殺意の扉が開くまで

夕凪ヨウ

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76 もう少しだけ

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 傍に人の気配を感じ、蒼一は深い溜息をついた。両目を覆う右腕を動かすことなく、彼は憎らしげに呟く。
「合鍵なんて渡すんじゃなかったな」
 言葉を受けた一路は苦笑し、今更何言ってんだ、と答える。彼は相変わらず物が少ないリビングを見渡し、冷蔵庫を開けて食料の少なさを注意しながら作り置き用のおかずを詰め始めた。
「春海が忙しいから代わりに渡しに来ただけさ」
「嘘つけ。話したいことがあるんだろ。説教の続きをしに来たと言えよ」
「可愛くねえなあ。仕事は行ってるみたいだが、体調は最悪か。粥か雑炊でも作ってやろうか?」
 蒼一は少し考えた後、頼む、と言った。一路は頷いて冷凍庫から白米を取り出し、手早く卵粥を作る。卵の香りが立ち込めてくると、蒼一はソファーから体を起こし、食卓に腰掛けた。
「多めに作ったから冷やしとくぞ。その調子じゃ、数日はろくなもん食えないだろ。果物色々持って来たけど、りんごならいけるか?」
 咀嚼しながら蒼一は頷いた。一路は了解、と答え、ついでにバナナを冷蔵庫に仕舞う。
 しばらくの間、わずかな咀嚼とりんごを擦りおろす音だけが響いた。


「それじゃ、説教の続きといきますか」
 洗い物を終えた後、一路はそう切り出した。2人分の緑茶が置かれ、蒼一は何も答えずに一口啜る。一路も同じく一口啜った後、静かに口を開いた。
「蒼。お前は、昔も今も、誰より頭が良くて、運動ができて、知識がある。血縁の贔屓目抜きにしても、本当に優秀だ。
 だが、どうしようもなく感情に疎い。自分に抱かれている感情は分かるが、自分が抱く感情が、てんで理解できていない。そして、その原因は間違いなく子供の頃にある。それは分かるよな?」
 優しい口調だった。蒼一は軽く頷く。
「じゃあ、原因を深掘りしよう。お前は俺と出会った時から、既に自分の感情を理解できていなかった。その事に関して、俺は両親と姉の存在が影響していると考えた。当然間違いじゃないんだろうが、根っこは違うんだな? お前が全てを信用できなくなり、感情を封じ込めた原因は、お前の母方の祖父・水守一平いっぺいにある」
 蒼一の眉が動いた。彼は長く、深い息を吐く。一路は敢えて何も言わず、相手の言葉を待った。
 十数秒の沈黙の後、蒼一は消え入るような声で呟く。
「信じていたんだ。あの人が、水守蒼一という人間を見てくれていると、信じていた。孫として純粋に愛情を向け、両親や姉が気にかけない俺の心を気にかけてくれていると、信じていたんだ」
「何で違うと分かったんだ?」
 一路はすぐさま尋ねた。蒼一はゆったりと瞬きをし、答える。
「当主になってくれと言われたからだ。本当に俺を一人の人間として見つめ、心を気にかけてくれていたなら、絶対にそんなことは言わない。俺が当主になりたくないこと、当主になる可能性が原因で両親と姉に悪鬼の如く嫌われていること、あの男は知っていた。それなのに、当主になってくれと言った。
 結局、あの男も両親や姉、親戚連中と何ら変わらない、自分勝手な人間だ。自分がこうしたいから、その望みに沿って人に動いてもらう。動く側の都合なんて考えちゃいない。自分の都合ばかりだ」
 それ以来、誰も信じなくなったと蒼一は続けた。一路は思わず眉をひそめ、好々爺としか形容できなかった一平の姿を思い浮かべる。幼い蒼一が初めて信じた男。だが、その心に巣食うものは大多数の連中と同じ。その現実は、蒼一の心に消えない傷を残した。
「あの男の戯れで、両親と姉は一層俺を憎み、忌み嫌った。だからこそ俺は、いずれ家を出て当主なんていうくだらないものから解放されるための、下地を作ることにした」
「下地?」
「ああ。最も重要なのが、姉の結婚相手だ。両親が姉に当主の座を望む以上、伴侶もまた、姉と同じほど当主の器を持ち合わせている必要がある。力足らずの伴侶で、俺に余計なことが回って来ないためにも、人の上に立つ器が欲しかった。
 一路。お前と初めて出会った姉の結婚相手を決める話し合いの場。あの場で俺が熱弁を振るった理由はこれだ。姉の将来じゃない、自分の将来のために場を支配しなきゃいけなかった」
「その熱弁が功を奏して、三兄弟の末っ子でありながら、凉が伴侶に決まったのか。確かに、お前の言葉には説得力があって同意したが、何か違和感があったんだよな。姉を想う、というわけじゃない、何かが」
 自分の本心を見抜きかけていた一路に、蒼一は流石だな、と笑った。
「あの後、お前に話しかけられた時は心の底から疑ったよ。また同じことが繰り返される、また同じことを言うんだろうと思った」
「それであの塩対応か。悪かったな、何も知らなかったもんで」
「謝る必要はないさ。寧ろ疑ったこっちが謝りたいくらいだよ」
 軽い口調だったが、その一言は一路への強固な信頼であった。皮肉にも、彼は消えない傷を負った後に、最も信頼できる者と出会ったのだ。
 そして一路は、すぐに蒼一の違和感に気がついた。救えない状態であることも。
「分かっているんだ。姉に会いに行ったあの日から、自分が揺らいでいること、自分が封じ込めた感情のこと。
 だが、分かっていても、向き合えない。強くあり続けることこそが、生きる術だった以上、弱さを受け入れることができない。弱くなれば、潰される。そうならないために、強くあり続ける必要があった」
「だろうな。俺も、そんなことを考えた時期があったから、分かるよ。
 でもな、蒼。お前が信頼できる人間は、もう俺だけじゃないだろ? 時間を経て、お前は自分に真っ直ぐな愛情を向けてくれる存在を得たんだ。だから、その存在に対して心を開け。向こうはそれを望んでる。
 お前は十分苦しんだ。これ以上、1人で苦しむな。楽になれ」
 蒼一は目を閉じた。一路の言葉を咀嚼し、自分の答えを探すかのように。
 やがて、蒼一は目を開けた。少しばかり闇が晴れた瞳で、彼は口を開く。
「もう少しだけ時間をくれ。まだ、整理しきれないことがある。それが終わったら、全てを拓司たちに話すと約束するから」
 一路は正面から蒼一を見据えた。出会った日、既に光を失っていた瞳に、いつか宿っていたはずの光が戻っている気がした。一路は優しく微笑み、深く頷く。
「分かった。拓司たちに伝えておく。でも焦らなくていい。感情の整理なんて、時間がかかるし答えは簡単に見つかりやしない。そういうものもあると、これを機に覚えろ」
 蒼一が頷き返すと、一路は彼の頭に手を置き、撫でた。蒼一はすぐさま振り払う。
「子供じゃないんだが?」
「俺が父親なら良かったって言ったじゃねえか」
「そこまで言ってないだろ」
「そういう意味だろ? 俺だって、お前が息子だったらって思ったことあるぜ? お互い様なんだし、照れんなよ」
 一路は悪戯な笑みを浮かべた。蒼一は一瞬苛立ちを見せるが、すぐ呆れたように笑う。昔も今も、敵わなかった。
「ちゃんと答えてやれよ、蒼。拓司はずっと待ってるんだからな」



 ベランダから差し込む夕日は、2人の心を温めているかのようだった。
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