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第3章 故郷

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 人の肌を触れることは仕事柄、頻繁にある。この人は体温が低めだな、カイロみたいに体温の高い人だな。触れた人によって感じ方は違うけれど、今までの感覚とは全く違った。抱きしめていた雫さんの体温を感じていると、僕の心の中まで温かくなった。それでいて心臓はびっくりするぐらいドキドキしているし、何より彼女の口元から離したくなかった。正直、自分でかなりキモいことを言っている自覚はありまくるけれど、どうしたって頭の中ではそんなことばかり考えてしまう。もどかしさとほわほわした気持ちでいっぱいになりながら彼女の唇から離れた。彼女は顔を赤くして僕をじっと見つめる。

 「先生……」
 「は、はい。どうしたの? 雫さん」
 「……これからどうしたいですか?」
 「こ、これからって!?」

少し前にクライアントの男性から女の人から誘惑されたって話を聞くことがあった。その人は歯止めが効かなくなって、流れのまま気の赴くままその時間を過ごしたということを聞いた。自制心の足らない人なんだなと、僕はその話を聞いたクライアントに対して思ってしまっていたが、今現在の状態がまさにそれだ。僕が今、雫さんとしたいこと……。まさか……。脳がオーバーヒートしそうになるくらい頭が熱くなる。

 「例えば、呼び方とか。変じゃないですか? 先生のままって」
 「へ?」

間抜けな声を出してしまったのと同時に、体全体から力も抜けた気がした。雫さんは慌てた様子で僕を睨むように見つめている。

 「へ? じゃなくて。その……! 恋人になったんだから私が先生って呼ぶのはどうなのかって思って……! それに……、ずっと敬語なのもどうなのかなって思って」

僕の胸の辺りで話す雫さんは、顔に熱を帯びていた。首元がじんわりと熱くなったまま、僕は彼女の髪をゆっくりと撫でた。普段よりも艶めかしく思えるサラサラの髪の毛は、普段よりも甘い香りがした。彼女の少し荒くなっている呼吸を落ち着かせることができたらいいな。そう思いながら、僕は平然を装いつつ彼女の髪を撫で続けた。

 「そうだなぁ……、斗和って呼ばれると僕も嬉しいけどね。まぁもちろん、呼び慣れている方で呼んでくれてもいいし。話し方だっていつでも変えてくれてよかったのに。僕なんてほとんど敬語使わないし」
 「先生は年上で上司だから当たり前です……!」
 「……あれ? 呼び方そのままだし敬語、抜けないね」
 「いきなりなんて無理に決まってるでしょ!? なんかいきなりすごくドSじゃないですか? 先生っ!」

いつもの調子に戻ってきた雫さんを見ていたら、僕もいつものように笑えて「笑い事じゃないんですけど!」と怒られて、それでまた笑えた。

 「ごめんごめん。ドSじゃないから。いつも通りだから」
 「はぁ……。ビックリしましたよ。私からしたらすっごく強気に来られた気がしたので……」
 「はは。そんなつもりなかったんだけどな」
 「……じゃあ決めました!」
 「うん?」

何かを決心した雫さんは、僕の胸元から強引に顔を上げた。その笑顔は僕がこれまでに見てきた彼女の笑顔のなかで一際輝いているように見えた。

 「二人きりでいるときは名前で呼びます! それで、仕事の時や誰かと一緒にいる時は今まで通り、先生と呼びます! あと話し方も、二人の時と仕事の時とで別にします!」
 「……そんな器用なことしなくていいのに。疲れそうだけど」
 「疲れない……もん!」

もん。彼女が初めて言ったそれは、凄まじく威力のあるものであり、とてつもなく可愛かった。雫さん、これはあれだな。無意識のうちに可愛さを前面に出してくるパターンの人だな。意外ではないけれど、いざ目の当たりにすると可愛さがすごい。僕の動揺が伝わらないように今まで通りの笑顔を彼女に向けた。

 「雫さんがそうしたいなら是非是非だよ。逆に僕はどうしたらいい?」
 「と、斗和さんは何も変わらないだろうから、今まで通りでいいんです……! あ、また敬語出ちゃった……」
 「フフ。何かアレだね。初心忘るべからずって感じだね」
 「どういうこと……?」
 「この気持ちをいつまでも大事にしようねってことだよ」
 「あ、当たり前……です!」

彼女が必死に敬語を話そうとはしないようにする喋り方も、恥ずかしながら僕の名前を初めて呼んでくれたことも、どれもとても嬉しくて、とても照れくさくて、とても幸せだった。

震えている彼女の声を包み込みたくなって僕は再び彼女の体を抱きしめた。小さな吐息が漏れた彼女に「ごめん。力、強かった?」と聞くと、彼女は何も言わずに首を横に振りながら力強く僕の体を抱きしめた。永遠にも思えるこの時間がずっと続きますように。彼女のことをいつまでも和ませることができますように。僕は自分の名前が今までよりも好きになった。そして、彼女のことがもっと好きになった。窓の外から聞こえるスズムシの鳴き声が僕の心を落ち着かせてくれる。そう考えていると、

 「斗和……さん」
 「ん? 何?」

不意に彼女が僕の名前を呼んだ。

 「さっき話してた時、これからどうしたいって聞いたら、何であんなに上擦った声が出たの?」
 「え、あ、あぁ! 何でだろ? 急にこれからって言われたから何のことだろって思ったのかな? 急に声が裏返ることってあんまりないから珍しいとは思うんだけどな……」
 「ふふ」

頭がいつになく回転しない僕は、あまりにもバカみたいな返答をすると彼女は優しく笑って僕の首元に優しくキスをした。

 「斗和さんらしくて好きです……。好きだよ!」

あぁ、また敬語になっちゃった。そうやって悔しそうにする彼女はもう一度僕の胸元に顔を埋めてくっついた。僕らしさはいまいち自分では分からないけれど、結果的にこうして彼女と抱きしめ合える時間があるのでれば、僕はそれでいい。うん、きっとそうだ。変なことを考えた僕自身を心の中で一喝しながら僕も流れるままに身を任せ、彼女の華奢でほっこりと温かい体を包み込むように抱きしめた。それから僕たちは初めて同じ部屋で、同じベッドの上で、お互いの肌を触れ合いながら眠りについた。
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