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第1章 麻倉 斗和
#5
しおりを挟む「おはよう。千佳さん。Tuskakokoへようこそ。千佳さん」
「おはよう、斗和先生。またカッコよくなったわね」
扉を開けた瞬間に香るラベンダーのような大人の女性の香りが僕を誘惑するように鼻に届いた。マッサージをしやすくしてくれている彼女なりの配慮なのか、今日もジムにトレーニングしに来たぐらいのタイトなジャージで来店する千佳さんは今日も全身から色気を溢れ出していた。
「そうかな? 前に来てもらった時と何も変わらないよ。でもありがとう。千佳さんこそ前の時より綺麗になったんじゃない?」
「ふふふ。そんなこと言われたらすぐテンション上がっちゃうわよ♪」
「いいよ。どんどん上がっちゃってよ。改めて、今日もよろしくね。千佳さん」
「はーい! お邪魔しまーす」
お酒を飲んで現れたのかと思うほどへらへらと笑っている彼女だが、これがいつもの彼女の平常運転だ。ちゃんと左手にはゴツゴツとした高級車のロゴマークが刻み込まれている鍵が握られているし。これでお酒を飲んでいるようならとんでもないことになるけれど、流石に彼女も僕より年上だし、そんなことはしない。はずだ。
「おはようございます。千佳さん」
「あら、雫ちゃん。おはよう。今日も一段と可愛らしいわね」
「ありがとうございます。千佳さんも今日も素敵です。あと、そのジャージ、千佳さんに似合っていてとても可愛いです」
「ありがとう♪ やっぱりここは心地良いわね。こんなオバサンにも嬉しいことを言ってくれて」
「僕らはいつだって本心で言ってるよ」
「ふふ。ありがとうね。じゃあ先生、今日も前回と同じコースでいいんだけど」
「うん。あと、メンタルカウンセリングは今回、無しの方向で。って聞いていたけど、どうかな?」
「あ、そうなの。それ。ごめんね。出来たらでいいんだけど、昨日個人的にちょっと辛いことがあってさ。やっぱり今回も話、聞いてほしいかも。他にもお客さんいるだろうから、2人が迷惑じゃなかったらでいいんだけど、どうかしら?」
それを聞いた雫さんがじろりと僕の方を見ている視線が僕の視界の隅っこに映る。ごめん、雫さん。今日は頭の回転している僕だから許してくれ。責任は僕が持つ。そう伝えたつもりで雫さんに視線を送り返し、千佳さんに笑顔を向けた。
「もちろん、僕らは大丈夫だよ。じゃあまるっきり前回と同じコースでさせていただくね。では、千佳さん。こちらに」
「ありがとうね、無理を聞いてもらってごめんなさい」
「とんでもない。千佳さんを元気にするから僕も頑張るね」
「うん。よろしくお願いね」
さぁ今日も1日が始まる。頑張っていこう。無理はしすぎずに。そう心の中で自分に言い聞かせながら器具のスイッチと、あと自分の心の中にもスイッチを入れた。ほんのりとマッサージ台が照明によって照らされ、それと同時に暖かい風が天井の通気口からじわりと吹き始めた。
✳︎
「いぃっったい!! ってえぇー!!!」
首から肩甲骨にかけて、まるで鉄板が入っているのかと思うほど凝り固まっている筋肉。少し押しただけで千佳さんは獣のような叫び声を上げた。ただ、それはいつものことであって本人も筋肉がこんな状態になっているのは理解をしている。千佳さん、ごめんね。心の中で謝りながら彼女の筋肉をぐりぐりと指で押していく。
「千佳さん、これ。前より固いね、筋肉」
「斗和くん、これ……! 本当にリラックスできるところ押さえてるの?」
「もちろん。今押している所をほぐすとね、背中から首にかけて筋肉がだいぶ緩まるんだ。だから、ちょっと痛いけどもう少しだけ我慢してね」
「うー……! 少しだけ我慢ね……! 分かった……。あぁ!」
クライアントにはリラックスしてもらうつもりで来店してくれているので、これだけ大きな叫び声を出されると、さすがに僕も気を遣ってしまう。それでも指の力は変わることなく、千佳さんのツボのポイントを探りながら今日の彼女の凝り固まった筋肉を少しずつほぐしていった。さっきまで鉄板のようにカチカチだった筋肉が、徐々に人間の部位に戻ってきているように緩んできている。千佳さんもさっきみたいな雄叫びを上げることはなくなっていた。千佳さんの表情もだいぶ柔らかいものになってきていた。
「だいぶほぐれてきたね、千佳さん」
「うん……。気持ち良くなってきて寝てしまいそう……」
「寝ててもいいよ。昨日もお仕事だったんでしょ?」
「えぇ……。何ならつい数時間前までお酒作ってたからね」
「うわぁ……。けっこう長い時間までお客さん、いたんだね」
「そうなのよ。いっぱいボトルを空けてくれる人だったからお店的にはありがたいんだけどね。私個人としてはちょっと疲れちゃってね」
ここだ。首の付け根より少し下。出っ張っている骨に沿っている筋肉が一番負担のかかっている場所だ。僕はそこを重点的にほぐしていく。これが緩まると、彼女の疲れは一気に取れるはずだ。
「あー、そこ。やばいね。めっちゃピンポイント」
「うん。千佳さんの疲れが一番疲れが溜まる場所。今日はここだったね」
「……斗和先生、さっきより力抜いたでしょ。全然痛みが違うわよ」
「ううん。さっきと同じぐらいの力でほぐしてるよ。千佳さんの体の疲れが取れていっているんだよ。多分、施術が終わったらすごく体が軽くなってるだろうし、体の可動域が随分違うと思うよ」
「あぁ、やっぱり先生は上手いことほぐしてくれるわぁ……」
施術が始まってから20分ほどが経ち、メインのマッサージを終えた。ストレッチマットの上でうつ伏せになって顔の見えない状態になっているけれど、リラックスできているような力の抜けた吐息が彼女から聞こえてきて、少し安心した。
「お疲れ様。千佳さん、すごくリラックスできたね」
「あぁ、本当に体が楽になってる。さすがゴッドハンドの斗和先生ね」
「そうやって言ってくれるのは相変わらず千佳さんだけだよ」
「じゃあそのゴッドハンドを私が独り占めしちゃってるってこと?」
「……うーん。それはちょっと、どうだろな?」
体を起こし、満たされた表情で笑っている千佳さんの顔は、明らかにさっきよりも血色が良くなっていた。けれど、施術中に眠らなかったのは今回が初めてだ。あんなに序盤から眠そうにしてたのに。
「じゃあ千佳さん、マッサージは上半身でラストにさせてもらうね」
「はーい、よろしくお願いします」
「じゃあこの椅子に座って下さいー。自動で席、倒れるから気をつけて」
「うん、ありがとう」
さっき背中の筋肉をほぐしたこともあり、疲れの溜まりにくい箇所でもあるため、千佳さんの体はもうほとんど完璧に近い状態でほぐれている。
「だいぶ、楽になってきたでしょ。千佳さん」
「いや、もう最高! やっぱり上手ね、斗和センセ♪」
「いえいえ。リラックスしてもらえてて僕も嬉しいよ」
彼女の語尾が上がり出したということは、だいぶ気分も高まってきているということだ。今回も順調に施術が出来ていて良かった。ゴッドハンドなんて言われると恐れ多すぎるけれど、褒めてもらえるとやっぱり僕だって嬉しい。クライアントの笑顔を見るとこの仕事をやっていて良かったと思えるあたり、僕にとっての天職だと自信を持って言える。
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