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二章 荒天の縞狩高原
奇数・偶数・寿限無
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稽古は十三時きっかりに始まった。
準備運動と素振りの後、防具を着けて本格的な稽古が始まると、あっという間に竹刀で激しく打ち合う音が体育館を埋め尽くした。そこへ、さらに十余名分の発声と、力強く踏み込む音が加わるのだから、半密閉空間にひしめく音の騒々しさといったら相当な物である。
利玖と史岐は、稽古の邪魔にならないように、体育館の端に並んで座っていたが、それでも、話をする時にはいちいち顔を近づけなければならなかった。
汐子は上座に立ち、紙を挟んだバインダーを片手に、時折部員の方を見ては何事か書き記している。
部員達は二人一組で向かい合い、横に長い陣形で稽古をしていた。
互いに礼を交わし、間合いに入るまで進み出て竹刀を構え、下手側から何本か技を打ち込む。それが終わると、今度は攻守を入れ替えてもう一度同じ事を行う。
あらかじめ、部長である梶木智宏が、どの技を何本打つのか、そしてそれを何セット行うのかを全員に聞こえるように大声で告げてから始めるので、どの組も一セット終えるのにかかる時間はおおむね同じくらいだった。
攻守ともに打ち合いを終えると、部員は最初に進み出たのと同じ歩数を下がって竹刀を納め、礼をして、一つ右にずれる。下手側だけではなく、上手側でも同じように右にずれていくので、遠目に見ると全員で反時計回りの運動をしているのだが、匠だけはずっと上手の左上の位置から動いていなかった。
「なぜ、兄だけ固定されているんでしょうか」
どうしても気になったので、声を張り上げて利玖が訊ねると、史岐はちょっと部員達を見つめてから、
「偶数だからだと思うよ」
と言った。
「例えば……、部員の数が六人の場合を仮定する。それに左上から、時計回りに番号を振る。すると、一番の部員と最初にペアを組むのは、六番の部員になる。ここまではいい?」
利玖は頷く。
「で、六人全員が、向かって右に一つずれる。端にいる場合、上手側は下手側に、下手側は上手側に移動するから、一番は、六番のいた位置に、四番は、三番のいた位置に移る。これを、あと二回くり返すと?」
実際に数字を書いたカードでもあればわかりやすかったのだが、今は、頭に思い浮かべた図形を動かして考えるしかなく、気づくまでに少し時間がかかった。だが、そう時間を置かずに、利玖は「あっ」と声を上げた。
「上手側と下手側が入れ替わっただけで、どの組も最初と同じ組み合わせになる。……総数が偶数の時に全員が動くと、一周して最初にいた位置に戻ってくるまでに、二度、同じ相手と組になってしまうんですね」
「そういう事」史岐は微笑んだ。「だから、どこか一箇所を固定しておく。そうすれば、一周する間に自分以外の全員とペアを組む事が出来る。たぶん、総数が奇数だったら、匠さんも同じように動くんじゃないかな」
利玖は、ほー……っ、と息をついて史岐を見上げた。
「史岐さんは剣道経験者だったのですか?」
「まさか」史岐は目をむいた。「入っていけないよ、あんな所。おっかなくてさ……」
「でも、きっと才能はありますよ。一眼二足三胆四力、という言葉がありますから」
滑らかな発音で利玖がそう述べると、史岐は目をすがめた。
「何? 寿限無の友達?」
「違います」
声を張り続けているのが辛くなってきて、利玖は史岐に体を寄せる。
「剣道の修練にあたって重要とされる要素を順に挙げたものです。まず『眼』ですが……、これが、最初に挙げられていながら、かなり広義で、単なる視力の良さだけではなく、そこに由来する判断力なども含まれるようなのですが……、とにかく、その次に大切なのが、足さばき。そして気力、最後が力の強さ、という教えです。その考えに則ると、史岐さんは、剣道を究める為に最も重要な能力は備えていると言えます」
「ふーん……」
史岐はあまり興味がなさそうである。
苦しそうに肩で息をしている部員達をしばらく眺めた後、抑揚のない声で、
「死んじゃうんだよね」
と言った。
「寿限無某が川に落ちて、彼を助ける為に、川に落ちたっていう事実をリレーみたいに何人もの人間が伝えていくんだけど、名前が長すぎるせいで時間がかかって、その途中で……、って。確か、元はそんな話だって聞いた事がある」
「…………」
耳の奥に、つかの間、水の流れる音が聞こえた。
それは夜半に目覚めた時、一瞬だけ記憶に焼きつく夢の手ざわりのように、意識の表層にほんの少しとどまった後、すぐに手の届かない暗闇へ潜っていった。
利玖は、史岐から見えないように、ぎゅっと上着の袖を握りしめていた。
準備運動と素振りの後、防具を着けて本格的な稽古が始まると、あっという間に竹刀で激しく打ち合う音が体育館を埋め尽くした。そこへ、さらに十余名分の発声と、力強く踏み込む音が加わるのだから、半密閉空間にひしめく音の騒々しさといったら相当な物である。
利玖と史岐は、稽古の邪魔にならないように、体育館の端に並んで座っていたが、それでも、話をする時にはいちいち顔を近づけなければならなかった。
汐子は上座に立ち、紙を挟んだバインダーを片手に、時折部員の方を見ては何事か書き記している。
部員達は二人一組で向かい合い、横に長い陣形で稽古をしていた。
互いに礼を交わし、間合いに入るまで進み出て竹刀を構え、下手側から何本か技を打ち込む。それが終わると、今度は攻守を入れ替えてもう一度同じ事を行う。
あらかじめ、部長である梶木智宏が、どの技を何本打つのか、そしてそれを何セット行うのかを全員に聞こえるように大声で告げてから始めるので、どの組も一セット終えるのにかかる時間はおおむね同じくらいだった。
攻守ともに打ち合いを終えると、部員は最初に進み出たのと同じ歩数を下がって竹刀を納め、礼をして、一つ右にずれる。下手側だけではなく、上手側でも同じように右にずれていくので、遠目に見ると全員で反時計回りの運動をしているのだが、匠だけはずっと上手の左上の位置から動いていなかった。
「なぜ、兄だけ固定されているんでしょうか」
どうしても気になったので、声を張り上げて利玖が訊ねると、史岐はちょっと部員達を見つめてから、
「偶数だからだと思うよ」
と言った。
「例えば……、部員の数が六人の場合を仮定する。それに左上から、時計回りに番号を振る。すると、一番の部員と最初にペアを組むのは、六番の部員になる。ここまではいい?」
利玖は頷く。
「で、六人全員が、向かって右に一つずれる。端にいる場合、上手側は下手側に、下手側は上手側に移動するから、一番は、六番のいた位置に、四番は、三番のいた位置に移る。これを、あと二回くり返すと?」
実際に数字を書いたカードでもあればわかりやすかったのだが、今は、頭に思い浮かべた図形を動かして考えるしかなく、気づくまでに少し時間がかかった。だが、そう時間を置かずに、利玖は「あっ」と声を上げた。
「上手側と下手側が入れ替わっただけで、どの組も最初と同じ組み合わせになる。……総数が偶数の時に全員が動くと、一周して最初にいた位置に戻ってくるまでに、二度、同じ相手と組になってしまうんですね」
「そういう事」史岐は微笑んだ。「だから、どこか一箇所を固定しておく。そうすれば、一周する間に自分以外の全員とペアを組む事が出来る。たぶん、総数が奇数だったら、匠さんも同じように動くんじゃないかな」
利玖は、ほー……っ、と息をついて史岐を見上げた。
「史岐さんは剣道経験者だったのですか?」
「まさか」史岐は目をむいた。「入っていけないよ、あんな所。おっかなくてさ……」
「でも、きっと才能はありますよ。一眼二足三胆四力、という言葉がありますから」
滑らかな発音で利玖がそう述べると、史岐は目をすがめた。
「何? 寿限無の友達?」
「違います」
声を張り続けているのが辛くなってきて、利玖は史岐に体を寄せる。
「剣道の修練にあたって重要とされる要素を順に挙げたものです。まず『眼』ですが……、これが、最初に挙げられていながら、かなり広義で、単なる視力の良さだけではなく、そこに由来する判断力なども含まれるようなのですが……、とにかく、その次に大切なのが、足さばき。そして気力、最後が力の強さ、という教えです。その考えに則ると、史岐さんは、剣道を究める為に最も重要な能力は備えていると言えます」
「ふーん……」
史岐はあまり興味がなさそうである。
苦しそうに肩で息をしている部員達をしばらく眺めた後、抑揚のない声で、
「死んじゃうんだよね」
と言った。
「寿限無某が川に落ちて、彼を助ける為に、川に落ちたっていう事実をリレーみたいに何人もの人間が伝えていくんだけど、名前が長すぎるせいで時間がかかって、その途中で……、って。確か、元はそんな話だって聞いた事がある」
「…………」
耳の奥に、つかの間、水の流れる音が聞こえた。
それは夜半に目覚めた時、一瞬だけ記憶に焼きつく夢の手ざわりのように、意識の表層にほんの少しとどまった後、すぐに手の届かない暗闇へ潜っていった。
利玖は、史岐から見えないように、ぎゅっと上着の袖を握りしめていた。
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