ずっと昔、僕が独立してすぐの頃、僕に寿司を奢ってくれて豪快に笑っていたハルカさんの笑顔と重なった。そういえばハルカさん、久々に思い出したな。元気にしてるといいな。僕はおばさんとおじさんに改めて深々と頭を下げた。
「本当にありがとう……。おばさん、こんなにいっぱいおもてなしをしてもらって……」
「いいんだよ。斗和くん。君たちがここでそうやって笑って過ごしてくれるだけで俺たちは幸せだからさ。心おきなく楽しんでいきなさい」
優しい笑顔のおじさん。2人の優しさをひしひしと感じながら僕らの部屋には、ありとあらゆる海の幸が並んだ。刺身から寿司、海鮮丼といった海の幸の幸せな部分を詰め込みました、といったラインナップが様々な色彩を輝かせながら僕らの方を見つめているようだった。
「おじさん、おばさん、本当にありがとう。じゃあお言葉に甘えて、全部いただくね」
「うん! いっぱい味わってね! ほら、あんた! あとは若い2人が楽しむ時間だから。私たちは戻るよ」
「はは。そうだな。俺たちもやること終わらせたら今日は酒でも飲むか」
「バカなこと言ってないで早く風呂に入んなよ。言わないといつまで経っても風呂に入らないんだから」
いつの間にかおじさんとおばさんも雫さんと同じくらい、顔を赤らめながら笑っている。2人の笑顔を見つめていた雫さんが「あの……!」と言いながら右手をゆっくり、控えめに挙げた。それを見た2人、あと僕も含めて全員の視線が彼女の方を向いた。
「もし差し支えが無ければ、お二人の仕事が全て終わったら、この部屋でみんなで晩酌でもしませんか? もちろん、無理にとは言いませんが……」
突然の申し出に全員の口があんぐりと開く。おじさんの口が一番早く閉じ、「いいなぁ! それ!」と少年のように目を輝かせながら雫さんに微笑みかける。
「雫ちゃん。そんなこと言っちゃ、この人、朝が来るまで居座るよ? 斗和ちゃんと過ごす時間なのに、私たちが邪魔してちゃ悪いよ。それに、私たちの仕事が全部終わるのなんて、日が回る頃になっちゃうよ」
おじさんたちと酒を酌み交わす。それもすごく楽しそうだし、僕も肯定したい。ただ、僕はこの夜に雫さんに伝えたい気持ちが胸の中にあり、そもそもそれを上手に伝えられるか不安になっているのが正直なところで、少し複雑な心境なのは否めない。それでも、せっかく彼女が提案してくれたんだ。僕は自分の感情を心の奥の引き出しにしまい、開いた口を閉じながらおじさんたちに笑いかけた。
「大丈夫だよ。僕らだって今から色々楽しませてもらうつもりだし。夜の街も歩きに行きたいしね。いっぱい堪能してから2人とお酒も飲めるなら、この上ない幸せだよ。ね、雫さん」
「はい。私たちは元々、夜中でも仕事をしたりしているので、そんなすぐには眠くなったりしません。ましてや、この後もお風呂に入りに行きたいですし」
「……」
僕らの返事を聞いた2人は、顔を見合わせながら一度首を縦に振ると再び僕らの方を見つめて優しく微笑んだ。
「……じゃあ、2人のお言葉に甘えてお邪魔してもいい? この人以外の人と晩酌をするのは本当に久しぶりなんだ。だから、正直すごく嬉しいよ。もちろん、2人がいいならだけど……」
おばさんは今にも涙を流しそうになるほど瞳を潤ませて僕らを見て笑った。その様子を見たおじさんもつられるように笑った。
「ハハ。酒が入ってないのに涙もろいのは大目に見てくれよ。斗和くん。雫ちゃん」
そんなことを言いながらおばさんの背中を摩って笑うおじさんの笑顔に、僕も同じようにつられて笑った。
「僕らの方こそありがとう。たくさん、楽しい時間を過ごせて嬉しいよ」
「いやいや。ゆっくり楽しんでくれ。じゃあそろそろ行くか」
「そうだね。それこそまだまだ仕事は山積みだからね! 2人とも、いっぱい堪能してね! 私たち自慢の料理!」
「ありがとう、おじさん。おばさん」
「ありがとうございます。私たちの方こそ、お言葉に甘えさせていただきます」
優しい笑顔のまま部屋を出ていった2人を見送った後、お酒を同じタイミングで口につけ、同じタイミングで鮮やかな光沢を放つ鯛の刺身を口の中へ入れた。
「えっ……美味っ……。何これ……」
「やばいよね……。斗和さん……」
同じタイミングで言葉を失いながら、頬が蕩けていないかそこを確認しながら素晴らしい海の幸を味わっていった。
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