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二章 温泉郷の優しき神
ルージュの会合
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梓葉は鏡の前でルージュを引いていた。
ほんのわずかに唇を開き、伏せがちの目は、何も定かに捉えていないような虚ろさで鏡像を見つめている。まるで、ため息のつき方を思い出そうとしているみたいだ、と利玖は思った。
利玖が隣に立った時、彼女の唇にはまだルージュの先が触れていたので、梓葉はちらっと目だけで笑いかけてきた。
「ごめんなさい」
ルージュの蓋を閉めると、梓葉は色づいたばかりの唇でそう呟いた。
「自分の手が届かない所でどんどん話を進められるのって、いつまで経っても慣れないものね」
「わたし達の為に心を砕いてくださった事、幾重にもお礼を申し上げます」利玖は体の前に手を揃えて、深々と頭を下げた。「どうかこの後、お部屋に戻られましたら、何も気にせずゆっくりとお休みください」
「ありがとう」
梓葉は微笑むと、ふうっと息をついて天井を仰ぎ、枷が外れたようにざっくばらんな仕草でタイトスカートの腰に両手を当てた。
「利玖さんに、お伝えしておかなければならない事があります」
鶴真の養父・早船滋久は、一年前の十二月二十三日に帰らぬ人となった。
老いに加え、数年前から病を得て少しずつ体が弱り始めても、滋久は〈湯元もちづき〉で働き続ける事にこだわった。元々非常に責任感の強い人物ではあったが、一番の理由は、亡くなった妻との思い出が詰まった家に一人で残されるのが嫌だったのだろうと、鶴真は後に語っている。
冬至の儀式を終えて夜明け前に〈湯元もちづき〉に戻った滋久は、さすがに疲れを訴え、いくつかの仕事の指示を鶴真に与えて一人で自宅に戻った。
半日後、昼休憩を利用して鶴真が様子を見に戻ってみると、滋久の体はすでに台所の床で冷たくなっていた。
「皆、〈宵戸の木〉の実は命を養ってくれる物だと信じている。だけどそれは、正確には『あるべき方向へと命を導く力』なのではないかと思うの」
ほつれ髪を指で直しながら、梓葉は低い声で話した。
「子ども、若者、養わなければならない家族がいる者。そういった『生かされるべき人間』には強く生きていく為の力を与える。
一方で、老衰や病によって人生の終焉に向かいつつある者には、せめてその道程が速やかで苦しみの少ないもので済むように手を貸す。儀式に参加した者には特に、その力が強く作用してしまうのではないか、と……」
「だから梓葉さんはずっと、わたし達を儀式から遠ざけようとしてくれていたのですね」利玖は呟いた。「万が一にでも、鶴真さんのお父さんと同じ方向に導かれてしまう事がないように」
梓葉は、一瞬、夢からさめた子どものように無防備な表情で利玖を見つめ、再び足元のタイルに目を落とした。
「お父様が亡くなられてから初めて迎える儀式を、鶴真は何としても完遂しようと躍起になっている。あんな風に強引な理由をつけて、あなた達を本殿へ連れて行ってしまったように」
「鶴真さんは、怖くないのでしょうか」
それを聞くや、梓葉はくしゅっと顔をゆがめて「怖いに決まっているわ」と言い捨てた。
「いつだったか、弱り目に悪酔いが重なった時に口走っていたの。……たった一度だけよ。事故で亡くなられた本当のご両親が現れて、あの頃のままの声で自分の名前を呼ぶのだと。
そんな思いをしてもなお、〈湯元もちづき〉の事を思って──樺鉢温泉村の事を思って、得体の知れない力が蠢く儀式に臨もうとしているのなら……、わたしはもう、何も言えない」
ほんのわずかに唇を開き、伏せがちの目は、何も定かに捉えていないような虚ろさで鏡像を見つめている。まるで、ため息のつき方を思い出そうとしているみたいだ、と利玖は思った。
利玖が隣に立った時、彼女の唇にはまだルージュの先が触れていたので、梓葉はちらっと目だけで笑いかけてきた。
「ごめんなさい」
ルージュの蓋を閉めると、梓葉は色づいたばかりの唇でそう呟いた。
「自分の手が届かない所でどんどん話を進められるのって、いつまで経っても慣れないものね」
「わたし達の為に心を砕いてくださった事、幾重にもお礼を申し上げます」利玖は体の前に手を揃えて、深々と頭を下げた。「どうかこの後、お部屋に戻られましたら、何も気にせずゆっくりとお休みください」
「ありがとう」
梓葉は微笑むと、ふうっと息をついて天井を仰ぎ、枷が外れたようにざっくばらんな仕草でタイトスカートの腰に両手を当てた。
「利玖さんに、お伝えしておかなければならない事があります」
鶴真の養父・早船滋久は、一年前の十二月二十三日に帰らぬ人となった。
老いに加え、数年前から病を得て少しずつ体が弱り始めても、滋久は〈湯元もちづき〉で働き続ける事にこだわった。元々非常に責任感の強い人物ではあったが、一番の理由は、亡くなった妻との思い出が詰まった家に一人で残されるのが嫌だったのだろうと、鶴真は後に語っている。
冬至の儀式を終えて夜明け前に〈湯元もちづき〉に戻った滋久は、さすがに疲れを訴え、いくつかの仕事の指示を鶴真に与えて一人で自宅に戻った。
半日後、昼休憩を利用して鶴真が様子を見に戻ってみると、滋久の体はすでに台所の床で冷たくなっていた。
「皆、〈宵戸の木〉の実は命を養ってくれる物だと信じている。だけどそれは、正確には『あるべき方向へと命を導く力』なのではないかと思うの」
ほつれ髪を指で直しながら、梓葉は低い声で話した。
「子ども、若者、養わなければならない家族がいる者。そういった『生かされるべき人間』には強く生きていく為の力を与える。
一方で、老衰や病によって人生の終焉に向かいつつある者には、せめてその道程が速やかで苦しみの少ないもので済むように手を貸す。儀式に参加した者には特に、その力が強く作用してしまうのではないか、と……」
「だから梓葉さんはずっと、わたし達を儀式から遠ざけようとしてくれていたのですね」利玖は呟いた。「万が一にでも、鶴真さんのお父さんと同じ方向に導かれてしまう事がないように」
梓葉は、一瞬、夢からさめた子どものように無防備な表情で利玖を見つめ、再び足元のタイルに目を落とした。
「お父様が亡くなられてから初めて迎える儀式を、鶴真は何としても完遂しようと躍起になっている。あんな風に強引な理由をつけて、あなた達を本殿へ連れて行ってしまったように」
「鶴真さんは、怖くないのでしょうか」
それを聞くや、梓葉はくしゅっと顔をゆがめて「怖いに決まっているわ」と言い捨てた。
「いつだったか、弱り目に悪酔いが重なった時に口走っていたの。……たった一度だけよ。事故で亡くなられた本当のご両親が現れて、あの頃のままの声で自分の名前を呼ぶのだと。
そんな思いをしてもなお、〈湯元もちづき〉の事を思って──樺鉢温泉村の事を思って、得体の知れない力が蠢く儀式に臨もうとしているのなら……、わたしはもう、何も言えない」
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