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11.違和感
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焼き上がったパンをいつも通り網の上に並べ終わると、ビアは厨房の窓際に頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めた。砂利道の向こうに生い茂る芝生。四季折々の花が植えられる花壇に、綺麗な水が汲める小さな井戸。……なんの変哲もない、いつも通りの風景だ。だがそこに、いつも通りやってくる男はいない。
滝壺での一件から一週間。テオドアはぱたりと姿を現さなくなった。あんなことがあったので仕方ないのかもしれないが、それでも厨房に顔くらい出してくれてもいいじゃないかと、ビアの中に小さな不満がつのる。
(べ、別に待ってるわけじゃないけれども、なんだか退屈だし、なんとなく据わりが悪いだけだし……)
それにほんの少しだけ寂しいかもしれない。そんなことを一瞬だけ考えて、慌ててぶんぶんとかぶりを振る。いやいや、何を考えているんだ自分は。すぐさま頭上でぱたぱたと片手を仰ぎ、己の勘違いを頭の中から振り払う。
(そ、そんなことより、仕事仕事――)
そう、今は絶賛業務中だ。ビアは窓にもたれかかっていた身体をガバリと起こすと、調理台の方を振り返った。網の上のパンがちょうどいい具合に冷めつつある。慌ててバスケットを取り出すと、その中に一つずつ丁寧に詰めていった。
(うんうん、今日も綺麗に焼けてる。丸パンはもうだいぶん慣れてきたなあ。)
次はもっと難しいパンを作ってみたいかもしれない。今度レーナに相談してみようか。にこにこしながら未来の自分に想いを馳せていた時だった。
「……ビア。」
その声に気分が上気してしまったのは、頬が紅潮してしまったのは、ただ単にいつも通りのことが起きたから安堵しただけだ。
ビアは勢いよく振り返ると、バスケットを台に置き、声のした方に駆け寄った。
「ノイマン副隊長!!」
いつも通りという名のパズルの最後のピースだったその男は、先ほどビアが頬杖をついていた窓辺に、組んだ両腕を乗せて佇んでいた。
組まれた両腕に顔を埋め、首を少し傾げながらこちらを見つめている仕草は、なんだかいつもと違って見える。甘える犬のような、それでいてちょっと近寄りがたいような……どう表現していいか分からない雰囲気が男の周りを包む。毎度溌剌とした声で登場する彼とは思えない、妙な色気がそこにあった。
「……あ、の…なんだか今日は、いつもと雰囲気違いますね。」
「ん、そうか?……ああ、私服だからかな。一応上着は取りに戻ったんだけど。」
言われてみれば確かに、今日のテオドアはいつもかっちり着こなしている軍服を身につけていない。かろうじて上着だけは肩にかけているが、北門をくぐる通行証がわりに持ってきただけなのだろう。服装は簡素なシャツとベストに地味なパンツというラフなスタイルだ。
「私服ですか。今日はお休みか何かだったんですか?」
「………ああ、まあそんなところかな。ここんところ働き詰めだったんで、休みがもらえてさ。久々に街の方に出てみたよ。」
そう言うとテオドアは身体を起こし、肩にかけたカバンから小さな紙袋を取り出した。
「はい、これ。……中見てみて。」
ビアは言われるがままにそれを受け取ると、おずおずと袋の口を開いてみる。
「………わあ…っ!!」
そこには金色の可愛らしいブローチが二つ入っていた。
「葉っぱの方はレーナさん、小鳥のついてる方はビアに。……毎度毎度美味しいもん作ってもらってるのに、野草だけってのも忍びないからさ。いつものお礼ね。」
金メッキなんだけどさ、鉱石出てきてるらしいから、剥げてきてもそれはそれで綺麗なんだって。んで、その色は全部ランダムだから、使い込んでからのお楽しみってことらしいよ。……まあ、全部店主のおっちゃんの受け売りだけどな。
照れ臭いのだろうか、口元を腕で隠しながら視線を逸らし、口早に話を続けるテオドア。その様子はとても微笑ましかった。
「ありがとうございます、ノイマン副隊長!!とても……とっても嬉しいです!!」
ビアが満面の笑みで元気よく答える。若草の瞳を細め、頬を桃色にして喜ぶ姿は、彼女の喜びが嘘偽りないことをありありと証明してくれた。
まるでその場に花が舞ったようなその笑顔を見て、テオドアはそれまで逸らしていた視線を戻し、ビアに釣られるように微笑みを返してくれる。
(………………あれ?)
ビアの胸いっぱいに満たされた温かな気持ち。しかしその瞬間、冷たい雫がぽたりと落とされたような、不思議な感覚が広がる。
何かが、おかしい。
テオドアがハーブと菓子のやりとりについて、「見返りが大きすぎる」と気後れしていたのは確かだ。レーナもビアもそんなこと全然気にならなかったが、彼は度々その話を口にしては、いつも申し訳なさそうにしていた。
なんでも騎士団の中でメイドに金銭の発生する贈り物をしてはいけないという規律があるらしい。金銭は発生しないというテオドアの苦肉の策で、出先で見つけた綺麗な花や砂、貝殻などを彼からもらったことがある。ビアはそれだけでもすごく嬉しかったのだが、テオドアの気持ちはあまり晴れないようだった。
そんなテオドアでも、規律を破ることは絶対にしなかった。
律儀にきまりを守り続ける男。そんな人が、ここにきて一体何故……
(……それに、なにより)
ビアの瞳がじっとテオドアの顔を捉える。
そう、この違和感が拭えない理由はなにより、彼の笑い方がいつもと違うからだ。
瞳に映るテオドアの笑顔は、どこか寂しそうだった。快活そうににかっと笑ういつものテオドアはそこにいない。
「………あの、ノイマン副隊長。何かありましたか?」
ビアがおそるおそる尋ねれば、テオドアは一瞬目を見開き、バツが悪そうな苦笑を浮かべた。
「……あー、参ったなあ。そんなに分かりやすかった?」
「やっぱり何かあったんですね。」
「……………大したことじゃないよ。明後日から仕事で大きな遠征が入っちゃって、ちょっとばかし憂鬱なだけ。」
ぽりぽりと頭をかきながら、こともなげにそういう男。その顔を、仕草を、ビアはただじっと見つめていた。
嘘の下手な男だと思った。
あからさまに目を逸らして、歪な笑顔は簡単に綻んで、視線はずっと下げたまま。
こちらの目は見ない。絶対に見ない。こんなに見つめているのに、見ない。
いったいどうして隠しおおせると思ったのか。
(本気で私を騙したいなら、いつもみたいに無邪気に笑ってよ……)
目尻を下げて、白い歯を見せて、にかっと、嬉しそうに――
一向に目を合わせてくれないテオドアを、それでもビアは一心に見つめてみせる。喉元まで出かかったその思いは、しかしなぜだかその先には到達しない。
吐き出したかった言葉は結局、唇からこぼれる事なく彼女の腹の奥に消えてしまった。
「……それじゃあ、もう用が済んだからそろそろ帰るよ。そっちのブローチはレーナさんに渡しといて。」
ビアが言うことを聞かない身体と闘っているうちに、テオドアが先に会話を締めてしまった。いつもより足早にその場を去るテオドアの様子は、これ以上の会話を拒否されているような気がして、胸がきゅっと締め付けられる。
北門に向かって歩く背中が、窓辺からだいぶん離れた時だった。
「……ノイマン副隊長っ!!」
気後していた身体が、やっとの思いで声を発する。それは自分で思っていたよりも随分大きな声だった。
名前を呼ばれたことに気づいたテオドアがくるりと振り返る。だいぶ遠のいてしまったが、それでも柘榴の双眸がこちらを見ているのを確認できた。
「……またっ、厨房に、顔を見せに来てくださいね……っ!!」
かろうじて出てきた言葉を、テオドアに聞こえるように、精一杯大きな声で伝える。本当はもっと言いたいことがあったのだが、なぜか出てきたのはこれだけだった。
無事聞き届けたのであろう。テオドアは片手をひらひらと振りながら、くしゃりと笑って見せた。
ビアの胸にちりりとした痛みが走る。
その目が捉えた男の笑顔は、やっぱりどこか悲しそうだった。
滝壺での一件から一週間。テオドアはぱたりと姿を現さなくなった。あんなことがあったので仕方ないのかもしれないが、それでも厨房に顔くらい出してくれてもいいじゃないかと、ビアの中に小さな不満がつのる。
(べ、別に待ってるわけじゃないけれども、なんだか退屈だし、なんとなく据わりが悪いだけだし……)
それにほんの少しだけ寂しいかもしれない。そんなことを一瞬だけ考えて、慌ててぶんぶんとかぶりを振る。いやいや、何を考えているんだ自分は。すぐさま頭上でぱたぱたと片手を仰ぎ、己の勘違いを頭の中から振り払う。
(そ、そんなことより、仕事仕事――)
そう、今は絶賛業務中だ。ビアは窓にもたれかかっていた身体をガバリと起こすと、調理台の方を振り返った。網の上のパンがちょうどいい具合に冷めつつある。慌ててバスケットを取り出すと、その中に一つずつ丁寧に詰めていった。
(うんうん、今日も綺麗に焼けてる。丸パンはもうだいぶん慣れてきたなあ。)
次はもっと難しいパンを作ってみたいかもしれない。今度レーナに相談してみようか。にこにこしながら未来の自分に想いを馳せていた時だった。
「……ビア。」
その声に気分が上気してしまったのは、頬が紅潮してしまったのは、ただ単にいつも通りのことが起きたから安堵しただけだ。
ビアは勢いよく振り返ると、バスケットを台に置き、声のした方に駆け寄った。
「ノイマン副隊長!!」
いつも通りという名のパズルの最後のピースだったその男は、先ほどビアが頬杖をついていた窓辺に、組んだ両腕を乗せて佇んでいた。
組まれた両腕に顔を埋め、首を少し傾げながらこちらを見つめている仕草は、なんだかいつもと違って見える。甘える犬のような、それでいてちょっと近寄りがたいような……どう表現していいか分からない雰囲気が男の周りを包む。毎度溌剌とした声で登場する彼とは思えない、妙な色気がそこにあった。
「……あ、の…なんだか今日は、いつもと雰囲気違いますね。」
「ん、そうか?……ああ、私服だからかな。一応上着は取りに戻ったんだけど。」
言われてみれば確かに、今日のテオドアはいつもかっちり着こなしている軍服を身につけていない。かろうじて上着だけは肩にかけているが、北門をくぐる通行証がわりに持ってきただけなのだろう。服装は簡素なシャツとベストに地味なパンツというラフなスタイルだ。
「私服ですか。今日はお休みか何かだったんですか?」
「………ああ、まあそんなところかな。ここんところ働き詰めだったんで、休みがもらえてさ。久々に街の方に出てみたよ。」
そう言うとテオドアは身体を起こし、肩にかけたカバンから小さな紙袋を取り出した。
「はい、これ。……中見てみて。」
ビアは言われるがままにそれを受け取ると、おずおずと袋の口を開いてみる。
「………わあ…っ!!」
そこには金色の可愛らしいブローチが二つ入っていた。
「葉っぱの方はレーナさん、小鳥のついてる方はビアに。……毎度毎度美味しいもん作ってもらってるのに、野草だけってのも忍びないからさ。いつものお礼ね。」
金メッキなんだけどさ、鉱石出てきてるらしいから、剥げてきてもそれはそれで綺麗なんだって。んで、その色は全部ランダムだから、使い込んでからのお楽しみってことらしいよ。……まあ、全部店主のおっちゃんの受け売りだけどな。
照れ臭いのだろうか、口元を腕で隠しながら視線を逸らし、口早に話を続けるテオドア。その様子はとても微笑ましかった。
「ありがとうございます、ノイマン副隊長!!とても……とっても嬉しいです!!」
ビアが満面の笑みで元気よく答える。若草の瞳を細め、頬を桃色にして喜ぶ姿は、彼女の喜びが嘘偽りないことをありありと証明してくれた。
まるでその場に花が舞ったようなその笑顔を見て、テオドアはそれまで逸らしていた視線を戻し、ビアに釣られるように微笑みを返してくれる。
(………………あれ?)
ビアの胸いっぱいに満たされた温かな気持ち。しかしその瞬間、冷たい雫がぽたりと落とされたような、不思議な感覚が広がる。
何かが、おかしい。
テオドアがハーブと菓子のやりとりについて、「見返りが大きすぎる」と気後れしていたのは確かだ。レーナもビアもそんなこと全然気にならなかったが、彼は度々その話を口にしては、いつも申し訳なさそうにしていた。
なんでも騎士団の中でメイドに金銭の発生する贈り物をしてはいけないという規律があるらしい。金銭は発生しないというテオドアの苦肉の策で、出先で見つけた綺麗な花や砂、貝殻などを彼からもらったことがある。ビアはそれだけでもすごく嬉しかったのだが、テオドアの気持ちはあまり晴れないようだった。
そんなテオドアでも、規律を破ることは絶対にしなかった。
律儀にきまりを守り続ける男。そんな人が、ここにきて一体何故……
(……それに、なにより)
ビアの瞳がじっとテオドアの顔を捉える。
そう、この違和感が拭えない理由はなにより、彼の笑い方がいつもと違うからだ。
瞳に映るテオドアの笑顔は、どこか寂しそうだった。快活そうににかっと笑ういつものテオドアはそこにいない。
「………あの、ノイマン副隊長。何かありましたか?」
ビアがおそるおそる尋ねれば、テオドアは一瞬目を見開き、バツが悪そうな苦笑を浮かべた。
「……あー、参ったなあ。そんなに分かりやすかった?」
「やっぱり何かあったんですね。」
「……………大したことじゃないよ。明後日から仕事で大きな遠征が入っちゃって、ちょっとばかし憂鬱なだけ。」
ぽりぽりと頭をかきながら、こともなげにそういう男。その顔を、仕草を、ビアはただじっと見つめていた。
嘘の下手な男だと思った。
あからさまに目を逸らして、歪な笑顔は簡単に綻んで、視線はずっと下げたまま。
こちらの目は見ない。絶対に見ない。こんなに見つめているのに、見ない。
いったいどうして隠しおおせると思ったのか。
(本気で私を騙したいなら、いつもみたいに無邪気に笑ってよ……)
目尻を下げて、白い歯を見せて、にかっと、嬉しそうに――
一向に目を合わせてくれないテオドアを、それでもビアは一心に見つめてみせる。喉元まで出かかったその思いは、しかしなぜだかその先には到達しない。
吐き出したかった言葉は結局、唇からこぼれる事なく彼女の腹の奥に消えてしまった。
「……それじゃあ、もう用が済んだからそろそろ帰るよ。そっちのブローチはレーナさんに渡しといて。」
ビアが言うことを聞かない身体と闘っているうちに、テオドアが先に会話を締めてしまった。いつもより足早にその場を去るテオドアの様子は、これ以上の会話を拒否されているような気がして、胸がきゅっと締め付けられる。
北門に向かって歩く背中が、窓辺からだいぶん離れた時だった。
「……ノイマン副隊長っ!!」
気後していた身体が、やっとの思いで声を発する。それは自分で思っていたよりも随分大きな声だった。
名前を呼ばれたことに気づいたテオドアがくるりと振り返る。だいぶ遠のいてしまったが、それでも柘榴の双眸がこちらを見ているのを確認できた。
「……またっ、厨房に、顔を見せに来てくださいね……っ!!」
かろうじて出てきた言葉を、テオドアに聞こえるように、精一杯大きな声で伝える。本当はもっと言いたいことがあったのだが、なぜか出てきたのはこれだけだった。
無事聞き届けたのであろう。テオドアは片手をひらひらと振りながら、くしゃりと笑って見せた。
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