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第3章 故郷
#52
しおりを挟む「それじゃあ2人とも、行ってきます」
「行ってらっしゃい! 雫ちゃん、足元には気をつけてね」
「あ、ありがとうございます……! 行ってきます」
「ははは。美味しいごはんを作って待ってるからね」
優しい笑顔の2人に見送られながら僕と雫さんは旅館を出た。沙苗さんのおかげで怪我をせずに済んだ彼女は頬を赤くさせながら早足で歩く。
「雫さん、そんなに速く歩いて目的地の場所、知ってるの?」
「知らない。けど、恥ずかしかったから、さっきの瞬間から逃げ出すように歩いてるの」
「はは。可愛かったよ。僕からしたらね。おばちゃんに抱えられてた時、2人が親子に見えたのは多分僕だけではないよ」
「……まぁ確かに沙苗さんみたいな優しい人がお母さんだったら私も嬉しいけどさ……。あ、斗和さん……」
「ん? 何?」
「いや、う、うん。何でもない」
珍しく歯切れの悪い彼女だが、深追いすることはなく僕は彼女を導くように、それでいて横並びになってゆっくりと足を進める。風に乗って届く潮のにおいが何とも心地良い。これを味わうだけで、僕はここへ戻ってきたんだと改めて実感することができている。
「海のにおいだね」
「うん。すごく懐かしい。雫さんもこういうのが気に入ってくれると嬉しいけど」
「うん。すでにとっても気に入ってる。晴れてるけど、爽やかな風で暑さが和らいでるし、優しい波の音もすごく心が落ち着く。それでいて、滅多に感じることのない潮のにおいも、特別感があってすごく好きかも」
「ははは。そんなによく思ってくれてて僕も嬉しいよ。ただ、分かってると思うけど海水は飲んじゃダメだからね。めちゃくちゃしょっぱいから喉が渇いた時に飲んじゃったら、むしろ逆効果だからね」
「分かってるよ。私もそこまで馬鹿じゃないよ。流石に」
「はは。雫さんがバカだったら、この世界にいる人、全員がバカだね。それなら」
「何その極端な発言。じゃあ斗和さんも馬鹿なの?」
「当たり前じゃんか。僕はいつだってバカだよ」
「それが一番ありえない。っていうかこの件、多分終わりが見えない流れになりそうなやつだね」
「はは。間違いない。まぁ何だ、全員バカとは言わないけど、この世界にいる人は全員完璧なんかじゃないさ。全員どこかしらにトラブルがある。それを抱えながらも自分を愛するもんだ」
「あ、斗和さんが真面目な話題に変えた」
そう言って雫さんがニヤニヤとした顔で笑うものだから、思わず僕も笑顔になる。
「そのみんなが抱えたトラブルを僕と雫さんが癒していく。それがTsukakokoの創設理由の大きなひとつだからね。今だから言うけど、雫さん。昔から本当にありがとうね。感謝をしてもしきれないぐらいお世話になってるよ」
「そんな……、私の方こそ未熟な人間を親身になってここまで一緒にいさせてくださってありがとうございます。感謝をしてもしきれないのは私の方です……。って、この話をしたら泣きそうになるから話題を変えてください」
「ははは。そうだね。ごめんごめん。今回の旅行は雫さんに思いっきり僕の故郷を楽しんでもらうために連れてきたんだ。いきなり泣かせちゃったら申し訳ないからね」
「そうですよ……。どうせそういう話をするなら、お酒が入る夕食の時にしましょうよ。って、私いつの間にか敬語に戻ってた……」
「ふふ。雫さんのそういうところも好きだよ。僕は」
「……そういうところってどこですか!」
急に大きな声を出した雫さんの声が、海の方へ飛んでいき、やがて波の音になって消えていった。その声に反応したように海鳥たちの軽やかな鳴き声が返ってきた。あ、ちょうど見えてきた。目的地。長く続く一本道の突き当たり。そこには黒くて長い煙突のある赤い屋根の家が一軒建っている。
「雫さん、あそこだよ」
「あ、黒い煙突がある……」
「そうそう、僕が誘ってた美味しすぎるみたらし団子があるお店だよ。もうそろそろ、そのにおいもしてくると思うけど」
「本当にあったんだ。なんか、童話で出てきそうな見た目だね。可愛い。どうして煙突があるの?」
「団子や綿菓子といったおやつを主に売ってるおじさんがやってる店なんだけど、あそこには銭湯もあるんだ。10人も入れないくらいの大きさだけど、お湯は程よくあったかくて気持ちいいし、お風呂上がりに飲める瓶牛乳も格別に美味しい。何より人情味があってすごく過ごしやすいんだ。煙突から煙が出てるから、多分今もやってるんだと思うよ」
「え、お風呂に入るの? 私、タオルとか持ってきてないよ」
「うん。今からはおやつだけだと僕も思ってたから。もし雫さんが来たいって思うなら、今日の夜にでもここのお風呂まで歩いてきてもいいけどね。多分、5分くらいで着くだろうからさ」
「そう……ね、でも、さっきの沙苗さんの方の温泉も入りたいからなぁ。うーん……。すっごく迷うなぁ……」
「へへ。まぁお風呂に入るのは今日だけじゃなくてもいいからね。楽しみはいっぱいあった方がいいし」
「それは間違いないです」
思わず早足になっていた雫さんに先を越され辿り着いた店。
『角屋商店(かどやしょうてん)』
あまりにも懐かしい名前と看板。いくつもの雨風、災害にも耐え抜いたこの黒ずんだ箇所の多い茶色の看板。それを見た瞬間に、僕はまた一段と心の中にある温かい灯が生まれた気持ちになった。昔から変わらない木造作りの茶色いドアをコンコンと叩く。すると、店の中から「はいよー」というしゃがれた男の人の声が返ってきた。間違いない。この声は角屋のオッチャンだ。僕はゆっくりとそのドアを横に動かした。
「こんにちは」
「はいよー、いらっしゃい。お、随分と若い2人だな。観光かい?」
「あ、うん。角屋のオッチャン、僕のこと、覚えてるかな……?」
「お? うん? 何だその懐かしい呼び方……。まさか、お前、英明の……!?」
「うん。おじいちゃんの孫の斗和だよ。覚えてる?」
「覚えてるに決まってんだろ……! 斗和坊!」
そう言って僕の体に抱きついたオッチャン。70歳は軽く超えているはずなのに、それを感じさせない力強さを感じる抱擁。小柄なオッチャンは僕の胸の辺りで鼻を啜っている。
「こんなにデカくなって……。今までどこにいたんだ?」
「命の恩人に助けてもらってさ。20年以上経ってここへ帰ってきた。オッチャンは昔と変わらないで元気そうだね」
「当たり前だ……。俺は元気しか取り柄が無えからな……!」
「オッチャンも、この店も、災害を乗り越えてくれててほんとに良かった……」
オッチャンの涙につられるように僕の目もじんと熱くなった。雫さん、ごめん。君を楽しませるつもりだったのに、僕とオッチャンだけがこんなに感極まっている。心の中で謝りながら僕はオッチャンの小さな体を抱きしめ返した。
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