殺意の扉が開くまで

夕凪ヨウ

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30 取引

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「何を言い出すかと思えば・・・。妻の心残りだと? 遺書すら書けないほど衰弱していたのに、そんなことがどこから分かった?」
 切れ長で鋭く光る黒い瞳。筋の通った鼻。整えられた顎鬚。オールバックにした短い黒髪。上等なスーツ。権威に満ち溢れた姿とは反対に、正の声音は低く、暗かった。
 対して、蒼一はシャツにジャケット、ジーパンとラフな姿であり、答える声音も軽い。
「そう警戒なさらないでください。別に、何かを盗み見ただの、調べただの、タチの悪い話じゃありません」
 蒼一は一泊置き、変わらぬ声音で続けた。
「15年前の例の事件・・・と言えばお分かりですか?」
 正は眉を動かした。ワイングラスをテーブルに置き、思わず前のめりになる。誰にも聞かれてなどいないのに、自然と声が小さくなった。
「証拠でもあったのか」
 蒼一もまた、前のめりになった。息が掛かるほどの距離になる。
「曖昧なものですから、起訴どころか逮捕にも至りませんね。しかし、補強は可能です。そのために、取引がしたい」
 正は数秒間だけ悩み、姿勢を戻して、椅子に体を預けた。長い溜息をつき、続けろ、とだけ口にする。蒼一は軽く頷き、言われた通りに言葉を続けた。
「心残りの解決方法は2つあります。
 1つ、こちらが持っている情報を全てあなたに渡し、法の下での裁きを行う方法。
 2つ、過去の事件資料を提供して頂き、情報を元に法を無視して裁きを行う方法。
 松土次長には、まずこのどちらを選ぶかを決めて頂きたいのです。そうでなければ、取引が進みませんから」
「取引をしない、という選択肢はないのか」
「存在しない訳ではありませんよ。ただ、それで構わないのか、という話です。
 私はもう警察官ではなく、あなたはまだ警察官ですが、どちらの方法を取っても法に背き、罪を犯すことにはなります。その点を踏まえて、選ばれるかどうかです」
 全てはあなた次第だ、と言っていた。正は先程よりも眉をひそめ、脳に焼きつくほど覚えている、妻の涙を思い出す。拭いてやることはできても、止めてやることはできなかったと、当時の後悔を思い返して、頭痛がした。
「・・・・順番を変えろ。取引をするとして、お前の願いは何だ」
 無茶を口にしたかと思ったが、蒼一はあっさりと頷き、答えた。
「簡単です。金輪際、私が何かをしていることを察しても、詮索しないで頂きたい。法に触れることであっても、人として許されないことであっても」
「つまりは犯罪を見逃せと」
「ええ。胸が痛みますか? わずかな良心に従って、10年前の情報を密かに残していたように」
 ここでそれを出すとは。相変わらず、人を誘導するのが上手い男だ。
 実際、見逃すことなど許されない。警察官として証拠を探し回り、必要があれば逮捕に踏み切るべきだ。だが、今更警察官の矜持きょうじなど、何の役に立つと言うのだろう。
 私はとうの昔に、10年前に、それを自ら捨てたと言うのに。説得する妻の声も聞かず、己の曖昧な正しさに従って、許されないことをしたというのに。
「10年前の事件の真相が、そんなに大事か」
「大事です。甥の死であるだけではない。私は知らなければならない」
 一体、何がこの男をここまで突き動かすのか。捜査一課にいた時、どんな事件にも何の感情も抱かず解決に導いていた。圧倒的な頭脳と才能で、誰をも凌ぐ警察官でありながら、職務への熱意を持っていなかった。それなのに、こだわる。不思議なこともあるものだ。
「後者の方法を取った場合、殺人を犯すのか」
「その可能性が高いですが、私が直接手を下すかは微妙ですね。状況によります。
 前者であれば、もちろん殺人にはなりませんが、どうせ死刑判決でしょうから、ある意味殺人かもしれません。解釈は任せます」
 日本における死刑反対の声が少なくないことは、正もよく知っていた。だが、当事者や遺族にしてみれば、なぜ生きているのかという疑問が一生付き纏う。再犯の可能性も捨てきれない。だからこそ、死を持って終止符を打つことは、必要なことーーーー彼は、そう考えてきた。
 法によってもたらされる死と、法以外によってもたらされる死。どちらにしても結末が変わらないのであれば、どちらを選んでも同じだと、正は感じた。
「・・・・法によらず、どう裁きを行うつもりだ」
「やり方はいくつかありますから、一口に言うのは難しいですね。しかし後者の場合、情報提供者があなたであることは知られないように行動しますし、表沙汰になっても問題のないよう、裁きを行います。あなたに掛かる迷惑は、事件資料の提供くらいです」
「くらい、で済ませるな。重大問題だ」
「そうですね。それで、どうされます? どちらを選んでも構いませんよ」
 やはり取引をしない選択肢はないじゃないかーーーーそんな文句が浮かんだが、言葉にはならなかった。正は瞑目し、深く吸った息を吐く。ゆったりと目を開け、改めて蒼一を見た。
「お前に任せる。事件資料の提供は、気づかれないようコピーでも作って渡せばいいだろう。この家に届ければいいか?」
「それで構いません。その後、迷惑はかけませんので」
「信じよう。どのくらいかかる?」
「早めに決着をつける、とだけお答えしておきましょう。具体的な期間は不明です。事件資料が手に入らないことには、先に進みませんから」
「私次第ということか。全く、とんだ悪党だな、お前は」
 正の言葉に蒼一は笑った。
「何を今更。それより、こちらの要求は守ってくださいますね? 私の行動を、詮索しないこと」
「ああ。だが、私もリスクを背負っている。法によらない裁きは結構だが、私が終わったと目に見える形で示せ。そうでなければ、その要求は受け入れにくい」
「分かりました。世間の目に触れるよう、結果を用意します」
 現役警察官と元警察官が、法によらない裁きの話をしている。許されないことだった。しかし、許されないことに縋るほど、正は妻の心残りを解決したかった。15年前から、ずっと。
「これで取引は成立だな」
「ええ。後は、お互いが動くだけです」
 取引の話をしてから、蒼一は1度も躊躇う素振りを見せなかった。大したものだと思いつつ、正はワイングラスに残った赤ワインを流し込み、立ち上がる。
「長居したな。ワイン美味かったぞ」
「気に入って頂けて何よりです。道中、お気をつけて」
「ああ。
 明日にでも、過去の事件資料の捜索に取り掛かる。かなり前だから埋まっているだろうし、持ち出す方法も考える必要があるからな」
 蒼一はありがとうございます、と言って立ち上がった。玄関まで正を見送った後、ワイングラスに残っていた赤ワインを飲み干した。


 元上司への犯罪教唆をしておきながら、蒼一はいつものように風呂へ入り、穏やかな眠りにいざなわれた。
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