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【短編】
闇底に堕ちる (4)
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一瞬、その場にいた者達は、驚いて口を開けていた。
鋭い刃は、ハデスの首元深くに埋まり、ぽたぽたと真っ赤な血が流れ落ちる。
「…………え」
ロゼッタには戸惑いしかなかった。
どうして夫が現れて、そして血を流しているのだ。
手にしていたナイフは、深々と彼の首元にその柄だけ見せて埋まっている。
何故、手にしていた筈のナイフがそこに在るのか分からない。
理解できない。
そして、どうしてこんなに、たくさんの血を流しているのだ。
「……済まない……ロゼッタ」
どうして彼は詫びを口にするのか、分からない。
彼は、蒼白となって立ち尽くしているアルバヌスに言った。
刺し所が悪かったのだろう。ヒューヒューと息をして、もはや途切れ途切れであった。
「早く、ロゼッタを連れて行け。ロゼッタの、せいではない」
「ち……父上」
「早く行け」
ハデスに睨みつけられる。こんな状況でこの場を離れることはできないと思ったが、母親がガタガタと震えはじめるその異常に気が付き、アルバヌスは母親の肩を抱くようにしてその場を後にする。
その間、ラーシェは呆然と、突然目の前に現れた愛しい男の背中を眺めているしかなかった。
一方のハデスは安堵していた。
自分は間に合ったようだ。
屋敷の召使が慌てて騎士団の詰め所にやって来て、ロゼッタがラーシェに会いに行くという話を聞いた時、嫌な予感がした。
すぐさまラーシェが日中いる、娼館に向かったところ、路地に引きづられていく彼を見て、なおも慌てた。
そして妻が凶器を手に、それを振り上げた時、あとはもう、意識するよりも先に、体だけが動いていた。
彼を傷つけさせるつもりはなかった。
そして一方で、あれほど優しかった妻を豹変させたのは自分であると理解していた。
すべて自分が招いたことだった。
妻へ済まないと思う気持ちと共に、これ以上、この美しい青年のそばに自分がいられないその事実が悲しかった。
そして最期の時であるというのに、妻や子への想いよりも、ラーシェのことばかり考えてしまう、自分のその愚かさが分かっていた。
それほど、彼に夢中で、自分は最期まで彼のことを愛していたのだ。
愚かでどうしようもない騎士であると、皆がそう口にする。
それでもいい。
それでも、彼のそばにいられたら
ずっと、そばにいられたら、良かったのに。
ただ一つ心残りは、ラーシェを庇護するあのレブラン伯爵が吸血鬼ではないかという疑念が残されたことだった。
そんな魔物のそばに彼を置いていくことが、心配でならない。
自分がいれば、なんとしても彼を守ることができたのに。
以前、彼が口にしたように、一緒に逃げてもいい。
何もかも捨てて、新しい場所で新しい人生を彼と共に送る。
そんな夢のようなことが出来たのなら。
出来たのなら良かったのに。
もはや、それも出来そうにない。
やがてハデスは膝をつき、背を向けたまま倒れていく。
倒れたその場に大量の血が広がっていく。
何が起こったのか分からない。
どうしてハデスが現れて、どうして自分を助けてくれたのか分からない。
どうして、彼が倒れているのか分からない。
どうして、こんなにもたくさんの血を流しているのか。
どうして、彼が動かないのか、分からない。
「ハデス……」
彼のそばに近寄る。
彼のその目は開いたままだった。
手をそっとその頬にやる。
まだ温かい。その逞しい背中にも手をやる。
僕を愛していると言ってくれた人。
全てを捨てて一緒に逃げてもいいと言ってくれた人。
僕が、愛している人。
「嘘だ」
もう息もしていない。その心臓の鼓動は止まっている。
ぴくとも動かないではないか。
こんなにもあっけなく死んでしまうなんてことはない。
あれだけ僕を愛していると言っていたのに、そんなはずはない。
そんなはずはない。
嫌だ、彼が死んだなんて嫌だ。
絶対に絶対に嫌だ。
誰か、誰かハデスを助けて。
彼を助けてくれるのなら、僕は何でもする。
彼を助けてくれるなら、僕は全てを捧げてもいい。
全てをあげるから、彼を助けて。
全てを捧げるから、誰か、誰か彼を助けて。
その悲痛な声が奈落の底に届いた時に、闇の中で何かが返事をした。
悪魔の声がした。
「本当に全てを捧げてくれるのか」
深い闇底から、何かがゆっくりと音も無く、手を伸ばしてくる。
響き渡る声に涙に濡れた顔で、ラーシェはコクンと頷いた。それはどこか子供のような仕草だった。
「全部あげる。だから、ハデスを助けて」
その声は、オロバスという名の馬の頭をした悪魔のものであった。
悪魔オロバスは、美しい淫魔ラーシェのことを気に入っていた。
だから、助けてやろうと思った。
その全てを捧げさせて、魂すらも自分のものにしようと考えた。
それに、彼は利用できる。
「分かった。助けてやろう」
その言葉に、ラーシェは嬉しそうに笑った。
やがてハデス騎士団長の死体は、地面の中に沈み込んで消えていく。その血も一滴残らず、地面に吸い込まれるように消えていった。
そして路地に立っていた長い黒髪の美しい青年の姿も、闇の中に消えた。
後は何事もなかったように、静まり返った路地がそこにあっただけであった。
ハデス騎士団長の次男アルバヌスが、その路地に急いで戻ってきた時、父であるハデスの姿は消え去っていた。
そしてそれっきりハデス騎士団長の姿を見ることはなくなった。
時間が経つにつれ、長男エイディスと三男ロディウスの体調も快復し、まるで憑き物が落ちたように以前の彼らの姿に戻った。
そして、ラーシェという長い黒髪の美しい青年の記憶も、何故か霞がかかったように朧気になっていく。
自分達は病に罹っていたようだという認識で、二人共、騎士団に無事、復帰を果たしていた。
ハデス騎士団長の妻、ロゼッタも、ラーシェに関する記憶が曖昧になっており、幸いなことに、彼女は自分の手で夫を刺し殺したという記憶すらも、欠落させていた。
夫が行方不明になったことに胸を痛め、彼女はずっと屋敷で彼の無事を祈り、帰りを待つことになる。
愛しい夫は、もう二度と帰って来ない、そのことを知らずして。
鋭い刃は、ハデスの首元深くに埋まり、ぽたぽたと真っ赤な血が流れ落ちる。
「…………え」
ロゼッタには戸惑いしかなかった。
どうして夫が現れて、そして血を流しているのだ。
手にしていたナイフは、深々と彼の首元にその柄だけ見せて埋まっている。
何故、手にしていた筈のナイフがそこに在るのか分からない。
理解できない。
そして、どうしてこんなに、たくさんの血を流しているのだ。
「……済まない……ロゼッタ」
どうして彼は詫びを口にするのか、分からない。
彼は、蒼白となって立ち尽くしているアルバヌスに言った。
刺し所が悪かったのだろう。ヒューヒューと息をして、もはや途切れ途切れであった。
「早く、ロゼッタを連れて行け。ロゼッタの、せいではない」
「ち……父上」
「早く行け」
ハデスに睨みつけられる。こんな状況でこの場を離れることはできないと思ったが、母親がガタガタと震えはじめるその異常に気が付き、アルバヌスは母親の肩を抱くようにしてその場を後にする。
その間、ラーシェは呆然と、突然目の前に現れた愛しい男の背中を眺めているしかなかった。
一方のハデスは安堵していた。
自分は間に合ったようだ。
屋敷の召使が慌てて騎士団の詰め所にやって来て、ロゼッタがラーシェに会いに行くという話を聞いた時、嫌な予感がした。
すぐさまラーシェが日中いる、娼館に向かったところ、路地に引きづられていく彼を見て、なおも慌てた。
そして妻が凶器を手に、それを振り上げた時、あとはもう、意識するよりも先に、体だけが動いていた。
彼を傷つけさせるつもりはなかった。
そして一方で、あれほど優しかった妻を豹変させたのは自分であると理解していた。
すべて自分が招いたことだった。
妻へ済まないと思う気持ちと共に、これ以上、この美しい青年のそばに自分がいられないその事実が悲しかった。
そして最期の時であるというのに、妻や子への想いよりも、ラーシェのことばかり考えてしまう、自分のその愚かさが分かっていた。
それほど、彼に夢中で、自分は最期まで彼のことを愛していたのだ。
愚かでどうしようもない騎士であると、皆がそう口にする。
それでもいい。
それでも、彼のそばにいられたら
ずっと、そばにいられたら、良かったのに。
ただ一つ心残りは、ラーシェを庇護するあのレブラン伯爵が吸血鬼ではないかという疑念が残されたことだった。
そんな魔物のそばに彼を置いていくことが、心配でならない。
自分がいれば、なんとしても彼を守ることができたのに。
以前、彼が口にしたように、一緒に逃げてもいい。
何もかも捨てて、新しい場所で新しい人生を彼と共に送る。
そんな夢のようなことが出来たのなら。
出来たのなら良かったのに。
もはや、それも出来そうにない。
やがてハデスは膝をつき、背を向けたまま倒れていく。
倒れたその場に大量の血が広がっていく。
何が起こったのか分からない。
どうしてハデスが現れて、どうして自分を助けてくれたのか分からない。
どうして、彼が倒れているのか分からない。
どうして、こんなにもたくさんの血を流しているのか。
どうして、彼が動かないのか、分からない。
「ハデス……」
彼のそばに近寄る。
彼のその目は開いたままだった。
手をそっとその頬にやる。
まだ温かい。その逞しい背中にも手をやる。
僕を愛していると言ってくれた人。
全てを捨てて一緒に逃げてもいいと言ってくれた人。
僕が、愛している人。
「嘘だ」
もう息もしていない。その心臓の鼓動は止まっている。
ぴくとも動かないではないか。
こんなにもあっけなく死んでしまうなんてことはない。
あれだけ僕を愛していると言っていたのに、そんなはずはない。
そんなはずはない。
嫌だ、彼が死んだなんて嫌だ。
絶対に絶対に嫌だ。
誰か、誰かハデスを助けて。
彼を助けてくれるのなら、僕は何でもする。
彼を助けてくれるなら、僕は全てを捧げてもいい。
全てをあげるから、彼を助けて。
全てを捧げるから、誰か、誰か彼を助けて。
その悲痛な声が奈落の底に届いた時に、闇の中で何かが返事をした。
悪魔の声がした。
「本当に全てを捧げてくれるのか」
深い闇底から、何かがゆっくりと音も無く、手を伸ばしてくる。
響き渡る声に涙に濡れた顔で、ラーシェはコクンと頷いた。それはどこか子供のような仕草だった。
「全部あげる。だから、ハデスを助けて」
その声は、オロバスという名の馬の頭をした悪魔のものであった。
悪魔オロバスは、美しい淫魔ラーシェのことを気に入っていた。
だから、助けてやろうと思った。
その全てを捧げさせて、魂すらも自分のものにしようと考えた。
それに、彼は利用できる。
「分かった。助けてやろう」
その言葉に、ラーシェは嬉しそうに笑った。
やがてハデス騎士団長の死体は、地面の中に沈み込んで消えていく。その血も一滴残らず、地面に吸い込まれるように消えていった。
そして路地に立っていた長い黒髪の美しい青年の姿も、闇の中に消えた。
後は何事もなかったように、静まり返った路地がそこにあっただけであった。
ハデス騎士団長の次男アルバヌスが、その路地に急いで戻ってきた時、父であるハデスの姿は消え去っていた。
そしてそれっきりハデス騎士団長の姿を見ることはなくなった。
時間が経つにつれ、長男エイディスと三男ロディウスの体調も快復し、まるで憑き物が落ちたように以前の彼らの姿に戻った。
そして、ラーシェという長い黒髪の美しい青年の記憶も、何故か霞がかかったように朧気になっていく。
自分達は病に罹っていたようだという認識で、二人共、騎士団に無事、復帰を果たしていた。
ハデス騎士団長の妻、ロゼッタも、ラーシェに関する記憶が曖昧になっており、幸いなことに、彼女は自分の手で夫を刺し殺したという記憶すらも、欠落させていた。
夫が行方不明になったことに胸を痛め、彼女はずっと屋敷で彼の無事を祈り、帰りを待つことになる。
愛しい夫は、もう二度と帰って来ない、そのことを知らずして。
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