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第1章 麻倉 斗和
#17
しおりを挟む「……仕事中に汗もかいたし臭ったりするかもしれねえぞ?」
「構いません。それに、仕事で流した汗ほど素晴らしいものはありません。私は好きです。一生懸命頑張られている方なんだと思いますし。申し訳ありません、生意気なことを言ってしまって」
「……作業着も汗臭えぞ?」
「臭くありません。お世辞でも何でもなく笠井さんの服は何もにおいがしませんので、お気にされているようでしたら問題ありません」
「……分かった」
途切れ途切れで聞こえていた2人の会話が流れ出るシャワーの音にかき消された。僕の代わりに雫さんが施術をしてくれている間、さっき僕が笠井さんに抱いていた違和感を思い返していた。会話は特に気になったところはない。カウンセリングペーパーを書いてもらっている時も特に違和感は無かった。どこだろう。笠井さんとのやりとりを頭の中で初めから最初から思い出していくと、笠井さんのふとした所が異様に気になり出した。僕の勘違いならいいけれど。そこが当たってしまうと、かなり深刻な事態になってしまう。僕は心の中で自分の勘違いになるように祈りながら雫さんの施術が終わるのを待った。水の流れ出る音が止み、再び雫さんと笠井さんが話している声が耳に入ってきた。
「さっきの男は何なんだ?」
「はい?」
「初対面の人間に敬語も使えねぇナヨナヨした男だよ。何なんだ? 普通は丁寧な言葉遣いで喋るだろ。客だぞ、こっちは。歳上だぞ? あんなツレと喋るような話し方で接してきたヤツは、うちの新入社員でもいなかったぞ」
笠井さんの頭の中には僕の存在は消えているのか、わざと僕に聞かそうとしているのかは分からないけれど、間違いなくさっきより声が大きくなっている。陰口を話すような人ではない人柄だと思っていたが、こんなに大きな声で自分の悪口を聞いたのは初めてだった。
「あの人は、常識が通じないんです。特にこの国が遥か昔から決めているような上下関係のようなものが。私も初めてあの人と話した時、なんて馴れ馴れしい人なんだという嫌悪感を抱き、壁を作ろう、距離を取ろうとしていました。今の笠井様みたいにイライラしている気持ちもあったと思います」
「……そうだろ。アイツ、お前の上司なんだろ? 何で注意しないんだ?」
「上司ではありませんが、私の先生です」
「何が違うんだよ?」
「先生と言えども、学校で生徒たちに勉強を教える先生でもありませんし、白衣を羽織り患者に処方するような先生でもありません。それでも、あの人は先生なんです」
「……バカにしてんのか? 答えになってねえぞ?」
「先生は普段からのんびりしている人ですし、こうして初対面でも馴れ馴れしい話し方をしてくるし、見た目もチャラチャラしているように見えてしまうかもしれません。ですが、先生は優しい人間なんです。私の知る限りではですが、この世界に生きる誰よりも優しいと思っています」
「……それは大袈裟だろ。お前の視野が狭すぎるんだ」
会話の声は、さっきよりも大きくなっていて、一言一句聞き漏らさないぐらい全ての内容が耳に届く。ただ、これはもしかしたら普段聞くことが出来ない話の内容が聞こえてくるかもしれない。僕は一層2人の会話に自分の耳を傾けた。ごめん、雫さん。盗み聞きしたことは心の中で謝っておくよ。
「そうかもしれません。どうして先生が常識の通じない相手なのか、いつから先生がそういう性格をしているのか詳しくは分かりませんが、一度そのスタンスで笠井様も先生と話してみると分かってくると思います。どこか憎めないところがある、と。そこから先生の優しい部分が伝わってくると思います」
「話をするだけでそいつの性格や人柄が分かるはずないだろう」
「でしたら、シャンプーが終わりますので、そこからは先生に交代して施術をしていただきましょう。そうしましたら、おそらく笠井様も先生のことが分かってくるかと思います。一度だけ先生の施術をお試ししていただけませんか?」
「……体の調子は良くなるのか?」
「……えぇ。私よりも技術も思いやりもある方ですので」
「見限ったらそのまま店を出ていってもいいか?」
「はい。その時はそのまま退出していただいて構いません」
2人の会話のテンポと同じ音で雫さんが笠井さんの肩をパンパンと叩く乾いた音が部屋に響く。肩のマッサージを終えると雫さんが担当してくれた施術内容が終わる。
・右肩が少し低い位置。右足重心。右の腰に手を当てる癖がある。
・猫背。ストレートネック。
・足を引きずるように歩く。痛そう?
少ない記憶だけれど、笠井さんの体を見て気づいたことをカルテに並べると少しずつ笠井さんの体に効きそうなプランが見えてきた。あとは僕の不安が的中しなければいいのだが。そう思っていると雫さんの肩を叩く音が止み、席を立ってふたり2人の歩く足音が僕のいる部屋の方に近づいてきた。心の中に緊張があるのは否めないけれど、笠井さんの満たされた顔を思い浮かべると、それを実現したくなってスイッチが入った。
「やぁ、笠井さん。だいぶリラックス出来たでしょ?」
「……俺が社会人のルールってもん、教えてやろうか?」
「あはは。ごめんね。僕は多分、笠井さんの言うルールや仕組みを理解しきれていない人間なんだ。それでも笠井さんと同じようにこうしてここにいるし、僕なりに真面目に働いてる。だから、真面目な笠井さんの寛大な心でもう少しだけ僕に体を診させてよ」
「……さっきも言わせてもらったが、不快に思ったらすぐ店出て行くからな」
「ありがとう。絶対満足させてあげるから! じゃあ笠井さん。早速始めるね」
「……勝手にしろ」
雫さんが説得してくれたおかげもあってか、笠井さんとは割と短いやりとりで施術用の椅子へ座ってくれた。ありがとう、雫さん。結局のところ、彼女のおかげで僕は笠井さんの施術をすることが出来たと言っても過言ではない。仕事で鍛え上げられたのかゴツゴツと固くてハリのある胸板が僕の指を拒むように固くなっていた。僕はそれを撫でるようにほぐしていく。少し前に来た千佳さんとはマッサージする箇所は違うけれど、疲労度の具合で見てみると、随分近いものがありそうだ。笠井さんの筋肉に指を走らせると、彼の眉間にあった皺はさっきよりも数が少なくなっているような気がした。
「笠井さんは全身に疲れが溜まりやすいタイプだね。体全体を上手に使いこなせてる証拠だ。ただ、特になんだけど右側の筋肉や体の部位に頼ってるところが多いから、余裕があれば左側の筋肉も効率よく動かしてあげてね。今は僕がほぐしておくけど」
「……」
笠井さんは何も言わずに鏡越しで僕をじっと見つめている。凝り固まっている筋肉をゆっくり押すと、痛みを我慢しているのか、彼の右眉の上がピクリと動いた。この押す力でしばらく背中全体をほぐしてみよう。猫背だった笠井さんの姿勢もこの流れで良くしてしまおう。僕はそのまま笠井さんの体をほぐし続けた。5分ほどが経つと、何も言葉を発さずに施術を受けている笠井さんは気持ち良さそうな寝息を立てていた。良かった。笠井さんは笠井さんなりに僕の施術を受け入れてくれているようだ。あとは、違和感に思っていた足の部分だ。少しずつ両足の筋肉を撫でるようにほぐしていく。すると一箇所、明らかに違和感のある固さの部分を見つけた。笠井さんを起こさないようにその部分の周辺をほぐしていくと、外れてほしかった僕の勘が来た見事に当たっていそうで、僕は入念に笠井さんの足を優しくほぐしていった。
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