殺意の扉が開くまで

夕凪ヨウ

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10 幾度なく

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 兄は柔らかく笑っていた。家族にも他人にも変わらない、優しい笑みだ。その笑顔を、俺は幾度となく見て来た。
「にいちゃん!」
 笑っている兄に、俺は駆け寄った。でも、いつまで経っても、距離が縮まらない。見えない壁に阻まれているかのように、俺の足は前に進まなかった。
「来ちゃダメだ、拓司」
 兄から拒絶されたのは初めてだった。俺は思わず息を呑み、叫んだ。
「なんでだよ、にいちゃん! おれ、にいちゃんといっしょにいたい!」
「ダメだよ、拓司。君は、こちら側の人間じゃない」
「こちら側って何だよ! おれとにいちゃんは、家族じゃんか! いっしょにいれないなんて、そんなことあるもんか!」
 無理に突き進もうとした俺は、何かに足を取られて、つんのめった。素早く起き上がるが、今度は底無し沼に嵌ったように、両足が動かない。苛立ちながら足元を見ると、真っ赤な水が、俺の両足に絡みついていた。
「あ・・・・」
 血だった。俺の体を溺れさせるほどの、大量の血だ。俺は荒くなる呼吸を無理に押さえつけ、兄へ視線を移す。
「にいちゃん‼︎」
 絶叫したのは、兄の胸と口から鮮血が流れているからだった。滴り落ちるなんてもんじゃない。まるで滝のように、血がとめどなく溢れている。
 そこでようやく、俺の足を止めているのは、兄の血だと理解した。兄は今にも閉じてしまいそうなほど目を細め、蚊の鳴くような掠れた声で、言った。
「お願いだ・・拓司・・・。真実を・・・・突き止めて・・・僕の無念を・・晴らして、くれ・・・・」
 兄が手を伸ばした。俺も手を伸ばした。だが、その指先が重なる刹那、兄の体は炎に包まれた。一瞬のうちに肉が露わになり、やがて白骨と化して、粉になって、散った。

            ※

「兄さん!!!!」
「拓司!」
 名前を呼ばれて、俺は夢から覚めた。声のした方に視線を走らせると、悠が心配そうな瞳で、俺の顔を覗き込んでいた。
「また司さんの夢を見たの? すごい汗だよ」
 季節は秋に移ろいつつあるのに、俺の額と背中はぐっしょりと汗で濡れていた。俺は半身を起こして頷き、よろめきながら立ち上がる。
「風呂入ってくる・・・。飯は食えるから」
「分かった、用意しておくね」
 頷いた俺の頭には、血塗れになり、炎に包まれ、骨と化し、散り行く兄の姿が焼き付いていた。吐き気さえ催さなかったが、一生同じ夢を見るのかと思うと、一層真実を知りたいと願った。


「蒼一さん、しばらく来れないって」
「え? でも、この間はまた来るって・・・」
「仕事が忙しいみたいだよ。新人の面倒も見てるから、時間が作れないらしい。伝えておいてくれって、昨日拓司が寝た後に来て、言ってた。泊まっていかないのかって、聞いたんだけどね。仕事場が遠いから、帰っちゃった」
 朝食時に告げた言葉に、拓司はあからさまな悲しみを示した。悠は思わず眉をひそめ、焼き魚を切ろうとしていた箸を置く。
「拓司。寂しいなら、面と向かって言いなよ。蒼一さんは誰よりも頭が良くて強い人だけど、愛情に一際疎い人だ。キミの寂しさや悲しさを理解はしているけれど、納得してもらうためには口に出さなきゃ。
 そうじゃないと、いつまで経っても蒼一さんとの距離が近づかないよ。10年間、秘密裏にとは言え育ててくれて、味方でいてくれること、感謝してるんでしょ? 家族と呼べる存在がいること、嬉しいんでしょ? その気持ち、全身全霊で伝えたことある?」
「・・・・ない」
「じゃあ伝えなきゃ。言葉にしないと伝わらないことって、確かにあるんだから」
 わずかに頷いた拓司を見て、悠は食事を再開した。

            ※

「うわ、酷い顔・・・・」
 翔一郎は、鏡に映った自分の顔ーーーー両目の下に隈、腫れた瞳、血の気のない青白い顔色はまるで病人のようーーーーを見て呟いた。
 久方ぶりに弟の夢を見ただけで、何とも情けないと翔一郎は思った。彼は、弟の遺体を見ていない。彼が見たのは、葬儀場で鮮血をぬぐわれ、死装束を纏った弟だけだった。だが、棺が閉じられる時、一瞬でも見逃すまいとした弟の表情が、頭から離れたことがなかった。仕事をしていても、食事をしていても、息抜きをしていても、常に、弟の、その時の表情が頭の片隅にあった。その理由が、弟であるからだけでなく、綺麗な死に顔よりも苦悶に歪んだ死に顔の方が見慣れているからであると、彼は理解していた。普通ならば理解したくもないことだったが、彼は理解できてしまう人間だった。
「・・・・私に苦しむ資格はない」
 弟をうしなったことは事実だが、理不尽に兄の命を奪われた拓司の苦しみと比べれば、自分の苦しみなど歯牙にも掛けないことが正しいと、翔一郎は思っていた。かつて、犯してはならない罪を犯した事も踏まえて、そう思った。
 その時、翔一郎のスマートフォンが鳴った。不思議に思って手に取ると、蒼一からのショートメールだった。彼はハッとして現実に戻り、メールの文面に目を走らせる。そこには、

「話したいことがある。今夜、仕事が終わったら下記の住所に来てくれ」

とあり、一行開けて、住所が記されていた。彼はメモ帳を手に取りかけてやめ、記された住所を頭に叩き込んで、メールを消去した。そうしろと言われたわけではないが、これが正しい行動だという確信があった。
 話とは何だろう、と思いつつ、翔一郎は身支度を始めた。

            ※

「早かったな。捜査は難航中だろうに」
「最近働きすぎだと返されたんですよ。親切な上司に感謝しないとですね」
 蒼一が指定した住所は、小さなバーだった。店自体は地下にあり、物静かで厳格とすら言える表情をした老店主は、虚な瞳で洗い上がったワイングラスを拭いている。2人には目をくれる様子もなかった。
「まあ、座れ。何か飲むか? 車じゃないだろ」
「はい。あの、あまり強くないカクテルをください。味はお任せします」
 老店主はおもむろに頷き、拭き終えたワイングラスを片付けるなり、カクテル作りに取り掛かった。わずかな音量で流れるクラシックと、様々な洋酒の良い香りが、古びた店の雰囲気を強調している。蒼一の手にはウイスキーのグラスがあり、少しだけ口をつけていた。ほどなくしてカクテルが置かれたので、翔一郎は礼を言ってグラスを手に取り、一口、飲んだ。
「・・・・美味しい」
「良いもの揃えてるんだよ、ここは。穴場だから、客が多くないだけで」
「よく来られるんですか?」
「1人で飲む時はな。人と飲む時は別の場所だ」
 そんな雑談を交わした後、蒼一は1つ、息を吐いた。横目で翔一郎を見ることもせず、彼は口を開く。
「弟の夢でうなされていたなら丁度良い。そろそろ話してもらうぞ。10年前、お前の弟が悩んでいたことを」
 グラスに手を伸ばしかけていた翔一郎は、思わず手を震わせて、止めた。
「・・・・目的はそれでしたか」
「現時点で最も分からないことだからな。お前に聞くしかないことだ。協力者として迎えた理由に直結する。話しただろう」
 元上司の見事な策に、翔一郎は失笑した。まんまと嵌まった自分を恥じる気すら起きなかった。寧ろ、10年前から全く衰えていない元上司の力量に感服した。
「無難な受け答えでは、逃れられそうにありませんね」
「当然だ。まあ、話を聞く時間はある。少しずつで構わないから、話せ。聞き役に徹しているから、口は挟まない」
 翔一郎は礼を述べた。この気遣いのせいで、わずかな怒気は消し飛んでいる。彼は長い息を吐き、カクテルを一口飲んで、口を開いた。
「最も端的な言葉で表すなら、家、ですね。弟は・・・翔二郎は、両親を含む親類一同の期待に応えなければならないプレッシャーを背負っていました。かつて私が背負わされ、勝手にも投げ出したプレッシャーを」
 ぽつり、ぽつりと、翔一郎は語り始めた。弟に対して最大の過ちを犯した自身を恥じながら、語り始めた。
 暗澹あんたんたる、自らの家の話を。
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