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第九章 春の訪れ

第七話 夜の塔と湖

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 空に真っ白い月が出ていたから良かった。
 白い月明りに照らされて、小さな竜は先導するように皆の前を飛んでいた。
 時折振り返って「ピルピルルル」と楽しそうに鳴いている。
 ルーシェが王宮の塔へやって来るのも久しぶりなのである。
 あの塔は、王宮で一年間暮らしていた時、夜に何度も飛んできて魔法の訓練をしていた思い出の場所だった。ルーシェがまだ飛べない時は、アルバート王子の妹のマリアンヌ姫、それからリヨンネ、バンナムと共に飛行訓練もしていたものだった。マリアンヌ姫が、ルーシェがうまく飛べずに落下しても、怪我無く受け止められるように、山のようにクッションを用意してくれたこともあった。

 そして、一行は塔へ辿り着いた。
 月に照らされて、黒々とした陰翳を見せる塔である。
 塔はその扉も、窓も全て板で打ち付けられて、内部へ入ることが出来ないようになっていた。
 以前は、侍従長に頼んで鍵を貸してもらい、その内部にも入ったことがある。塔の中にはぐるぐると上階まで続く螺旋階段があった。壁には絵が掛けられ、キャビネットに、寝台に椅子が置かれてあった。それは遠い昔、この塔の中に誰かが住んでいた痕跡である。だがそれも、ルーシェが竜巻を魔法で起こして、全て壊し尽くしてしまった。
 だから今、たとえその扉や窓を開けて入ったとしても、中には何も残っていない。ガランとした空間しか広がっていないだろう。空虚な寂しい場所だった。

 レネとバンナムは手を握ったまま、その塔を見上げていた。
 小さな紫竜は、塔の周りをグルグルと回るようにして飛んで上昇していって、最上階に到着すると、塔から見渡して、「ピルルルルルルルルル」と鳴いた。
 その声が、遠く響き渡った。

「ルー」

 アルバート王子が地上から手を振った。
 その王子の胸元に飛び込もうと翼を広げたところで、ルーシェは何かに気が付いた。

(あれ?)

 塔から少し離れた場所に小さな湖がある。
 ルーシェは、幼竜の頃、その小さな湖に向けて“魔素”を練り上げて落とす訓練を繰り返していた。それもこれも、“魔素”を使いこなすためだった。
 その訓練をしていた湖に、今、人影があった。

 ルーシェは王子の元へ行くと、そのことを告げた。

「ピルピルルルピルピルルル(湖に人がいたよ。女の人みたいだ)」

「人?」

 アルバート王子は奇妙なことを聞いたように少し考え込んでいる。
 それから、バンナムに「少し見に行ってみよう」と声を掛けた。
 あの湖も、王宮から離れた寂しい場所にある。
 この塔と同じく、人があまり近づくような場所ではなかった。

 何かにつけ慎重なバンナムが進言する。

「殿下、湖に人がいたことを、近衛に報告して、近衛から見てもらった方が良いのではないでしょうか」

「分かっている」

 そう思ったが、近衛が来た時にはおそらく、その者はいなくなっているのではないかと思った。
 それにルーシェの話だと、女性の姿一人しか見えなかったらしい。
 こんな夜更けに、寂しい湖に女性が一人行くとは危険な行為である。事故があって湖に足を滑らせても誰も助けてはくれないだろう。

 それほど強い正義感を持っているつもりはなかったが、やはり気になり、アルバート王子はバンナムやレネ、ルーシェを連れて湖に向かった。

 木々の間を抜け、白い月の光にキラキラと湖面を輝かせている湖のそばには、一人の女性が立っていた。
 


 パキンとレネが小枝を踏んだ音を立てた。
 それでその女性は振り返った。
 キラキラと輝く金色の髪に、碧い瞳のその女性は美しかった。シンプルなワンピースに、ショールを身に巻き付けている。
 
「姉上、何故こんなところに」

 警戒するように振り返った彼女は、そのアルバートの言葉に表情を少し和らげた。

「それは、私の台詞でしょう。アルバート」

 彼女はアルバート王子の年の離れた姉、リエットであった。
 
(ええええええええええええええええええ、アルバート王子のお姉ちゃんなの!?)

 パタパタと王子のそばを飛ぶ小さな竜のルーシェは、驚いて、アルバート王子とリエットの顔を見比べていた。そう言われてみれば、顔立ちもなんとなしに似ているところがある。
 
「散歩なの? まぁ、夜も夜更けに随分と大胆なこと。貴方の大切な婚約者殿は放っておいていいのかしら。あら、もう婚約者ではなく、伴侶なのよね」

 リエットは笑いながらそう言う。
 リエットは今年二十九歳になる、元王女である。彼女は公爵家に降嫁して王家を離れている。
 アルバート王子と彼女は、年に一度の新年会で顔を合わせるくらいしか接触がない。ほとんど話をしたことのない姉姫であった。

「姉上はどうして」

 どうして王家から嫁いだ彼女が、王宮にいて、こんなところをフラフラとしているのか理解できなかった。アルバート王子の言葉が終わる前に、リエットは続けた。

「母上が呼んで下さったの。貴方、結婚するのでしょう? 暇なら王宮に遊びがてら、見に来たらと言われたの」

 暇ならアルバート王子の結婚相手の顔でも見に来いとは、なんとも言えぬ誘い文句だった。
 リエット元王女の母親は王妃メロウサである。
 王妃メロウサは頻繁に、何かの理由をつけて、娘であるリエット元王女を王宮へ呼んでいるらしい。

「だから来たの。明日には貴方の伴侶に会わせてくれるのでしょう? なんだかお熱を出したという話を聞いているわ。大事にしてあげないとダメよ」

 そんなことを元王女は言った。
 それから、白い月に照らされ、キラキラと眩しいほど湖面を輝かせている湖に彼女は視線をやっていた。

「姉上、それでもこのような場所に供の一人も連れずにいらしては危険です」

 侍女も連れず、高位貴族の夫人が、王宮内とはいえこのように寂しい場所に一人いることは危険極まりない。

「湖を見てみたかったの。相変わらず何もないわね。寂しい場所だわ」

 風に、リエットの金色の髪が揺れる。そして湖面にもさざ波が立っていた。

「何もない場所です。さぁ、姉上もお戻りになって下さい」

 散歩を切り上げ、自分達もリエットと共に王宮に戻るのがいいだろう。
 そんなことを思っていたアルバート王子の顔を見上げながら、リエットは言った。

「ねぇ、知っている、アルバート」

 何故、婚姻したばかりの末の弟王子にそんなことを話したのか分からない。
 だが、つい彼女は口にしてしまったのだ。

「この湖にはね、その昔、さらわれた女性が放り込まれて、以来ずっと浮き上がることなく、彼女はこの湖の中で沈んだままなのですって」



 
 リエットは、「誰にも話してはならないよ」と言う祖母からその怖い話を聞かされたのだ。
 二千年もの歴史がある、由緒正しいこの王家には、煌びやかで華々しい話だけではなく、ドロドロとした暗く陰惨な話も密かに伝わっていた。
 “怖い話”を聞くのが大好きだったリエットは、祖母が生きていた頃、彼女からしょっちゅう背筋が凍るような恐ろしい話を幾つも聞いていた。祖母は孫娘リエットを大層可愛がっており、せがまれるまま話してくれた。
 湖の中に沈んだ女性は、第三王子ハウルのような、素行の悪い王族に乱暴された女性だという噂がある。さらわれ、乱暴されたその女性は湖に放り込まれて、それっきり彼女の姿は消えてしまった。
 

「塔には“気の狂った姫”が閉じ込められていて、湖には女性が沈んでいるとか、なかなか凄い話だと思わないかしら、アルバート」
 
 話を耳にしたレネが、ぎゅうううとバンナムの手をきつく握り締めている。

「姉上」

 アルバート王子が不謹慎だと顔をしかめていると、リエットは楽しそうに「ふふふ」と笑っていた。
 風が彼女の金色の髪を大きく揺らした。

「王宮の隅にある、こんな小さな湖に、女性が沈められているなんて。なんて可哀想な事なのかしらとずっと思っていたわ。それを聞いて以来、私は時々湖に来ていたのよ」

 普通そんな話を聞いたのなら、気味が悪くなって近寄らない者が多いだろう。だが、怖い話が好きなリエットは少し感覚が違う女性のようだった。

 そしてその湖に、ルーシェは“魔素”で練り上げた魔力を叩きこんで、プカプカと魚たちを浮かび上がらせていたこともあった。今更ながら、ルーシェは自分の過去の行為を思い出して少し青くなっていた。

「おいで、ルー」

 話を聞いて大人しくなっているルーシェを気遣い、アルバート王子は小さな竜に手を差し伸べると、ルーシェは王子の胸元に飛び込んだ。その様子を見て、リエットは「あら、可愛い竜ね」と少しだけ羨ましそうにアルバート王子を見つめていた。

「戻りましょう、姉上。さぁ」

 湖のそばに居続けるのも、身体が冷えてよくない。
 それに、不用心すぎる。
 アルバート王子が促すと、リエットは頷いた。弟王子と一緒に湖のそばから離れようと歩いて行く。
 ショールを身に巻き付けながら振り返ると、湖面はまだ静かに輝いていた。
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