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十 野良猫
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申し訳程度のノックと声掛けがあり、蝶子が襖から顔をだした。
「おや、めずらしい。ももちゃんが人前で熟睡してるなんて。──で、しちちゃんはなにしてるんだい?」
「ももちゃん寝ちまって暇だから、遊んでた」
なんのことはない、百夜の長すぎる髪を志千が勝手に結っていただけである。
三つ編みにして背中に垂らし、いつも顔を隠している前髪をどうにか流して整える。
「よし、できた。起きたら怒られそうだけど、リボンもつけてやろ」
「ふふふ、お姫様みたいだねえ」
「口を開かなけりゃあな……。普段は野良猫みてえに威嚇してくるし」
その野良猫がはじめて傍に寄ってきて、静かに眠っている。
だから起こさないようにこっそりと毛並みを撫でてみたくなった。そんな心境だ。
「ねっねっ、ウチもやってー」
「蝶子さんは自分で結ったほうが上手いだろ?」
「そおいう問題じゃないよ。やだやだ、乙女心がわかってないんだから」
乙女心とは少し違う気もするが、いつも世話をしてくれている家主だ。たまにはお返しもいいだろう。
「このリボンを使っておくれね」
「はいよ。承った」
蝶子は普段二本のおさげにしている。せっかくなので編んで輪っかをつくり、上と下にリボンを飾った。
女学生に人気のマガレイトという髪型だ。
「ずいぶん手慣れてるねえ」
「俺の家は五人きょうだいで、妹が二人もいるからな」
「しちちゃん、次男坊だろ?」
「なんでわかるんだよ」
「世話焼きってほどじゃないけれど、絶妙に面倒見がよくて、期待に応えようとするのが二番目っぽいかねえ。あと自信家に見えて周囲の空気を読んでる感じとか」
「…………」
好き放題いわれているが、だいたい合っていて言い返せない。
蝶子とあれこれ遊んでいるうちに百夜が目を覚ました。
「うるさい。なぜこの部屋で騒ぐんだ」
「よう。お目覚めか、お姫様」
「……なんだこれは」
毛先に細いリボンが結ばれているのに気づき、わずかに顔をしかめる。
「なにって、リボン。こちらは南蛮渡来の絹を使った一級品でございます」
「まあ、素敵だねえ。ただの端切れで作ったやつだけどね」
「……雑な設定で喋るな」
もっと文句を言いたげだったが、寝起きのせいで思考がついてきていないらしい。
「ねえ、ももちゃん。暗くなる前に菊をもらいにいきたいんだけど、いいかい?」
「菊?」
「うん。しちちゃんも行こうよ。年中咲いている栽培所があるって話したろ。この部屋の花もちょっと萎れてきたしね」
そういえば面白いものが見られるといっていたが、栽培所で花の他になにがあるのか想像もつかない。
簡単に支度をして一階におりようとした直前、百夜に引き留められた。
「待て。行くのはいいが、この髪を解いていけ」
「えーなんでえ。いいじゃん」
「顔が見えすぎる」
そうしたくて結ったのだが、本人は不満そうだ。
「じゃあこれ貸してやるよ。まだ西日もきついから」
被っていたパナマ帽を脱いで、百夜の頭にのせた。
「いくら今年が暑いったってもう秋になるし、薄物じゃ帰り道に冷えるだろ。ついでに俺の小絣も着てみろよ」
今度は合わせる着物が気になってきて、自室に引き込み、自分のお気に入りを好き勝手に着替えさせてみた。
「それならこっちの帽子のほうがいいか? 羽織はまだ早いな。いっそのこと、取っておきの大島紬を……」
「帝劇にでも出かけるつもりか。近所だぞ」
隙間からのぞいていた蝶子が、百夜を上から下まで眺めて感想を述べる。
「あれま、似合うじゃない。ももちゃんは普段お洒落なんてしないから新鮮だね。撮影で豪華な衣装を着ることはあっても女物だし」
「その帽子、横浜の人気店で買ったんだぜ。いいだろ?」
「顔が隠れればなんでもいい」
もっと抵抗されるかと思ったが、案外おとなしくされるがままになっていた。
***
鈍色のトタンバケツを持たされ、牡丹荘を発つ。
銘酒屋の並ぶ路地を歩いていると、窓から顔を覗かせた酌婦たちが一斉にひそひそと耳打ちをしはじめた。
百夜を見つめて興奮気味に頬を染めている。
本人は我関せずで通りすぎているが、帽子に着流しの立ち姿はたしかにとても絵になっている。
上背は志千のほうがあるはずなのに、役者だけあってすらりとして頭身が高い。
無理やり着せたのは自分なのだが、持ち主よりもお気に入りが似合っていてちょっとだけ悔しい。
「へえー。ちゃんとした恰好をしていたら、ももちゃんって目立つんだねえ」
と、蝶子は妙に感心していた。
「いつも頭巾なんて被ってるしなぁ。毎日同じ着物だし、もっといろいろ着りゃいいのに」
「役者といい、弁士といい、他の奴らがちゃらちゃらとしすぎなだけだ」
「だってよー、人気商売だぜ!? 街中でも目立ってなんぼだろ!?」
そう返したものの、注目度ではそこまで着飾っていない百夜に完敗している。志千なら礼装くらい着ていなければ人の多い浅草では目立てない。
帽子を深く被っていてもこれだけの視線を集めるのだから、顔立ちのみならず、たたずまいに華があるのだ。
さすがは伝説の大女優の血を引く男。
つくづく役者向きだと、志千は思った。
「しちちゃんも男前だから大丈夫。浅草でもすぐに人気になるよ。ももちゃんよりも女にはもてそうだしね」
「慰めてくれてありがとよ……」
百夜ほど近寄りがたい雰囲気を放っていれば、遠巻きに騒がれるだけだろう。
志千はご婦人方に声をかけられれば愛想よく振舞う。その気安さのせいでジゴロ扱いもされているのだが。
しかし、十二階下で生まれ育ったと聞いていたが、誰も百夜を知っているふうではないのが不思議だった。
これほどの美男子が近所に住んでいれば幾度となく噂にのぼっていそうなものだが、異人の幽霊などというぼんやりした認識しかされていないとは。
──まさか生まれてこの方、ずっと顔を隠して生きてきたってわけでもないだろうに。
娼婦たちの住み変わりが激しそうなのも原因なのかもしれない。
背後から近づき、かつて学友にやっていたような気軽さで肩に腕をまわした。
「なんだ。触れるな」
「いやー、もっと見せりゃいいのにと思って」
「やめろ!」
空いたほうの手で帽子を取ろうとすると、予想以上の反発を受けた。
帽子が音も立てず地面に落ちる。
志千は面食らって、手を空中に泳がせたまま動きをとめた。
「二代目残菊が男だと知っているのは、松柏キネマでも最低限の連中だけだ」
「あ、ああ」
つまり、女優の残菊と結びつかないように、素顔は晒せないという意味なのだろう。
「でもよ、それって」
理由は理解したが、納得はできない。だが、志千の気持ちを伝える前に、目線を合わせようともせず先を歩いていってしまった。
「気性が荒いやつ……」
母親の話をしていたときはしおらしい面も見せてきたのに、すぐにこうやって言い争いになってしまう。
気難しくて、距離の詰めかたがむずかしい。
近づいたようで離れていく。
蝶子が少し困った顔をしていった。
「んー、でもね、なんでもかんでも噛みつくわけじゃないんだよ。怒るときは一貫しているから、そのうちきっとわかるよ。しちちゃんには懐いてるようだし」
「あれで!?」
「嫌ならもっと徹底的に拒絶するよ。今はももちゃん自身も、しちちゃんとの距離を測ろうとして上手くできていないだけで。お願い、まだ見限らないでやってね」
べつにそんなつもりはない。ただ、納得できなかっただけなのだ。
──二代目残菊としてではなく、百夜自身の存在はどうなる。
さきほどまでは百夜が放つ雰囲気や存在感に圧倒されていたが、同時にふっと消えてしまいそうな儚さも持ちあわせている。
そんなところも、初代とよく似ていた。
「ほら。じゃあ、被っとけ」
早足で追いついて、後ろから帽子を押しこんだ。
「だから、勝手に触るなと──」
ふたたび牙を剥かれそうになったところで、
「ほら、御前さんたち。着いたよ」
いつのまにか人の住む区域からはずれ、庭のある倉庫のような建物にたどり着いていた。
「おや、めずらしい。ももちゃんが人前で熟睡してるなんて。──で、しちちゃんはなにしてるんだい?」
「ももちゃん寝ちまって暇だから、遊んでた」
なんのことはない、百夜の長すぎる髪を志千が勝手に結っていただけである。
三つ編みにして背中に垂らし、いつも顔を隠している前髪をどうにか流して整える。
「よし、できた。起きたら怒られそうだけど、リボンもつけてやろ」
「ふふふ、お姫様みたいだねえ」
「口を開かなけりゃあな……。普段は野良猫みてえに威嚇してくるし」
その野良猫がはじめて傍に寄ってきて、静かに眠っている。
だから起こさないようにこっそりと毛並みを撫でてみたくなった。そんな心境だ。
「ねっねっ、ウチもやってー」
「蝶子さんは自分で結ったほうが上手いだろ?」
「そおいう問題じゃないよ。やだやだ、乙女心がわかってないんだから」
乙女心とは少し違う気もするが、いつも世話をしてくれている家主だ。たまにはお返しもいいだろう。
「このリボンを使っておくれね」
「はいよ。承った」
蝶子は普段二本のおさげにしている。せっかくなので編んで輪っかをつくり、上と下にリボンを飾った。
女学生に人気のマガレイトという髪型だ。
「ずいぶん手慣れてるねえ」
「俺の家は五人きょうだいで、妹が二人もいるからな」
「しちちゃん、次男坊だろ?」
「なんでわかるんだよ」
「世話焼きってほどじゃないけれど、絶妙に面倒見がよくて、期待に応えようとするのが二番目っぽいかねえ。あと自信家に見えて周囲の空気を読んでる感じとか」
「…………」
好き放題いわれているが、だいたい合っていて言い返せない。
蝶子とあれこれ遊んでいるうちに百夜が目を覚ました。
「うるさい。なぜこの部屋で騒ぐんだ」
「よう。お目覚めか、お姫様」
「……なんだこれは」
毛先に細いリボンが結ばれているのに気づき、わずかに顔をしかめる。
「なにって、リボン。こちらは南蛮渡来の絹を使った一級品でございます」
「まあ、素敵だねえ。ただの端切れで作ったやつだけどね」
「……雑な設定で喋るな」
もっと文句を言いたげだったが、寝起きのせいで思考がついてきていないらしい。
「ねえ、ももちゃん。暗くなる前に菊をもらいにいきたいんだけど、いいかい?」
「菊?」
「うん。しちちゃんも行こうよ。年中咲いている栽培所があるって話したろ。この部屋の花もちょっと萎れてきたしね」
そういえば面白いものが見られるといっていたが、栽培所で花の他になにがあるのか想像もつかない。
簡単に支度をして一階におりようとした直前、百夜に引き留められた。
「待て。行くのはいいが、この髪を解いていけ」
「えーなんでえ。いいじゃん」
「顔が見えすぎる」
そうしたくて結ったのだが、本人は不満そうだ。
「じゃあこれ貸してやるよ。まだ西日もきついから」
被っていたパナマ帽を脱いで、百夜の頭にのせた。
「いくら今年が暑いったってもう秋になるし、薄物じゃ帰り道に冷えるだろ。ついでに俺の小絣も着てみろよ」
今度は合わせる着物が気になってきて、自室に引き込み、自分のお気に入りを好き勝手に着替えさせてみた。
「それならこっちの帽子のほうがいいか? 羽織はまだ早いな。いっそのこと、取っておきの大島紬を……」
「帝劇にでも出かけるつもりか。近所だぞ」
隙間からのぞいていた蝶子が、百夜を上から下まで眺めて感想を述べる。
「あれま、似合うじゃない。ももちゃんは普段お洒落なんてしないから新鮮だね。撮影で豪華な衣装を着ることはあっても女物だし」
「その帽子、横浜の人気店で買ったんだぜ。いいだろ?」
「顔が隠れればなんでもいい」
もっと抵抗されるかと思ったが、案外おとなしくされるがままになっていた。
***
鈍色のトタンバケツを持たされ、牡丹荘を発つ。
銘酒屋の並ぶ路地を歩いていると、窓から顔を覗かせた酌婦たちが一斉にひそひそと耳打ちをしはじめた。
百夜を見つめて興奮気味に頬を染めている。
本人は我関せずで通りすぎているが、帽子に着流しの立ち姿はたしかにとても絵になっている。
上背は志千のほうがあるはずなのに、役者だけあってすらりとして頭身が高い。
無理やり着せたのは自分なのだが、持ち主よりもお気に入りが似合っていてちょっとだけ悔しい。
「へえー。ちゃんとした恰好をしていたら、ももちゃんって目立つんだねえ」
と、蝶子は妙に感心していた。
「いつも頭巾なんて被ってるしなぁ。毎日同じ着物だし、もっといろいろ着りゃいいのに」
「役者といい、弁士といい、他の奴らがちゃらちゃらとしすぎなだけだ」
「だってよー、人気商売だぜ!? 街中でも目立ってなんぼだろ!?」
そう返したものの、注目度ではそこまで着飾っていない百夜に完敗している。志千なら礼装くらい着ていなければ人の多い浅草では目立てない。
帽子を深く被っていてもこれだけの視線を集めるのだから、顔立ちのみならず、たたずまいに華があるのだ。
さすがは伝説の大女優の血を引く男。
つくづく役者向きだと、志千は思った。
「しちちゃんも男前だから大丈夫。浅草でもすぐに人気になるよ。ももちゃんよりも女にはもてそうだしね」
「慰めてくれてありがとよ……」
百夜ほど近寄りがたい雰囲気を放っていれば、遠巻きに騒がれるだけだろう。
志千はご婦人方に声をかけられれば愛想よく振舞う。その気安さのせいでジゴロ扱いもされているのだが。
しかし、十二階下で生まれ育ったと聞いていたが、誰も百夜を知っているふうではないのが不思議だった。
これほどの美男子が近所に住んでいれば幾度となく噂にのぼっていそうなものだが、異人の幽霊などというぼんやりした認識しかされていないとは。
──まさか生まれてこの方、ずっと顔を隠して生きてきたってわけでもないだろうに。
娼婦たちの住み変わりが激しそうなのも原因なのかもしれない。
背後から近づき、かつて学友にやっていたような気軽さで肩に腕をまわした。
「なんだ。触れるな」
「いやー、もっと見せりゃいいのにと思って」
「やめろ!」
空いたほうの手で帽子を取ろうとすると、予想以上の反発を受けた。
帽子が音も立てず地面に落ちる。
志千は面食らって、手を空中に泳がせたまま動きをとめた。
「二代目残菊が男だと知っているのは、松柏キネマでも最低限の連中だけだ」
「あ、ああ」
つまり、女優の残菊と結びつかないように、素顔は晒せないという意味なのだろう。
「でもよ、それって」
理由は理解したが、納得はできない。だが、志千の気持ちを伝える前に、目線を合わせようともせず先を歩いていってしまった。
「気性が荒いやつ……」
母親の話をしていたときはしおらしい面も見せてきたのに、すぐにこうやって言い争いになってしまう。
気難しくて、距離の詰めかたがむずかしい。
近づいたようで離れていく。
蝶子が少し困った顔をしていった。
「んー、でもね、なんでもかんでも噛みつくわけじゃないんだよ。怒るときは一貫しているから、そのうちきっとわかるよ。しちちゃんには懐いてるようだし」
「あれで!?」
「嫌ならもっと徹底的に拒絶するよ。今はももちゃん自身も、しちちゃんとの距離を測ろうとして上手くできていないだけで。お願い、まだ見限らないでやってね」
べつにそんなつもりはない。ただ、納得できなかっただけなのだ。
──二代目残菊としてではなく、百夜自身の存在はどうなる。
さきほどまでは百夜が放つ雰囲気や存在感に圧倒されていたが、同時にふっと消えてしまいそうな儚さも持ちあわせている。
そんなところも、初代とよく似ていた。
「ほら。じゃあ、被っとけ」
早足で追いついて、後ろから帽子を押しこんだ。
「だから、勝手に触るなと──」
ふたたび牙を剥かれそうになったところで、
「ほら、御前さんたち。着いたよ」
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