舞いあがる五月 Soaring May

梅室しば

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一章 雨上がり、異能の毛玉と大学生

南講義棟の噴水

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 史岐は、南講義棟の中庭にある噴水の前に利玖を連れて来た。一応、噴水と呼ばれてはいるが、観客を楽しませる意図は微塵みじんも感じられない代物で、コンクリートを円形に固めて作った池の水面に申し訳程度の隆起が見られる程度である。ひょっとしたら、それすらも、水を循環させる為に何かの装置を動かしているといった実用的な理由で存在しているに過ぎないのかもしれない。
 小魚がひらひらと泳いでいるが、藻がはびこっているせいで昼間でも何となく暗い雰囲気があり、学生達からは敬遠されている場所だった。
「これを着けて話してみてくれる?」
 噴水前のベンチに座ると、史岐は、黒い革製のストラップのような物を利玖に渡した。
 使い方が分からずに利玖が持て余していると、史岐は指で自分の喉を示して「チョーカーだよ」と教えた。
「……あー、あ」
 声が出た。
 それだけ確認すると、利玖は立ち上がって一礼した。
「どうもありがとうございました、通りすがりの人。それでは」
「いやいや、待って。本当に」
 史岐は、脱兎のごとく来た道を戻りかけた利玖の腕を掴んで、自分の方に引き戻した。
「変わってるね、君。根本的には、まだ何も解決していないよ」
「あなたの言葉を信じるかどうかはわたしが決めますが、今はいささかアルコールでうわついていますので当てになりません。今夜は兄の所でお世話になって、明日、きちんとした病院で診てもらいます」
「ふうん……。でも、病院じゃ治せないと思うよ」
 史岐は噴水に近づき、水面を指さした。
「知らずに騒ぎでも起こされたらたまらないから、一応教えておくね。ここ、魚がいるでしょ? チョーカーを外して、ちょっと呼んでみてよ」
 意味が分からない、という顔をしていると、史岐は含みのある笑みを浮かべた。
「普通に呼び集めるだけでいいよ。その声、人間には聞こえないだけだから」
 利玖はすぐには動かなかった。史岐の言う通りにしてみるか、もう一度逃走を試みるか、しばらく悩んでいたが、結局、自分の体に起きている異変をつまびらかにしたいという思いを無視する事が出来ず、噴水に近づいた。
 もともと少ない光を泥と藻がすっかり吸収しているせいで、まるで底無し沼のように見える。魚よりもっと怖い何かが上がってくるんじゃなかろうか、と横目で史岐を見たが、彼は黙って微笑んでいた。
 利玖は覚悟を決めて、うなじに手を伸ばし、チョーカーの留め具を外した。
『おいで』
 呼びかけて、少し待つと、あちこちの水面が突き上げられるように揺れ始めた。その動きはやがて一つの大きな波となって、利玖めがけて押し寄せてきた。
 コンクリートにぶつかって、はね返った波の中から、絡まり合った藻とともにおびただしい数の魚のふんが突き出した瞬間、利玖は思わず、声の出ない喉で叫びそうになった。
「おっ、一度目で成功か。すごいね。君、素質あるんじゃない?」
 利玖は必死に息を整えながら、もう一度チョーカーを着けた。
「人間と見れば餌を撒いてくれると思って遮二無二しゃにむに集まってくるだけでしょう。たまたまタイミングが合っただけです」
「魚はそうかもしれないね。だけど、あれは?」
「…………」
 噴水の向かい側、ちょうど利玖の頭ぐらいの高さに茶色いもやが見えた。水面を横切って、まっすぐこちらに向かってくる。
 目を凝らして、何が靄を成しているのかわかった瞬間、利玖はとっさに口に手を押し当てて声が漏れるのを抑えていた。
 それは、無数の羽虫の群れだった。
 大部分を占めているのは砂塵さじんほどの小さな個体だが、周縁部にはもう少し大きなはねを持つ虫、さらに大型の蛾が集まっている。徐々に膨らみを増しているように見えるのは、単に自分と彼らとの距離が縮まっているという理由だけではないだろう。
 幾百もの虫の羽音が共鳴し合い、耳鳴りのように鼓膜に触れた途端、利玖は考えるより先に身をひるがえしていた。
「あ、逃げ──」
 慌てた史岐の声が、一瞬で風音の後ろに遠ざかる。
「いや……、ていうか、あし早っ!」
 見かけで自分の身体能力を判断した者をあざむく切れ味の鋭い瞬発力に、利玖はこれまでも何度となく助けられていた。
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