華と毒薬

アザミユメコ

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二十八 血色の花畑

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 翌朝、志千しち桜蒔おうじ行きつけのミルクホールに行くと、劇作家はテーブルに突っ伏して寝ていた。

「おはよー。桜蒔先生、起きろー」
「やかましい! まだ朝じゃ!」
「先生が午前に来いっていったんだろ」

 開店と同時にやってきて二度寝していたらしく、なんとも迷惑な常連客だ。
 女給に濃い目の珈琲を頼み、寝ぼけまなこの桜蒔がちびちびと飲むのを見守る。

「ももは置いてきたんよな?」
「ああ、今日は体の具合が良くなさそうだし、家にいるよ」
「自分で具合悪くしといて、他人事みたいにいいよる。シッチーは騎乗位派か」
「はっ!? どっかで覗いてた!?」
「覗くか! 朝から顔がニヤニヤしてわかりやすいんじゃ!」
「に、ニヤニヤはしてたかもしんねえけど。騎乗位って、どこから……」
「見おろされるの、好きなんじゃろ? 童貞卒業おめでとさん」

 志千は咄嗟とっさに否定もできず、目を泳がせた。
 こんなくだらないことで名探偵っぷりを発揮しないでほしい。

「腰を抜かしてくれてちょうどええわ。今日は連れていくつもりなかったしな」

 昨日の話し合いのあと、殴り込みに行くから一人で来いと志千だけが呼びだされた。

「また刃物なんか持ちだされたら、わしじゃどうにもならんけん。シッチーは護衛じゃ。ももは喧嘩っ早いわりに非力じゃし」
「俺だって武術の心得とかねえよ」
「男色の心得はあるのに?」
「うるせー、初恋拗らせ中年!」
「うっ、それ効くけんやめい」

 すんすんと泣くふりをしながら、桜蒔はしおらしくいった。

「まあ、嘘じゃ。シッチーをまた危ない目に遭わしたらももに嫌われる。相手が得物だしてきたら一緒に逃げようなぁ」
「おうよ。俺も簡単には死ねない理由ができたから、先生を置いていくかもしんねえけど」
「嫌じゃあ!」

 くだらない言い合いが一段落し、ようやく本題にはいった。

「そんで、覚えとるか、箪笥たんす抽斗ひきだしにあったもん」
「悲しみを忘れられる薬……だっけ」
「そうじゃ。効果は多幸感や万能感、精神の高揚、鎮痛、夢の延長のような幻覚、柔らかな眠り──」

 つまりは現実から逃避するための毒薬だ。
 耽溺すれば依存や禁断症状に苛まれ、徐々に人を壊していく。

「あれの原料は罌粟けしっちゅう植物から採れる液体で、じつは日本でも西のほうで大量に栽培しとるんじゃけど、あくまでも輸出用で国が管理しとる。それ以外は厳罰対象じゃし、そうそう一般人の手には渡らん。女優引退後にそんな金があったとも思えん。誰か流しとる奴がおったはずなんじゃ」

 現役時代の稼ぎを食いつぶして暮らしており、新しい着物を買えない程度には生活苦だったはず。

「無償で渡してたってことか」
「じゃけえ無関係な売人から買ったわけでもない。廃人にするのが目的だったんじゃろうな。十年前、千代見ちよみが誰かにもらったっていう葡萄酒を毎晩のように呑んどったことがあったんじゃが」
「それも薬入り?」
「アルコホルに溶かしたのを葡萄酒で希釈したもんじゃと思う。千代見の様子が少しずつおかしくなってきたのはあの頃。もう確かめようもないが、今思えば、あの葡萄酒を渡した奴が黒幕じゃ」

『アノ時レタハズナノニ ドウシテ?』
『モウ決シテ咲カナイヤウニ 今度ハノ手デ貴女を手折タオラウ』

 二年前に送られてきた脅迫状。
 いずれも残菊の正体は百夜であり、真犯人の謀略どおり本物は舞台からとうに下りてしまっているのに。
 十年が経過してもなお、表にでれば即座に引きずり下ろそうとするほどの憎悪。

 しかも、今回は嫌がらせや脅迫だけでは済まず、刃物を持った男を使って実際に排除しようとしている。

「殴り込みって、どこに行くんだ?」
「一番の手がかり、狂い菊の生産元に決まっとるじゃろ。どこで手に入れたにしろ、出処でどころはあそこじゃ。駒を捕まえる前に勘づかれたくなくて、後回しにしとったが」
「栽培所か……」
「気ぃ進まなそうじゃの」
「ああ、先生が蝶子さんたちを連れていきたくない理由がわかったよ。残菊が薬物中毒だったのもそうだけど……。抽斗の中にあった薬のにおい、最近嗅いだ覚えがあるんだ」


 ***


 浅草の外れにある、こじんまりとした元活動写真撮影所。繁華街の喧騒から離れ、木々に囲まれた静かな場所だ。
 庭に繁っている野菊はまだ咲いていなかった。

 正面玄関は施錠されていたため、庭の奥にある管理人室に向かう。

萩尾はぎおのじいさん、いねえな」

 鍵束が仕舞われている棚は空だった。
 ならば利用中で、屋内にいるのかもしれない。

「この建物ん中、どうなっとる?」
「玄関から入ってすぐ衝立ついたてで仕切られた花壇が並んでて、左の扉は撮影のセットとか人形が置いてある部屋。右の扉は異国製の製氷機がある機械室らしいんだけど、危ないからってそんときゃ入れてもらえなかった」

 一度中に入ったあとで改めて外観を眺めてみると、内部の印象よりもずっと建物が大きい気がする。

「なんか、外から見たらもっと広いはずなんだよなぁ。機械室の間取りがかなり大きいのかもしんねえけど、もしかしたらもう一部屋くらいあるんじゃねえかな」

 もちろんすべてを見せたといわれたわけではないので、単なる物置などが存在する可能性はある。

 だが、志千がそう思いたかっただけだ。
 蝶子が懐いているあの老人が、なにかを隠していると考えたくなかったのである。

 建物の真裏には、南京錠のかかった裏口があった。
 隙間からかすかに特徴的な香が漏れでている。

「間違いない。あのにおいだ。線香というか、薬品みたいな……」
「ただ菊を栽培しとるだけなら、作業中に鍵をかける必要もないよな。ぜひ取り押さえたいのう。シッチー、裏口のほうなら蹴破れる?」
「やっぱり体を張る要員か」

 正面玄関の枠は鉄製だが、裏口の扉は木製だ。雨風に晒され、塗料が剥がれかかっている。
 南京錠の横あたりにぐっと力を込めて踏みしめてみると、かなり劣化しているのがわかった。

 深呼吸して、思い切り扉を踏み抜いた。

 蹴り倒すとまではいかないが、鍵の周辺に足より一回り大きな穴があいた。

「さっすが、脚長ーい! 抱かれたい男第一位は違うのう!」

 茶化しながら、桜蒔が壊れた扉を開けた。
 入ってすぐの部屋は思いのほか狭く、炊事場のような造りになっている。

 かまどや流しが備えつけられているが、あきらかに調理が目的ではない場所だ。

「どこで仕入れとるんかと思ったら、お手製かい。帝都中の売人を当たったこともあるが、どおりで無駄足だったはずじゃ」

 なにかを混ぜたり集めたりした跡のある台とたらい
 棚には農薬や肥料らしき薬品も並んでおり、室内に充満する臭いを吸い込むと吐き気がしてくる。

 証拠となる現物がないかと、二人で室内を物色していると、木箱に大量の葡萄酒の瓶を見つけた。

 手に取ろうとしたそのとき──別の部屋に繋がる内扉が開いて、以前にも会ったことのある老人が姿を現した。

「何事でしょうか」
「おう、萩尾。久しぶりじゃの。わしが鶴月座かくげつざを抜けて以来か」
「坊っちゃん……」

 老人の腕に抱えていた狂い菊の束が、はらはらと床に落ちる。

「その花、最近誰かに渡した? 教えてくれん?」

 萩尾は生花を拾いながら、落ち着きを取り戻した口調で答えた。

「いつもどおりですよ。配送業者と、座長のご自宅だけです」
「その業者に渡しとるんは、ほんまに菊だけなんかのう。あのスカスカの客席……鶴月座、経営やばいんじゃろ?」

 黙秘した萩尾をその場に残し、奥の部屋に向かった。

「ここが機械室か」

 志千が遅れて入っていくと、室内には小型の戦艦のような重苦しい機械が鎮座していた。

 壁側に大量の氷が積まれており、壁に熱を遮断する素材が使われているのか、隣と比べて室温はあきらかに低い。
 氷の影響で湿度も高く、真冬の雪に埋められた気分になる。

 機械の反対側は排熱していて、冷気と熱気の両方を空気孔を通して各部屋に送り、気温を高くも低くもできるよう調整しているようだ。

「見世物のためだけに、この大掛かりな機械をねえ……。菊人形なんか昔と比べて下火じゃし、入場料も雀の涙。どう考えても赤字よな。かつては栄華を誇った一座も、看板女優を失って以降は低迷中。こがいな余裕があるとは思えんな」

 さらに進んで、菊の花壇が並ぶ広い部屋にでた。
 前回のように正面玄関から入れば、この場所に繋がるはずだ。

「あっちは人形やセットの置き場だった。うーん、目測だけど、やっぱりもう一部屋ある気がするんだよな」

 だが、目に入る場所に他の出入り口はない。

 萩尾がさきほどの炊事場からでてきたが、不気味なほど静かに立ち尽くしているだけだ。
 勝手に探索する志千たちを止めようとはしなかった。

「桜蒔先生、どこかで人の気配がする」
「隠し部屋か。シッチー、その衝立、蹴破って」
「またかよ!」

 半ばヤケになりながら、なるべく花を踏まないようにして菊の咲く花壇に侵入する。

 衝立を破ると、奥の壁にぽっかりと穴が空いているのを発見した。かがめば大人の男でもどうにか入れるくらいの大きさだ。

「大当たり! 壁際に衝立があるのは位置おかしいもんな」
「これなら破らなくても、どければよかったじゃん」
「嫌じゃ。わしは今な、結構はらわた煮えくりかえっとるし、暴れたい」
「自分で暴れてくれよ……」

 穴をくぐると、一面に真っ赤な花畑が広がっていた。

 さきほどからずっとまとわりついて離れないあの香を、さらに純度を高めて濁りを失くしたようなにおいだ。
 鼻の奥をついてむせ返りそうになる。

 菊とは違う、毒々しい血色。
 この花たちの効用を知っているからこそ、そう感じるのだろうか。

 ここが──薬の原料となる罌粟けし畑だ。

 密に敷き詰められた花畑の中心に、黒い着物の女が立っていた。
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