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第1章 麻倉 斗和
#6
しおりを挟む「はい。今回のマッサージはこれにて終了」
「ありがとう。いやぁ、本当に楽になったわ。何か体が柔らかくなった気がするしね」
「うん。多分、本当に柔らかくなってると思うよ。まぁ正確には千佳さんの体の可動域が広がっているんだけどね。試しにストレッチとかしてもらうと全然違うと思うよ」
施術を終えソファに座った千佳さんは、背中の方へ両手を回すと、そのまま手を組んでは上に伸ばしたり胸を張ったりして体の調子を確かめた。彼女はとても満足してくれているようで、子どものように顔を赤らめてはしゃぎながらほぐれた体を動かしている。
「うわぁ、本当に動きが全然違う! 私、絶対こんなに腕動かなかったわ」
「すごいでしょ。まぁあとは、お風呂上がりにこんな感じでストレッチとかすると、今回みたいに体が凝り固まったりはしにくくなるから、また自分でも日課になっていくといいけどね」
「はい、先生。1日の終わりにやっていきます♪」
「うん。ぜひぜひよろしく」
「はーい! ありがとうね」
ほぐれて温まっている体を冷やさないようにブランケットを千佳さんに渡しながら僕はポットに水を注ぎ、それを温め始めた。次のカウンセリングの準備段階に移る。
「じゃあ千佳さん、次はメンタルカウンセリングをさせてもらうね。いつものように温かい飲み物を準備するけど、今回は何飲む?」
「……私、今回はいらないかも。斗和先生」
「え? そうなの? 飲み物あった方が頭もリラックスして話しやすくなると思うんだけど」
「あ、ううん! そうじゃなくて。メンタル……? ナントカの方! 私ね、さっきのマッサージの時に体の疲れと一緒に溜まってたストレスも全部出てったみたいにスッキリしてるの!」
うふふと笑う千佳さんは、確かに血色も良くなったし表情も晴れやかだ。彼女が言うように悩み事なんてなくなったみたいな笑顔で体を伸ばしている。
「せっかくプランも変えてもらったのに、それをまた変えることになってしまってごめんなさいね。何か前来た時もこんな感じじゃなかったっけ」
「ううん。僕らとしては千佳さんの体の状態が整ったのならそれが一番良いから嬉しいよ。ちなみに精神的なストレスは仕事が原因だった感じ?」
「そうなの! 底なしに呑んでいくあの人のストレスが一番大きかったな。お酒を呑むにつれて口も悪くなっていってたから私も最後、口喧嘩みたいになっちゃったところもあって」
「なるほどね……」
「でも、今日ここでマッサージしてもらって頭をリセットしたら冷静に考えられるようになった。あの時、あの人にあんなことを言わなかったらああいう結果にならなかったんだって。だからね、今日もその人に会ってそのことを謝ろうと思ったの」
コポコポと音を立てて雫さんがカップにお湯を注ぎ、僕と千佳さんの分をゆっくりと持ってきてくれた。千佳さんは不思議そうな顔で雫さんを見つめている。
「あら? 雫ちゃん。飲み物はいいって言ったんだけど?」
「……私も大切な人に勢いで言ってしまったことに後悔したことが何度もあります。後になって、何であんなこと言ってしまったんだろうって」
「……雫ちゃん?」
「そんな時に心を落ち着かせてくれたのが、このココアでした。これを飲んでから改めて考え直し、その人に伝えたら、その人は笑って許してくれました。だから、そういう願いも込めてこのココアを千佳さんにも飲んでいただきたいです」
優しい笑顔を千佳さんに届ける雫さんは珍しかった。朝の早い時間にイレギュラーが二度続き、予想外になった今の状況も穏やかな表情で微笑んでいる。普段なら目をバキバキにして無言で僕を見つめる彼女だが、今日の彼女はまるで違い、その彼女を象徴するようにココアが甘い香りを放っている。それをそっと手に取り、ゆっくりと口をつけた千佳さんは雫さんと同じような優しい顔つきになった。
「……美味しい。これ、雫ちゃんが作ったの?」
「……秘密のホットココアです」
「あはは! 何その可愛い言い回し! でも本当に美味しいわ! ありがとう。雫ちゃん。私も今日のうちに、あの人と話し合ってみることにするね」
「千佳さんなら大丈夫です。その優しくて素敵な笑顔でお相手の方も笑顔にしてあげて下さい」
「ふふ。ありがとうね♪ 雫ちゃんに言われると照れちゃうな!」
彼女の作ったココアは、確かにウチがこだわって選んだ素材を活かして作っている特別なココアだ。まぁ実際、ココア以外にも厳選した素材で作る飲み物がほとんど。それをクライアントに合わせて提供するのが雫さんは僕よりも確実に上手い。飲み物はいらないという千佳さんにそれを渡す度胸も僕より兼ね備えられている。さすが雫さん。今日も頼れる助手だ。
「千佳さん。いつでも疲れたらここへ来てね」
「当たり前じゃない。もうここじゃないと私の疲れは取れないわ。これからもお邪魔させてもらうわよ!」
「うん。ぜひぜひ。待ってるからね。その人とも良い結果になりますように」
「ありがとう。Tsukakoko。いい名前よね。今更だけど、これは斗和先生がつけた名前なの? それとも雫ちゃん?」
首を傾げて笑顔で僕を見つめる千佳さんに僕も同じように笑顔を向けた。
「ここは僕の大切な人がつけた名前だよ」
僕がそう言うと、千佳さんは何かを含んだように笑った。
「……そう。それは大切な名前ね! 大事にしないと!」
「うん。もちろん、とっても大切にしてるよ」
「ふふ。 私も大切にしてるわよ。ここのこと」
「うん。いつもありがとう。千佳さん」
「こちらこそ。じゃあそろそろ今日は帰るわね」
「うん。またいつでも来てね」
「当たり前じゃない。って何回言わせるの」
「あはは。ありがとう。千佳さん。じゃあまたね」
「千佳さん。本日もありがとうございました!」
「2人とも、今日もありがとう。またねー♪」
千佳さんはそう言って、会員専用の電子マネーアプリを会計機へ置き、その音が奏でる軽やかなリズムに乗るように店を笑顔で出て行った。千佳さんを見送った後、ゆっくりとドアを閉めた雫さんが目だけで何かを訴えてくるように僕を見つめていた。
「ん? 雫さん、どうしたの?」
「先生……。千佳さんがカウンセリングを延長するのをやめること、知ってたんですか?」
「どうして?」
「だって、千佳さんが話したいこと積もってそうだったし、先生もそれに応えようとしてたのに、結局最後はそれをやめられて時間内に施術が終わったじゃないですか。まるで結末が知ってるみたいに思えて」
雫さんはたまに不思議なことを言う。言いたいことは分からなくもないけれど、さすがに僕もそこまで未来予知のような能力があるわけじゃない。と思いながら僕は軽快に笑った。
「ははは。たまたまだよ。それに、最後は雫さんの淹れたココアが彼女の心を掴んでいるように思えたけどな」
「そ、それは……! 千佳さんに少しでも安らぎを与えたいと思ってしただけの行動であって!」
「僕は、キミのそういうところが好きだよ」
僕が思っている雫さんの好きなところを伝えると、彼女は目を丸くして僕を見つめている。まずい。何か勘違いさせちゃったかな。
「あ、ごめん。助手として尊敬してるみたいな意味合いだからね」
雫さんは顔が赤くなるクセがある。こうなった時の彼女は普段よりも声が大きくなって、普段よりも怒ってくる傾向がある。
「……先生は言葉のチョイスが危ないんですよ! クライアントたちにそんなこと言ったら勘違いしてしまう人も絶対いますからね!」
やっぱり怒らせてしまったようで、彼女の瞳の中には炎が燃えているような迫力があるように思えた。
「ごめんごめん。何が言いたかったっていうと、僕よりクライアントのことを考えて行動している雫さんはいつだって頼れる助手だってことだよ」
「話、逸らさないでください! 私は結局、先生の思惑通りだったのか知りたかったんです!」
「だから、たまたまって言ってんじゃんか。ほら、早くしないと次のクライアントが来る時間になっちゃうよ。しかも、次は師匠だから急がないと」
「わ、分かってます……! もう!」
彼女は終始、慌てたままカップを洗いブランケットを元にあった籠の中へ戻し、施術台のマットを取り替えてさっきまで誰もいなかった空間に作り直した。クライアントの施術を終えて今回の実施内容を振り返るレポートに記入する内容をスマホのメモに残しながら僕も次のクライアントを迎える準備をしていく。何てったって、次に来るのはあの師匠なのだから。今日も喜んでくれるといいな。頭の中で師匠の顔を思い浮かべると、背骨がぱきぱきと音を立てながら真っ直ぐに伸びた。
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