華と毒薬

アザミユメコ

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二十五 男色の心得(前編)

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「そんでさ、めでたく想いは通じたんだけど、もうひとつ悩みがあって」
「また来た……」

 浅草デートから数日後。
 志千しち桜蒔おうじが入り浸っている六区のミルクホールに押しかけ、珈琲を注文し、同卓に居座っていた。

 心底面倒そうな顔をされているが、志千はお構いなしに話をつづける。

「あの話の流れで、まだわしに恋愛相談するんかい」
「話って、こないだの? 先生が俺らを利用していようと、全員の利害は一致してんだからべつによくねえ?」
「大雑把な奴……。ちゅうか、おどれはももしか目にはいってなくて、わしに興味ないだけじゃろ!?」
「先生の目的がなんだとしても、俺は俺で百夜が最優先だから、お互い様ってだけだよ」
「はぁ、まあええわ。変に野次馬根性だされても、それはそれで面倒じゃし」

 桜蒔の事情にも関心がないわけではないが、初代残菊を捜しているのはどちらも同じだ。

 たとえあてがわれたのだとしても、百夜ももやを好きな気持ちは変わらない。
 そして、想いが通じたゆえの苦悩を抱えていた。

「で、坊やの悩みはなんじゃって?」
「俺はさ、今までふつうに生きてきたのに、誰のことも特別な意味では好きにはならなかったんだよ。でも百夜はそうじゃないだろ? 最初に深く関わろうとしたのがたまたま俺だったからで、順番が違えば異性とか、他の男を好きになったかもしれない。これって、鳥のひなの刷り込みみたいなもんじゃねえのかなって思えてきた」

 優しくしてくれる相手がまだ現れていなかっただけで、百夜はべつに志千じゃなくてもいいかもしれない。
 そう考えると胸が苦しくなって、いっそこのまま、あの家に閉じ込めておきたいような醜い感情が湧いてくる。

 でも、それは間違っている。
 自分で手を引っ張っておいて、裏切る行為に等しい。
 わかっているからこそ苦しいのである。

「気づいてしもうたか……」
「えっ、否定してくれねえの」
「ももがいつか広い世界を知ったら、おどれじゃない奴を選ぶんじゃないかってことじゃろ? そりゃあ可能性でいえば、なんぼでもあり得るけえのう」

 未来など桜蒔にもわかるはずない。
 当たり前のことをいっているのに、不安は止まなかった。

「なにかを望むことに慣れてないあいつがどうしたいのかって、まだいまいちわかってねえんだよ。別の比較対象がでてきたときにも、俺を選んでくれるのかな」
「もう手に入れとるくせに、欲深さんめ……」

 桜蒔は煙管きせるくわえ、書きかけの原稿を指先でこつこつと叩いた。

「そうさのう。もしいつか、ももの目が他に向いたら……」

 出来が気に入らなかったらしく、原稿用紙をぐしゃぐしゃと丸めて左手でぽいとゴミ箱に投げる。

「そんときゃそんときで、潔くフラれたらええじゃろ。たまたま最初に惚れられて棚ぼたラッキーじゃったくらいに思っとけ」
「はぁ!? そんなふうに思えるわけ──」
「じゃあ、いちいち悩むなやそんなの。先のことなんか考えてもわからんのに無駄じゃ無駄。せめて初めての男になれるように早めに食っとけよ! ワハハ」
「相談相手間違えたかもしんねえ……」

 実際、百夜が他の奴を好きになる前に出会えたのは運が良かったのだろう。
 だが、このまま失くしたくない。だから悩んでいるのだ。

「とどのつまり、誰かに取られたらどうしよう~ってめそめそしとるけど、そうなったからって諦められんのじゃろ?」
「無理だね。だから、絶対に俺から離れられないようにしたい」
「うわ、重……」

 若干引きながらも一応考えてくれているようで、桜蒔は閃いたような顔をした。

「ほいじゃあ、先走って離れたときの心配するより、先にヤることあるじゃろが」
「やること?」
「まあ待ちんさい。いい教本をやるわ」

 そういって床に放り出していた本の詰まった鞄から、一冊を抜き取った。

「教本って……恋愛指南書とか?」
「ほい、これ」

 桜蒔から受け取った本の表紙には、『男色の心得』という文字が並んでいた。
 ぱらぱらと中身をめくってみると、いわゆる男同士の致し方がつづられている。

「なんでこんなもの持ってんだよ!」
「今書いとる脚本の資料じゃ。原作は金持ちの老人が美青年を見初める小説で、ぴったりの俳優を探しとるんじゃけど、なかなか理想どおりの奴がおらんのよなぁ」
「これでどうしろと!?」
「そりゃもちろん、体を籠絡ろうらくするに決まっとるじゃろ。もー他の相手は考えられんってくらいに、ズブズブにまらせたらええ」

 体を籠絡。
 つまり、溺れさせろということか。

「先生、発想が中年じゃね?」

 そう返すと額に万年筆が飛んできた。

「いや、でもなぁ……」
「おん? 怖じ気づいたか?」
「ちょっと想像してみたんだけど、俺の百夜が俺に汚されるのが耐えられない」
「なにいうとるん? 重症じゃのー」

 桜蒔はふたたび原稿用紙に視線を落としながらいった。

「大事なんはわかったけど、物分かりのいいふりしながら指を咥えて見守りたいか? そのうち他の奴にかっさわられてやられても知らんぞ」
「もっと無理。考えたくもねえ」
「ほいじゃ気張って、さっさと自分のもんにしとけ。ぐだぐだしとったら後悔するで」

 そして、意地の悪い笑顔を浮かべる。

「シッチーはせっかちじゃけえ、早漏そうじゃなー」
「ちっげえし。いや試したことないから知らねえけど!」
「じゃーこれで勉強して、頑張りんさい」

 体良ていよく追いだされたような気もするが。
 執筆に戻った桜蒔の邪魔をしないよう、志千は店をでた。


 ***


 牡丹荘に帰ったあとも、志千は悶々もんもんと思い悩んでいた。
 当初の悩みから移り変わり、桜蒔にいわれたことが頭をぐるぐるまわっている。

 逃げられたくないなら、夢中にさせろ。
 本当にそんな単純な解答でいいのだろうか。

「いや……そうじゃねえな」

 結局、人を繋ぎ留めておける魔法など存在しない。
 桜蒔の本意は「だからといっておくしていては後悔する」という一点だ。

 借りてきた本を自室で読んでいると、百夜が撮影から帰ってきた。

 着替える物音がしたあと、志千の部屋にやってきて、隣に座る。
 あの日以降自然と一緒にいる時間が増えて、それだけでもひたすらに幸福だった。

「なにを読んでいる?」
「や、ちょっと、桜蒔先生に借りて……」
「なんしょくの、こころ……?」
「心得な。でも肝心な部分は読めちゃったかー」

 好きだと伝えてまだ数日しか経っていない。
 堂々とこんなものを読んでいては体目当てだと思われてしまう。

 どうやって弁解しようか考えていると、百夜がとんでもないことをいいだした。

「おれも内容が知りたい。朗読してくれ」
「これを!? どんな顔して!?」
「いいから、早く」

 真面目な顔で促されて、しかたなく最初のページから読みあげた。

「えー、男同士で致す前には準備が必要で……初穴の場合は数日かけて周縁から揉みほぐし……差し入れる際には必ず唾を塗り込めるか、丁字油ちょうじあぶらあるいはぬめり薬を使用し……自作する際の材料は卵白や葛粉くずこを混ぜ合わせたもの、またはふのりなど……」
「へえ」
「へえじゃねえ、なんの罰なんだよこれ……」

 以降は口淫の章、体位の章などの解説がつづく。
 あらかた読み終えて本を閉じると、変な汗が引いてどっと疲れがでた。

「志千は、おれとこういう行為がしたいか?」
「へっ」

 そのうえ、この質問だ。
 百夜が真剣な声だったため、ちゃんと考えて答えることにした。

「抱きしめたり、接吻せっぷんしたり、もっと触れたいとは思ってるけど……。今まで人を好きになった経験がなかったから、この欲求の行き着く先を具体的に想像できないっつーか」

 正確にいうと──やけに親切丁寧な本のせいで、かすみがかっていた知識がたったいま具体化してしまった。
 だが、単純な色欲よりも「逃げられないようにしたいから」なんて気持ちで手をだしたら、もっとたちが悪い気がして答えにきゅうしているのだ。

「ちょっと自分に正直になるから待って」
「わかった。難儀なやつだな」
「したいか、したくないかといえば……いろんなもんを差し引いても、やっぱりしたい」
「べつに試してもいいぞ」

 平然とした顔でいうものだから、志千のほうが度肝を抜かれた。

「そういうの、他の奴には」
「いうわけないだろう。毎度、心配しすぎだ」
「でも、ぬめり薬だっけ、準備が必要なんだろ」
「ふのり糊なら洗い張りに使ったばかりだから、台所にいけばある」

 蝶子も夕飯の材料を買いにいっており、家には二人きりだ。お膳立ては整ってしまっていた。

「まあ、気が乗らないならいいが」
「そうじゃねえよ。そんなわけない。なんかおまえに悪い気がして」
「貴様、もしかして、体を重ねると一方的におれを汚すとか思い込んでいないか?」
「う。当たってる、と思う」
「夢を見すぎだな。よく見ろ。おれはただの人間だから」

 肩からするりと着物がはだけ、なめらかな肌が露出した。
 真っ白で細い腰に、つい視線を奪われる。

「一人で思い悩んでいるみたいだが、おれだって怖いんだ。志千がいつか心変わりするんじゃないかと不安になる」
「しないよ。無理に体を差し出さなくても、しねえから」
「無理にじゃない」

 少しむっとして、袖でぺしっと志千の頬を叩いた。

「自分を蔑ろにしているわけでもない。もっとおれの意思を真剣に受け取れ。志千だったら構わないといっているんだ」

 そんなことをいわれて抑えられるわけがない。
 気がついたら抱き寄せて、口を塞いでいた。
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