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第2部 第1章

9 不穏なピクニック(3)

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 風が吹き抜けた。背中をぐいぐいと押し出していくようなゴオッと勢いがあった。裾広がりのズボンと一つに結んでいた髪の毛を舞い上げた。
 後れ毛が顔に張り付く。口の中にも何本か入り込んできた。木々の葉っぱやら小枝や木屑やらが上空から降ってきた。
 【この先行く可からず】
 見落としていたのか。フッと頭の中に注意書きの看板が現れた。
 「ムジさん。やはりこの先には行かない方が」
 前後不覚になる前に帰ろう。
 「何言ってやがる。お前が行かなきゃ話が始まらん」
 「でも、上からいろいろ降ってきて、まるで私をこの先に行かせないようにしてるみたいじゃないですか」
 「夜鳴き鳥が巣作りに集めた材料だ。こんなものでいちいちビビるな」
 ムジはキアの頭の上にくっついた木屑らを払い落とした。
 「夜鳴き鳥?」
 見上げても空の一部すらも見えない。重なり合う木々の枝がゆっくりと揺らめいていた。その隙間からわずかに光が差し込む。わずかだが鳥の声も聞こえた。
 「夜鳴き鳥は森の一番高い木の上で巣作りをする。上空は風が強いから、あれこれ飛んでくるのはよくあることだ」
 オラ行くぞとムジはキアの腕を引いた。
 「あの、でも、」
 「夜鳴き鳥っつーのは、胴体が黒毛で額と尾っぽが赤い。王族の鳥だ。王に仕える鳥ってんで、王仕鳥とも言う。人前には滅多に現れないから俺も遠目にしか見たことがない。王様は何といったかな…」
 ムジは胸の前で腕組みをして考え込んだ。
 …王族の鳥。王…様…
 「…ヴァ…リ…ウス、」
 「おお、そう!確かそんな名前だった。よく知ってるな。こんな田舎じゃ、なかなか王都の話など聞かないからな。噂だと、どうもかなりの曲者らしいじゃないか」
 キアの頭の中にある情景が現れた。
 開け放たれた窓の外から、風が吹き抜けた。カーテンを揺らし、本のページをめくり、遠くから鳥の鳴き声がした。ルルルとかわいらしい声だ。部屋に人がいる。男性が4人と女性が1人。男性のうち1人と女性が話し合っていた。男性は引き締まった体をしてどっしりと構えていた。女性は何となく萎縮しているように見えた。緊張しているのか。表情が硬い。
 どうして今こんな情景が思い浮かぶのだろうか。
 私はここにいる人達のことを誰も知らないというのに。
 知らない?本当に?
 誰も見たことがない?
 だれ…?
 キアはぎゅっと胸の前で拳を握った。心臓の音が跳ねているのがわかる。 
 ドンドンと。内側から外に飛び出してしまいそうなくらいに勢いがある。
 滅多に姿を現さない鳥がどうしてこのタイミングで騒ぎ立てるのだろうか。
 この胸の痛みと何か関係があるのだろうか。
 キアはもやもやして来た。どうしたって前に進むことを阻止されていると考えてしまう。
 動悸で目の前が暗い。一瞬にして暗転した。ハッと目を開けた時には膝が地面についていた。
 「おい大丈夫か?いきなりどうした?」
 ムジはキアの肩に手を置き揺さぶった。
 「…気持ち悪…く…て」
 揺さぶられた反動もある。胸と頭の中のもやもやがシャッフルされて正常な思考回路が保てない。
 「何だ、くそ!おい、しっかりしろ!アンジェの奴を呼び寄せる!待ってろ!」
 ムジは立ち上がり、遥か前方を歩くアンジェにおーいと声を上げた。一度で聞こえるはずもなく、何度もおーいおーいと叫んだ。
 「水を飲め。キハラ神の水だ」
 ムジは水筒をキアに渡した。飲み口の蓋を開けて直に口をつけた。つるりと流れ込む湧き水の滑らかさが、跳ね上がる胸をなだめてくれた。
 「キハラ…」
 離れていても気配を感じる。水に溶けて体の中に沁み込んでいるようにも感じた。
 動悸が収まっても意識は混濁していた。立ち上がるのは今は無理だ。
 キアは横向きに背中を丸めて寝転んだ。
 「しっかりしろ!ちょっと待ってろ!」
 ムジは立ち上がりアンジェを呼ぼうと口を開けた。しかし、視界の端に映ったものに動揺し、口を閉ざしてしまった。
 「た、旅のお方。お一人ですか?お連れ様は…?」
 いつになく丁寧な、かつ、どこか逃げ腰のような口ぶりだった。キアはぼうっとしながらムジを見上げた。そんな話し方をするムジは初めてだ。上客か、それとも招かれざる客か。
 「…私一人だ」
 「宿はもう決められましたか?」
 「宿は取らない。だが、水と食糧を調達したい」
 「なら広場の方においでください。私どもの宿で水と食糧を用意させますのでね」
 「感謝する」
 ムジはキアに背を向けて話している。そのせいか話し相手の顔は見えない。
 「ご案内します。さ、こちらに」
 ムジはいつものように客を誘導して歩き出すが、はたと足を止めた。
 「おっと悪い。先にこの方を案内してくるな」
 「…」
 「宿に戻って薬を持って来る。もうしばらく待ってろ」
 「…はい」
 キアは力なく答えた。
 「具合が悪いのか?」
 ムジの前にいた旅人はキアの方を振り返った。
 「あ、いや、まあ。宿に薬があるので大丈夫ですよ。な?」
 それまで待てるよな?とムジはキアに念を押した。旅人とキアを接触させないよう間に入り込む。
 「先ほど、国境の門所で薬剤師から買ったものだ。良ければ使ってくれ」 
 「アンジェの奴、もう門所まで行ってやがるのか」
 声が届くわけがない。
 ムジはへの字に口元を曲げた。
 「ありがたいが、よろしいんですか?あなたも必要なのでは」
 「ああ。大丈夫だ」
 旅人はしゃがみ込み、キアの顔を覗いた。青白い顔をそっとひと撫でした。毛深い掌で、しっとりと汗ばんだ額を拭い、長い爪で、顔に張り付いた髪の毛を取り払った。
 「ナグの実だ。口の中で溶かしながら舐めるんだ。種の中に痛みを和らげる成分がある。じきに楽になるだろう」
 「…ありがとう、ございます」
 キアは自分を覗き込んでくる人物を見上げた。ぼんやりとしてよく見えないが、長い毛が風に揺れていた。アッシュグレーの美しい毛並みだった。
 口元は布で覆われていて、顔は半分しか見えなかった。瞳の色は緑色だった。
 「早く治るといいな。お大事に」
 旅人はキアの顔をもう一度撫でた。
 「さ。ささ、行きましょう」
 ムジは追い立てるように客をせっついた。
 キアにはそこで休んでいろとせわしなく叫んだ。 
 心なしか焦っているようにも見える。心配しなくても動けそうにない。ここはお言葉に甘えて休ませてもらおう。
 キアは旅人から貰った薬を眺めた。茜色の硬い実だった。アンジェの薬には躊躇があるが、今の何と言っていいかわからない状況から脱することができるなら何でもよかった。口の中に含んだ。
 「甘…い」
 予想に反して甘い口当たりに、若干拍子抜けしてしまった。黒砂糖のような上品な深みのある味わいだ。ナグの実は、口の中でほろほろと溶けていった。種に当たると簡単に割れた。中から黒蜜のようなものが出てきた。濃厚な味わいに目が覚めた。酸味で目が冴えるというのと似てる感覚だ。甘すぎて喉が乾く。上等な和菓子をいただいた後のようだ。渋いお茶があれば、口の中を緩和させてくれる。
 「お茶が飲みたいなぁ」
 キアは横向きから体を返して、仰向けに寝転んだ。地面の硬さが今はちょうどいい。さっきまで感じていた動悸も焦燥感も消えていた。
 「さっきの人は誰だったんだろう…」
 村人ではない人をまだ見たことがない。ムジさんは旅人と呼んでいたかしら。
 「優しいひと…」
 撫でてくれた指先の感触を覚えている。毛足の長い敷物みたいな。
 「え。…?」
 手触りが動物の毛のようだった。ふわふわして温かい。長い爪も動物の鋭さを連想させる。
 「コト…」
 言いかけて、やめた。こんな言葉に当てはめるなんてどうかしてる。まっぴらだ。私も。あの人も。
 失礼にもほどがある。
 今はまだ何も言い返せないけど、言われっぱなしは癪に障る。
 キアはゆっくりと体を起こした。ぐるり360度見渡しても、視界は緑色だ。しかしよく見ると葉っぱの形もそれに沿う印影も違う。長細かったり丸かったり、みつまたに分かれていたり肉厚だったり。葉脈の模様も様々だ。緑色も一色ではない。深かったり淡かったり、黄身ががっていたり白んでいたり。蔦や苔など、木々の幹にしてもどれ一つと同じものではなかった。
 森の中と一言で言ってしまえばそれまでだけど、ここはあの森とは違う。キハラの姿はなくともキハラを感じる。あんな恐ろしいものはいない。
 (落ち着け)
 自分に言い聞かせる。胸の鼓動がだいぶ正常に戻ってきた。
 深呼吸。ゆっくり、ゆっくり。ゆっくりといこう。
 キアは胸をなでおろしながら深呼吸を二度、三度と繰り返した。森の澄んだ空気が鼻の中にスゥーっと入り込んだ。耳を峙たててみると水の音や虫の声も聞こえた。
 数歩歩いてみると激しい羽ばたきと雛のような甲高い鳴き声が上空から降ってきた。
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