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誰も何も言わなかった。当人の春海は震える体を押さえつけようと荒い呼吸を繰り返し、春江は歯軋りをしている。一路は虚空をぼんやりと見つめ、蒼一は視線を床に落としていた。翔一郎は口元に手を当て、悠は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そして拓司は、目を見開いていた。わずかに口を開け、時が止まったかのように身じろぎ一つしなかった。
終わりのない沈黙を破ったのは、ようやく震えが収まった春海だった。
「私は見抜けなかった。あの男の醜い感情も、使用人全員の裏切りも。自分の親は、家は違う。真っ当に私たち姉妹を愛して守ってくれているーーーー本気でそう思っていた」
馬鹿だった、と春海は続けた。自嘲的な、しかし果てしなく悲しげな笑みを浮かべるが、虚勢を張っていることは明白だった。
「・・・・その後、どうなったの?」
尋ねたのは悠だった。彼しか口を聞けなかった。そして、彼の疑問には一路が答えた。
「事が公になったのは翌日だ。俺と、春江の様子を見に来た蒼があの男の部屋から逃げ出す春海を保護して、事態を把握した。使用人たちの裏切りもすぐに分かった。春江が何も知らないことも。
俺は春雄を問い詰めた。使用人の前だろうが関係なくな。その時、あの男は・・・・」
ーーーー君が悪いんだよ、蒼一君。君が、私から春海を奪おうとしたからだ。慎君と対立したからだ。全て君の責任だ。この状況は、全て君が作り上げたんだ。
「殺してやろうかと思ったよ。一応、留まったけどな」
一路は苦笑した。蒼一は、変わらず床に視線を落としており、感情が読めなかった。
「この間、慎に会いに行ったと言っただろう。それは、この件の確認だ。事件が起こった日、話し合いを切り上げた後、慎は春雄と2人きりで話をした。それは春海が言った当主なら結婚やらの話だが、慎の目的はそこじゃない。
あいつは結婚の話をする中で、春海と蒼が結婚する可能性を春雄に伝えた。もちろん、そんなことはあり得ないが、話すことに意味があった。春雄が春海の想いを理解している以上、可能性としてでも話せば、春雄は動く」
悠が眉を動かした。一路は一呼吸置き、結論を告げる。
「全て慎が仕組んだことだ。あいつは春海の蒼に対する想いも、春雄の春海に対する感情も理解していた。つまり、かつて妻に望んだ春海に一生ものの傷を負わせ、恥をかかせた蒼への復讐として、春雄を焚き付けたんだよ」
「・・・・春海姉ちゃんと慎さんは婚約関係だったのか? 恥って何だ?」
ようやく拓司が口を開いた。春海は違うわ、と呟く。
「婚約者候補だった、というだけ。春江が司の婚約者になった後、親戚はすぐ私の結婚相手を模索し始めた。その時、候補として挙げられたのが、蒼一、慎さん、慎さんの弟の3人。でも、蒼一が家を出て、私が残る2人を拒否したことで立ち消えになった。
恥の話は、くだらないわ。何年前か忘れたけど、親戚の集まりで水守家に三家が集まったの。蒼一も家を出た後だけど来ていたわ。その時、慎さんが私を諦めていないと視線で分かった。それを指摘したのが蒼一。でも公の場じゃない。私と慎さんが2人きりになりそうになって、阻止するために指摘した。間違ったことじゃない。でも、慎さんにとっては恥なのよ」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに春海は鼻で笑った。どこまでも自分勝手な男に、彼女はほとほと呆れたと続ける。
「そんなくだらないことのために、春海姉ちゃんの世界を壊したのか」
そう吐き捨てる拓司の表情には、感情が宿っていなかった。というより、ありとあらゆる負の感情を抱き、それを抑え込み、しかし許せず、その言葉を口にした、という態度だった。春海はおもむろに頷き、苦笑いを浮かべようとする。
「笑わないでください」
遮ったのは翔一郎だった。彼は口元から手を退かし、春海に視線を移して続ける。
「笑って痛みが和らぐことはない。寧ろ悪化させるだけです。
春海さん、あなたに必要なのは誤魔化しの笑いなんかじゃない。思うままに感情を曝け出すことです。あなたは理不尽を受けた側の人だ。それなのに、何もなかったように過ごすのは間違っています。お願いですから、その笑顔だけはやめてください」
縋るような口調だった。一路が尋ねる。
「警察官として同じ事例を見たのか?」
「それもあります。でも、これは私自身の経験を踏まえて言っていると考えてください。両親が死んだ後、笑っていた私自身です」
水守君が救った、と続くような言い方だった。拓司は深呼吸をし、春海を見つめる。
「火宮の言葉は最もだよ、春海姉ちゃん。俺は笑ってる春海姉ちゃんが好きだけど、心からの笑顔じゃないのは苦しくなる。だから笑わないで。ありのままの春海姉ちゃんでいてほしい」
昔からそうだった。この子の、拓司の言葉や存在は、いつも私の心を温めてくれる。子供特有の純粋さだと思っていたけど、違う。拓司は、どこまでも真っ直ぐで正直な子。悪夢を推し進めた親戚を憎むけれど、それよりも傷ついた人間の心を慮ることができる。
そんな拓司がいたから、私は今生きているのかもしれない。死にたいと願ったあの時、この子が生きているという一言で救われたような気がしたから。
「春海・・・」
掠れた声で春江に名を呼ばれた時、春海は涙を流していた。それは徐々に嗚咽を含み、留まるところを知らないほどになった。
拓司はおもむろに立ち上がり、春海の前に屈んだ。顔を覆って涙を流す彼女を、拓司は躊躇うことなく抱きしめた。背中に両手が回った。
「何も知らなくてごめん。話してくれてありがとう、春海姉ちゃん。
だから、思いっきり泣いたら笑って欲しい。俺が大好きな笑顔が見たい」
春海は震えながら頷いた。拓司もまた、泣いていた。自身の不甲斐なさも憎しみも封じ込め、彼はただ、春海を想って泣いていた。
そして拓司は、目を見開いていた。わずかに口を開け、時が止まったかのように身じろぎ一つしなかった。
終わりのない沈黙を破ったのは、ようやく震えが収まった春海だった。
「私は見抜けなかった。あの男の醜い感情も、使用人全員の裏切りも。自分の親は、家は違う。真っ当に私たち姉妹を愛して守ってくれているーーーー本気でそう思っていた」
馬鹿だった、と春海は続けた。自嘲的な、しかし果てしなく悲しげな笑みを浮かべるが、虚勢を張っていることは明白だった。
「・・・・その後、どうなったの?」
尋ねたのは悠だった。彼しか口を聞けなかった。そして、彼の疑問には一路が答えた。
「事が公になったのは翌日だ。俺と、春江の様子を見に来た蒼があの男の部屋から逃げ出す春海を保護して、事態を把握した。使用人たちの裏切りもすぐに分かった。春江が何も知らないことも。
俺は春雄を問い詰めた。使用人の前だろうが関係なくな。その時、あの男は・・・・」
ーーーー君が悪いんだよ、蒼一君。君が、私から春海を奪おうとしたからだ。慎君と対立したからだ。全て君の責任だ。この状況は、全て君が作り上げたんだ。
「殺してやろうかと思ったよ。一応、留まったけどな」
一路は苦笑した。蒼一は、変わらず床に視線を落としており、感情が読めなかった。
「この間、慎に会いに行ったと言っただろう。それは、この件の確認だ。事件が起こった日、話し合いを切り上げた後、慎は春雄と2人きりで話をした。それは春海が言った当主なら結婚やらの話だが、慎の目的はそこじゃない。
あいつは結婚の話をする中で、春海と蒼が結婚する可能性を春雄に伝えた。もちろん、そんなことはあり得ないが、話すことに意味があった。春雄が春海の想いを理解している以上、可能性としてでも話せば、春雄は動く」
悠が眉を動かした。一路は一呼吸置き、結論を告げる。
「全て慎が仕組んだことだ。あいつは春海の蒼に対する想いも、春雄の春海に対する感情も理解していた。つまり、かつて妻に望んだ春海に一生ものの傷を負わせ、恥をかかせた蒼への復讐として、春雄を焚き付けたんだよ」
「・・・・春海姉ちゃんと慎さんは婚約関係だったのか? 恥って何だ?」
ようやく拓司が口を開いた。春海は違うわ、と呟く。
「婚約者候補だった、というだけ。春江が司の婚約者になった後、親戚はすぐ私の結婚相手を模索し始めた。その時、候補として挙げられたのが、蒼一、慎さん、慎さんの弟の3人。でも、蒼一が家を出て、私が残る2人を拒否したことで立ち消えになった。
恥の話は、くだらないわ。何年前か忘れたけど、親戚の集まりで水守家に三家が集まったの。蒼一も家を出た後だけど来ていたわ。その時、慎さんが私を諦めていないと視線で分かった。それを指摘したのが蒼一。でも公の場じゃない。私と慎さんが2人きりになりそうになって、阻止するために指摘した。間違ったことじゃない。でも、慎さんにとっては恥なのよ」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに春海は鼻で笑った。どこまでも自分勝手な男に、彼女はほとほと呆れたと続ける。
「そんなくだらないことのために、春海姉ちゃんの世界を壊したのか」
そう吐き捨てる拓司の表情には、感情が宿っていなかった。というより、ありとあらゆる負の感情を抱き、それを抑え込み、しかし許せず、その言葉を口にした、という態度だった。春海はおもむろに頷き、苦笑いを浮かべようとする。
「笑わないでください」
遮ったのは翔一郎だった。彼は口元から手を退かし、春海に視線を移して続ける。
「笑って痛みが和らぐことはない。寧ろ悪化させるだけです。
春海さん、あなたに必要なのは誤魔化しの笑いなんかじゃない。思うままに感情を曝け出すことです。あなたは理不尽を受けた側の人だ。それなのに、何もなかったように過ごすのは間違っています。お願いですから、その笑顔だけはやめてください」
縋るような口調だった。一路が尋ねる。
「警察官として同じ事例を見たのか?」
「それもあります。でも、これは私自身の経験を踏まえて言っていると考えてください。両親が死んだ後、笑っていた私自身です」
水守君が救った、と続くような言い方だった。拓司は深呼吸をし、春海を見つめる。
「火宮の言葉は最もだよ、春海姉ちゃん。俺は笑ってる春海姉ちゃんが好きだけど、心からの笑顔じゃないのは苦しくなる。だから笑わないで。ありのままの春海姉ちゃんでいてほしい」
昔からそうだった。この子の、拓司の言葉や存在は、いつも私の心を温めてくれる。子供特有の純粋さだと思っていたけど、違う。拓司は、どこまでも真っ直ぐで正直な子。悪夢を推し進めた親戚を憎むけれど、それよりも傷ついた人間の心を慮ることができる。
そんな拓司がいたから、私は今生きているのかもしれない。死にたいと願ったあの時、この子が生きているという一言で救われたような気がしたから。
「春海・・・」
掠れた声で春江に名を呼ばれた時、春海は涙を流していた。それは徐々に嗚咽を含み、留まるところを知らないほどになった。
拓司はおもむろに立ち上がり、春海の前に屈んだ。顔を覆って涙を流す彼女を、拓司は躊躇うことなく抱きしめた。背中に両手が回った。
「何も知らなくてごめん。話してくれてありがとう、春海姉ちゃん。
だから、思いっきり泣いたら笑って欲しい。俺が大好きな笑顔が見たい」
春海は震えながら頷いた。拓司もまた、泣いていた。自身の不甲斐なさも憎しみも封じ込め、彼はただ、春海を想って泣いていた。
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