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58 芽生える光
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玄関扉の開閉音がして、拓司は手を止めた。ベッドから降りてスリッパを履き、リビングへと続く長い廊下を進む。現れる扉を開けては閉め、開けては閉めを繰り返し、声が届く距離になって、ようやく口を開いた。
「悠、お帰り~。今日の晩飯なんだけどさ、久々に焼き魚でいいか? 叔父さんが鮭買ってきてくれたから、タルタルソースも作ってメインにしようかと思うんだよな。つけ合わせのサラダは、ごぼう使おうかなって。リクエストあるなら、そっち優先するけど、何かある?」
そう言いながら、拓司はリビングの扉を開けた。返事がないことを不思議に思って視線を巡らすと、悠はソファーに横たわっていた。普段、外出後は仕事と口にしてパソコンに向かう彼にしては、珍しかった。
拓司はソファーに近づき、上から覗き込んだ。悠は右腕で両目を隠しており、よく見ると涙の跡があった。刹那、拓司は全てを理解し、前に回って空いているスペースに腰掛ける。やや間を開けて、悠は消え入るような声を出す。
「長くて1年。短くて半年」
驚くことなく拓司は受け止めた。同じように間を開け、口を開く。
「しばらく休めよ。今のところ、こっちは進む所までは進んでるんだ。叔父さんだって分かってくれるさ」
「・・・・うん」
10年前から共に過ごし、勉学を、世間を教えてくれた、もう1人の兄が、小さな子供に見えた。拓司はそれ以上詮索せず、背もたれに体を預け、話題を変えた。
「ケーキかパフェでも作ろうか? 春海姉ちゃんがレシピ送ってくれたから、新しいやつ作れるけど」
「ありがとう。でも、今度でいいかな。晩御飯は食べるから、さっき言ってたやつ作ってよ。久々に魚、食べたいから」
拓司は頷いた。10年以上前の記憶を手繰り寄せ、悠と初めて出会った日のことを想起する。あの時はまだ、自分の方が背が低かった。司も生きていた。悠の心からの笑顔があった。
今は、その全てが失われていた。10年前から、ずっと。
「今度はどんな絵描いてるの?」
柱時計の音が部屋を支配し始めた時、悠がふと尋ねた。拓司は答えようと口を開き、同時に「何で分かったんだ?」と尋ね返す。悠はすかさず答えた。
「右手の袖口が黒くなってる。出かける前は綺麗だった。絵の具の匂いはしないから、油絵じゃなくて、鉛筆でしょ。集中し過ぎて捲った袖が落ちたことに気が付かなかったんじゃない? よくやるじゃん」
笑いが漏れた。拓司は「流石だな」と呟いて立ち上がる。「ちょっと待ってて」と続けた彼はリビングを後にし、戻ってくると右手にスケッチブックと鉛筆を持っていた。無言で同じ場所に座り直すなり、素早く鉛筆を動かし、「できた」と嬉しそうに笑う。
「また記憶を辿ったの?」
「いや。今回は適当。何となく、空が描きたくなってさ」
そう言いながら、拓司はスケッチブックをひっくり返して絵を見せた。悠はようやく右腕を瞳から退かし、絵に視線を向けた。
繊細で緻密なタッチは、幼い頃から変わっていない。美術の道に進めば、もっと極まっただろうと思われた。しかしすぐそんな懐古を退け、絵に集中した。
夜空だった。周囲には木々が描かれているので、森の中からふと夜空を見つめる、という何でもない情景が浮かんだ。鉛筆がふんだんに生かされ、紙面のほとんどがわずかに濃淡の違いはあるものの、黒に染まっている。
しかし、何よりも目を引くのは、紙面の右上から中央に描かれた流れ星だった。輪郭がなかったので、夜空に支点を置きながら、流れ星が現れるように描いたと分かった。悠は、どうしようもなくその流れ星に惹きつけられた。月も星座も描かれていない夜空に、燦然と輝く、たった1つの流れ星。その流れ星は、笑って絵を見せる拓司自身のように思えた。
気がつくと、悠はまた涙を流していた。悲しみはあるが、先程よりは薄い。安堵の優った涙だった。
「ねえ、拓司」
「うん?」
「天国って、あるのかな」
いつもならば、こんな質問はしなかった。悠は情報という名の洪水を調整しているようなもので、ありとあらゆる情報さえ手に入れば、基本的に物事の本質が分かった。人の心であろうとも、変わらず。だからこそ、彼は想像の世界が苦手だった。情報で処理しきれない世界は、自分が踏み込みにくい世界だった。そのため、拓司の絵を上手いとは思っても、それ以上の感動が込み上げることは少なかった。
しかし今、悠は拓司の絵を見て、正確には1つの流れ星を見て、想像の世界を尋ねた。死ななければ、いや、死んでも存在の不確かな、天国という世界を。
拓司は笑った。いつもと同じ、子供の頃から変わらない、無邪気な笑顔だった。
「あるさ。少なくとも、俺はあると思ってるぜ。天国には兄ちゃんがいて、幸せに暮らしてるって信じてるぜ。不確かなものなんだから、あるって信じた方が楽しいだろ」
20歳に満たない青年の言葉は、悠の心を温めた。それは光だった。光という名の花だった。
悠は溢れる涙を止めることなく、頷いた。自然と笑みが浮かんだ。
「そうだね。じゃあボクも、あるって思うことにする。お父さんが、あんなに真面目で優しい人が、死んだ後に何もないなんてこと、あり得ないから。この世界より幸せな世界で、生き続けてくれるはずだから」
「その通り! だから、今は向き合ったらいいんだよ。時間はあるだろ?」
共に過ごした10年と、出会った日を思い出した。そして理解した。水守拓司という少年は、変わらず自身の光であると。
「悠、お帰り~。今日の晩飯なんだけどさ、久々に焼き魚でいいか? 叔父さんが鮭買ってきてくれたから、タルタルソースも作ってメインにしようかと思うんだよな。つけ合わせのサラダは、ごぼう使おうかなって。リクエストあるなら、そっち優先するけど、何かある?」
そう言いながら、拓司はリビングの扉を開けた。返事がないことを不思議に思って視線を巡らすと、悠はソファーに横たわっていた。普段、外出後は仕事と口にしてパソコンに向かう彼にしては、珍しかった。
拓司はソファーに近づき、上から覗き込んだ。悠は右腕で両目を隠しており、よく見ると涙の跡があった。刹那、拓司は全てを理解し、前に回って空いているスペースに腰掛ける。やや間を開けて、悠は消え入るような声を出す。
「長くて1年。短くて半年」
驚くことなく拓司は受け止めた。同じように間を開け、口を開く。
「しばらく休めよ。今のところ、こっちは進む所までは進んでるんだ。叔父さんだって分かってくれるさ」
「・・・・うん」
10年前から共に過ごし、勉学を、世間を教えてくれた、もう1人の兄が、小さな子供に見えた。拓司はそれ以上詮索せず、背もたれに体を預け、話題を変えた。
「ケーキかパフェでも作ろうか? 春海姉ちゃんがレシピ送ってくれたから、新しいやつ作れるけど」
「ありがとう。でも、今度でいいかな。晩御飯は食べるから、さっき言ってたやつ作ってよ。久々に魚、食べたいから」
拓司は頷いた。10年以上前の記憶を手繰り寄せ、悠と初めて出会った日のことを想起する。あの時はまだ、自分の方が背が低かった。司も生きていた。悠の心からの笑顔があった。
今は、その全てが失われていた。10年前から、ずっと。
「今度はどんな絵描いてるの?」
柱時計の音が部屋を支配し始めた時、悠がふと尋ねた。拓司は答えようと口を開き、同時に「何で分かったんだ?」と尋ね返す。悠はすかさず答えた。
「右手の袖口が黒くなってる。出かける前は綺麗だった。絵の具の匂いはしないから、油絵じゃなくて、鉛筆でしょ。集中し過ぎて捲った袖が落ちたことに気が付かなかったんじゃない? よくやるじゃん」
笑いが漏れた。拓司は「流石だな」と呟いて立ち上がる。「ちょっと待ってて」と続けた彼はリビングを後にし、戻ってくると右手にスケッチブックと鉛筆を持っていた。無言で同じ場所に座り直すなり、素早く鉛筆を動かし、「できた」と嬉しそうに笑う。
「また記憶を辿ったの?」
「いや。今回は適当。何となく、空が描きたくなってさ」
そう言いながら、拓司はスケッチブックをひっくり返して絵を見せた。悠はようやく右腕を瞳から退かし、絵に視線を向けた。
繊細で緻密なタッチは、幼い頃から変わっていない。美術の道に進めば、もっと極まっただろうと思われた。しかしすぐそんな懐古を退け、絵に集中した。
夜空だった。周囲には木々が描かれているので、森の中からふと夜空を見つめる、という何でもない情景が浮かんだ。鉛筆がふんだんに生かされ、紙面のほとんどがわずかに濃淡の違いはあるものの、黒に染まっている。
しかし、何よりも目を引くのは、紙面の右上から中央に描かれた流れ星だった。輪郭がなかったので、夜空に支点を置きながら、流れ星が現れるように描いたと分かった。悠は、どうしようもなくその流れ星に惹きつけられた。月も星座も描かれていない夜空に、燦然と輝く、たった1つの流れ星。その流れ星は、笑って絵を見せる拓司自身のように思えた。
気がつくと、悠はまた涙を流していた。悲しみはあるが、先程よりは薄い。安堵の優った涙だった。
「ねえ、拓司」
「うん?」
「天国って、あるのかな」
いつもならば、こんな質問はしなかった。悠は情報という名の洪水を調整しているようなもので、ありとあらゆる情報さえ手に入れば、基本的に物事の本質が分かった。人の心であろうとも、変わらず。だからこそ、彼は想像の世界が苦手だった。情報で処理しきれない世界は、自分が踏み込みにくい世界だった。そのため、拓司の絵を上手いとは思っても、それ以上の感動が込み上げることは少なかった。
しかし今、悠は拓司の絵を見て、正確には1つの流れ星を見て、想像の世界を尋ねた。死ななければ、いや、死んでも存在の不確かな、天国という世界を。
拓司は笑った。いつもと同じ、子供の頃から変わらない、無邪気な笑顔だった。
「あるさ。少なくとも、俺はあると思ってるぜ。天国には兄ちゃんがいて、幸せに暮らしてるって信じてるぜ。不確かなものなんだから、あるって信じた方が楽しいだろ」
20歳に満たない青年の言葉は、悠の心を温めた。それは光だった。光という名の花だった。
悠は溢れる涙を止めることなく、頷いた。自然と笑みが浮かんだ。
「そうだね。じゃあボクも、あるって思うことにする。お父さんが、あんなに真面目で優しい人が、死んだ後に何もないなんてこと、あり得ないから。この世界より幸せな世界で、生き続けてくれるはずだから」
「その通り! だから、今は向き合ったらいいんだよ。時間はあるだろ?」
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