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第2章 碓氷 雫

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 『膝の裏が痛くて……。踏ん張りが効かないから競技に支障が出ちゃうんです……。何とかなりませんか?』
 『もちろん何とかなるよ。痛い場所、教えてくれる?』
 『はい……。この辺りです……』
 『あ、ここだね』
 『い、痛っ……。はい、その辺りです』
 『分かった。じゃあ施術を始めるね』
 『お、お願いします……』

 私が16歳の頃、初めて斗和先生と出会った。陸上部に所属していた私は、日が経つごとに痛む両膝の痛みを抱えていた。痛みの強さが増していき、走ることが困難になった時、部活の顧問に正直に現状を伝えると、私はすぐに斗和先生のいるクリニックへ連れてこられた。施術をしてもらううちに私の膝からはズキズキと疼く痛みがなくなっていった。生まれて初めて他人に診てもらったのが斗和先生だった私の両足は、彼によって一瞬にして治された。ただ、施術はそれだけじゃなかった。

 『先生、そこ膝と関係無いですよね? あと、痛みはもう無くなったんですけど……』
 『膝のケアは終わったんだけどね、痛みが再発しないようにある程度普段のかかる場所をほぐしてるんだ。体の筋肉って僕らが思っている以上に多いし、連動して動いてる箇所も多いからね。あ、セクハラみたいなことは絶対しないから安心してね』
 『そ、それは思いませんでしたけど……。私、あまりお金多く持っていないので、料金が増やされたりされると払えないんですけど……』
 『大丈夫。料金は変わらないよ。僕がしたくてしてるだけだから』
 『あ、ありがとうございます……』

 それから1時間近く延長して施術をしてもらった。本来の施術時間は30分ほどだったはずなのに、結局全てが終わる頃には1時間半近く斗和先生に施術をしてもらった。

 『な、何これ……! 体が宙に浮いてるみたいに軽い!』
 『ビックリしたでしょ。キミの体、疲労が溜まりまくってたからそれを入念にほぐしたからだいぶ体は楽になったと思うよ。ストレッチは出来てるんだけど、どうしても溜まる疲労みたいなのが人間にはあるんだ。それが長年蓄積してたってところだね。でも、もう大丈夫。これだけほぐせばしばらく大丈夫だよ』
 『あ、ありがとうございます……! 本当に楽になりました!』
 『ふふ。良い顔してるね。あと、これはおまじない』
 『おまじない?』

 そう言って手を伸ばす先生の手のひらには、チロルチョコが3つ置かれていた。ひとつはウエハースタイプのチョコ、もうひとつはミルクタイプのチョコ、もうひとつはいちごとチョコレートが混じったものだった。

 『疲れた体には甘いものが一番いいんだ。キミの体の調子が良くなって良い記録が出ますようにってね』

 この人はどうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。私が先生に抱いた初めての疑問だった。それと同時に、こんなに優しい人はこれまで私が生きてきたなかで出会ったことがなかった。同級生にいた学年一優しいと言われていた爽やか少年の今井くんよりも、家庭科の横田先生よりも、いつもおっとりしている幼馴染の瑠璃(ルリ)よりも優しかった。

 『しんどくなったらいつでも来てね。無理のしすぎは禁物だよ』

 先生の選ぶ言葉は全て優しかった。私は体と同じくらいメンタルもリラックスできた気になった。その日は店を出ても家に帰っても、お風呂に入っていてもベッドに入っていても斗和先生のことが頭から離れなかった。どうして頭から離れなかったのかは分からずじまいで、私は学生生活を過ごしていった。その後も私はそこへ通い続けたおかげで、大きな怪我をすることもなく高校の部活を引退し、大学では部活には入らず勉強とアルバイトに打ち込む日々を過ごした。もちろん、大学生になっても体の疲労を無くすためにクリニックには通い続けた。

 『僕ね、雫さん。キミがビックリすること、今から言えるよ』
 『な、何ですか? 急に……! すごい怖いんですけど』

 ふふんと得意げに笑いながら私の肩を揉む師匠と鏡越しで目が合う先生は、ふと寂しそうな顔を浮かべたようにも見えた。

 『僕ね、来年独立するんだ』
 『ど、独立?』
 『うん。自分の店を開くんだ。だからね、僕がここにいるのは今年で最後になるのかな……。だから雫さんにこうして施術するのもそろそろ終わりなのかな』
 『そう……なんですね』

私は嫌だった。心の中で拒み続けた。先生に会えなくなるのは嫌だという本音。いや、どうせなら就活もあることだし、採用の枠があるのなら私を先生の独立先へ採用してもらおう。我ながら発想の斜め上をいった私の思考回路は奇跡的に先生に受け入れられ、私は大学を卒業したと同時に先生の職場、この「Tsukakoko」へ就職した。初めは知らないことばかりだったしイレギュラーな対応なんてしょっちゅうあった。専門的な知識も大学に通っていた程度ではまだまだ全然足らず、毎日枕のそばには辞書くらい分厚い専門書を見ながら頭の中に知識を入れ続けた。他には、時間外手当が基本給と同じぐらいいっぱいもらった時期もある。先生と口論になってしまうことも一度や二度とどころではない。それでも私は、結局この場所が好きだ。

___________

 「ん? どうしたの? 雫さん」
 「何でもありません。今日はスムーズに終わって良かったです」
 「そうだね。頼れる助手がいてくれるおかげだね」
 「とんでもないです。先生の施術が良かったんだと思います」
 「そんなことないよ。僕1人だと、多分こうはいかないからね」

働き始めて4年目になる。気がつけばこの「Tsukakoko」には、私の部屋もここにできていて、私は先生から「頼れる助手」と言ってもらえる存在になっていた。恐れは多すぎるし、頼れる助手になれている自信は全くと言っていいほどないけれど、先生が私を頼りにしてくれているのは素直に嬉しい。

 「雫さん、今日の夜ご飯、もう決まってる?」

ストレッチマットに消毒のスプレーを振りかけながら背中を向ける先生が私に問いかけた。今日が料理当番の私の頭の中には、既に今日の献立は浮かび上がっている。昼食を終えた段階でそれが決められている私の頭は、良い感じに回転している方だと自分で誉めたくなる。

 「はい。決まってますよ」
 「お、すごいじゃん。今、昼ごはん終わったばっかりなのに」
 「今日は頭が冴えてる気がしますからね」
 「さすが雫さんだね。何作るの?」

純粋無垢という表現が相応しすぎる真っ直ぐな瞳を輝かせて私を見つめる先生の視線は、今日は一段と私の心をざわつかせる。

 「まだ教えません」
 「えー? 何で?」
 「今知るより、後から知った方が食べたくなると思います。それこそ今、昼食を食べたばっかりですし」
 「……それもそうだね」

心がざわついた時は、不本意ながら先生をあしらうような言い方をしてしまうのが私の悪い癖だ。自分でも分かっているのに、どうしても愛想のない振る舞いをしてしまう。理由はよく分からない。それでも先生は、いつものようにへへへと笑ってくれる。彼にどこか変なところがあるのは前から知っている。

 「じゃあその分、メインディッシュのハードル上げちゃうからね。楽しみにしてよーっと」

先生が少し意地悪なところがあるのも前から知っている。だから私は、こういう時は先生の言葉に反応してしまうことを先生も気づいている気はする。

 「…‥じゃあヒントだけ教えます」
 「お、いいね。じゃあお願いします」
 「……寒い日に食べたくなる和食です」
 「あぁ、もう響きだけで最高だね。これは日本酒が要るやつだね」
 「はい。熱燗も作ろうかと考えています」
 「最高だね。おでんでも作ってくれるの?」

してやったり。おでんと言われることを見越してのヒントだ。私は心の中を悟られないような絶妙な表情を意識して先生を見つめ返す。

 「それはどうでしょうか。ヒントは教えますが、正解を教えるつもりはありませんでしたので」
 「そっかぁ。でも今のヒントで完全に僕はおでんの口になっちゃったかもなぁ」
 「……それならおでんの準備をしましょうか?」

こういう聞き方をすると、先生はいつも首を横に振る。今日もいつものように先生は首を横に振った。

 「ううん。せっかく雫さんが考えてくれてるメニューがあるんだから。それに、おでんを想像してても、それを遥かに超える出来栄えで違う料理が食べられるのを僕は知ってるからね」
 「……尽力します」

こうやって無意識にハードルを上げるようなことを言ってくるのも承知の上。明らかに失敗した日があっても笑顔で美味しいと言ってくれる先生がいるおかげで、私は料理の腕を磨くことも出来ている。ここはそんな不思議な先生のいる、不思議な職場だ。
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