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二章 温泉郷の優しき神

異形の祭

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 異界への進入はあっけないほど簡単に完了した。
 ロビーからエレベータに乗って、鶴真が五階のボタンを押す。何も前置きをされなかったし、一連の動作があまりにも自然だったので、てっきり五階に着いた後で特別な経路を使って〈宵戸よいのとの木〉の所まで行くのだろうと考えていたほどだ。
 違和感といえば、エレベータが停止する時、慣性の作用による押し戻されるような感覚がなかった事くらいか。それがないと、ずっとゆっくり上昇し続けているようで、
「降りても大丈夫ですよ」
と鶴真に促されても、外に出るには勇気がった。
 扉が開いたその先が、もう、見知らぬ世界に続いている。
 風だけがぬるい。大勢のモノが声をひそめて話しているような喧噪が、低く地を這うように流れてくる。
 普通に歩くだけで藪や木の枝が体をかすめるほど険しい山道が、天辺てっぺんにある社に向かって続いている。社との距離は、中に飾られている木彫りの猛禽類の顔つきが見て取れるほど近かったが、そこに至る道のりは斜面を避けて右に左に屈曲をくり返している。
 それだけならば、田舎の山に作られた神社とさして変わりないが、山道の脇にはなんと、派手な屋台がひしめき合っていた。
 どの屋台も、中には一応、人のなりをしたモノがいて、賑やかに呼び込みをしている。裸電球やぼんぼりなどの照明器具が懐古的な雰囲気を醸し出しているが、よく見ると、何を勘違いしたのか、盆提灯を出している屋台も二、三件あった。しかし、色とりどりの光がくるくると回るので、なるほど祭りらしさの演出には少なからず貢献している。ざっと見渡しても両手の指で足りるほどの数しかないのに、潟杜大の学園祭よりもはるかに華やいで見えた。
 売られているのは、干からびた獣の足を六本ばかりまとめて紐で縛ったもの、塩を揉み込まれてうねうねと動きながら水をにじませている平べったい山菜を積み重ねて、懐紙越しに重石を乗せたもの、はたまた、ぷっくりと膨らんだ蕾の内側がひとりでに光を放っている樹木の鉢植えなど。いずれも、山で獲れる物であるらしいという事は想像がつくが、一つとして見覚えがない。
 興味津々で利玖が立ち止まって屋台を覗き込んでいると、隣に鶴真がやって来た。
「面白いですか?」
「あまり見ない方がよいのであればすぐにやめます」
「いえ、大丈夫ですよ」
 並んでいる品々から一瞬たりとも目をそらさずに答える利玖を見て苦笑しながら、鶴真は上着の内ポケットに手を入れ、そこから取り出した物を利玖に渡した。
「何ですか?」受け取った利玖は、棒状の金属の棒に豆電球が付いている事に気づく。「……ペンライト?」
「幻を打ち破るのを助けてくれる道具です。看破したい対象に向けて照らすと、偽の姿を消し去って正体を明らかにしてくれます」
「ほう、それは便利な」
「はい。……ただ、幻を看破したい、と一筋縄に思わせてくれないのが、彼らの厄介な所なのですが」
「そうでしょうね」
 利玖はペンライトのスイッチを押すや、鶴真に光を当てた。
 胸の辺りを照らされた鶴真が驚いたように瞬きをする。だが、利玖がおそらくそうするだろうと、あらかじめ予想していたのだろう。それ以上の反応は見せなかった。
「ご気分を悪くされましたらすみません」利玖はペンライトを消す。「これからしばらく背中を預け合うわけですから、最低限の保障は得たく」
「ごもっともです」鶴真はそう言って、微笑んだ。「初めてここにやって来た時、私も同じ事を父にしたのを思い出しました」
「しかし、これを使う事で、かえって相手の感情を逆撫でする可能性はありませんか?」
「ないとは言えませんが……」鶴真は社を見上げる。「そのペンライトは、オカバ様が霊力を分け与えて作った神具。妖からすれば、ひと目で加護を受けている事がわかる代物です。いわば、警察官の制服のようなものですね。不快感を覚えこそすれ、それを暴力という形でぶつけてくるモノはまずいないでしょう」
「なるほど」
 利玖は頷き、背後に視線を動かした。
 屋台の中で、前掛けをした農家風の女性が一人で丸椅子に座っている。
「試しに、あちらの女性を調べてみてもよろしいでしょうか」
「ええ、大丈夫だと思いますよ」
 利玖はペンライトを体の前に構えて、そろりそろりと屋台に近づいた。
 軒先には、ざるに盛られた巻き貝が並んでいる。一つ一つが赤ん坊の頭くらい大きい。殻口は、利玖の腕の細さならすっぽりと奥まで届いてしまいそうなほどの太さがあった。
 しかも、まだ中身が入っていて、動いている。売り物にされているのは殻の方ではないのだ。よく見ると、どの貝も肉の部分に爪楊枝が一本だけ挿してあった。
 おそらくは、サザエの壺焼きと躍り食いの文化に着想を得たのだろうが、こんな得体の知れない生きものを相手に爪楊枝一本で何が出来るというのか。かじろうとして顔を近づけた瞬間に、鼻と口を塞がれて窒息するのが関の山である。
 利玖に気づくと、屋台の女性は体を起こして、にっこりと笑いかけてきた。
「いらっしゃあい」
「こんばんは。すみません、出会い頭にしつけな真似をするのをお許しください」
 利玖はペンライトで女性を照らす。一応、顔には当たらないように配慮した。
 草履を履いている爪先、もんぺの足、その上にそろえられた両手。順番に照らしていく。異常は見当たらない。
 しかし、ふと女性の背後に光を向けると、何か細い物がキラッと光った。
 糸だ。──のような無色の糸が、女性の体のあちこちに結びつけられている。
 出所を探って上の方に光を動かしていくと、いきなり、闇の中に巨大な拳が浮かび上がった。瘤だらけの皮膚は、沼のように濁った緑色で、四本しかない指で糸を操っている。
 利玖が唖然としていると、その存在は、左から二番目の指を引いた。
 結びつけられている糸を通して屋台の女性に動きが伝わる。すると彼女は、よくよく見ればからくり人形じみた仕草で、さっきと同じように体を起こして笑顔を浮かべた。
「いらっしゃあい」
「…………」
 利玖は黙ってペンライトを消し、少し鶴真に体を寄せた。
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