上 下
92 / 201
第2部 第1章

1 キア

しおりを挟む

-----------------------------------------------------

 月が生る。
 はじまりとおわり。

 わたしはだれ?ここはどこ?
 記憶喪失になったであろう時に、必ずとも言っていい文言が私を苛んでくる。
 毎朝だ。
 毎朝、同じ言葉を聞いて目が覚める。

 わたしはだれ?

 天井の下の梁を見つめた。屋根裏の空いたスペースの部屋だから、手を伸ばせば届きそうな距離にある。でも遠い。起きたばかりの感覚なんてそんなものだ。そこからは何も出てきやしないし、記憶を思い出すヒントもないのに、目が覚めて初めに目がつくのは天井の梁だった。大屋根を支える立派な木だ。表面の皮の色といい、年輪の模様といい、どっしりとして重厚感がある。室内の柱や床も同じ木材を使用していた。階段も同じだ。
 重厚感に圧倒されてため息が出る。この家にふさわしくない自分を情けなく思う。
 でも、いちいち起きるたびにくよくよしている場合ではない。宿屋の朝は忙しいのだ。
 布団から出て、寝間着を脱いで今日の服に袖を通した。
 前あきのボタンが付いた白い薄地の服だ。手首のボタンを外して腕まくりをした。黒いズボンに黒い前掛けを締めた。鏡に映る自分を見つめた。茶色い目、白い肌、青みがかった髪の色。
 見覚えのない姿にまた、ため息。
 私ではない「私」
 記憶はないけれど、これは自分ではないと体が訴えている。ため息。また、動きが鈍くなる。
 「おはよう。キア」
 階段の下から呼ばれた。宿屋の主人だ。ナユタという。
 細身で黒髪の短髪。自分と同じく腕まくりをした両手には食事の材料があった。今朝は採れたての野菜でサラダを作り、自家製酵母で焼いたパンに、具沢山なスープ。鍋には卵が茹でられている。半熟か固めか。どちらがいいように取り分けている。毎朝同じ取り合わせだが、毎朝内容が違う。いい匂い。腹の虫がキュウと鳴いた。宿屋に客がいない分、近所の住人に振る舞われていた。
 「…おはようございます」
 呼ばれてもすぐに返事ができないのは、まだその名前を受け入れてないからなんだと思う。贅沢な悩みだ。
 キア。聞きなれない名前の音にどう反応していいかわからない。素性のわからない私を保護して、家に住まわせてくれて、名前まで用意してくれたというのに。
 良い人達なのに。
 「さあさ、顔を洗って髪を結んできな。朝食の準備を手伝ってくれ」
 「はい」
 私はまだ、何の恩も返せていない。
 台所の奥にある手洗い場に入った。ここで洗濯をしたり、髪を梳かしたりする。ちなみに風呂場は外の別の建物になる。
 顔を洗ってもう一度鏡に映る自分を見た。知らない姿にまた自問自答。
 むしゃくしゃする。
 「…はぁ」
 くよくよしてはいられないのに、弱気がおさまらない。
 頬から滴る水が水面に波紋を広げた。一重二重と。
 風の音が聞こえた。水面を揺らし、木々の緑を映し出した。新芽の季節だ。若い柔らかな葉が風になびいている。
 「…キハラ」
 呼ばれているのだろうか。森の主に。
 身を乗り出して水面を覗いた。映るのは今にも泣きそうな自分の顔だけだった。
 さわさわと揺れる枝の先から花が舞う。ひとつふたつと。白い花。雪の結晶のような繊細な花弁から甘い香りがした。
 「その水は森の湧き水と同じところから来ているから、思念が届いたんじゃないかな」
 背後から声がした。
 「ナユタさん」
 「慣れることを急がなくていいよ。知らない土地に来てすぐに柔軟に対応できる人は大抵が無理をしている。居心地の良し悪しは人それぞれさ」
 見透かされている!
 「わ、私は、ナユタさんやナノハさんにはとても感謝しています。助けてもらった上に、住む場所をくれて、それに名前まで、」
 焦って口がうまく回らなかった。吃ってしまった。
 「わかってるよ」
 みなまで言うなと言わんばかりにナユタは察してくれていた。
 頭を撫でる仕草は幼子をあやすそれに似ていた。
 「キアという名前は、キハラの別名なんだ」
 「別名…?」
 「彼らは雌雄同体だ。時に雄、時に雌と人格が入れ替わる。雌の名前がキアラ」
 「キアラ…」
 「森で君を見つけた時は、俺がキアラの番だったんだよ。君が現れてキハラが出てきた。これも何かの縁だと思ってね。キアラの名前からとったんだよ。君を守ってあげられる名前だと思ってね」
 「私を守る…名前?」
 守ると言われてドキッとした。
 「番は主と共にある。いつまでも素性の知れない名無し草だなんて言われたくないからね。キアはうちの子だ。堂々としてなさい」
 ナユタは今にも溢れ落ちそうな私の涙を拭ってくれた。
 私が村の人間達からも異質に見られていて、所在無く落ち込んでいたのを知っていたのだ。
 「さあ!おしゃべりはここまで。外のテーブルを掃除してセッティングしてくれ。ナノハに怒られちゃうよ」
 ナノハはナユタの妻だ。小柄ながらパワーがある。
 ナユタは喝を入れるかのように、キアの背中をパシッと叩いた。
 「それに森の主から付けた名前だもん。きっとご利益あるよ」
 「はい…!」
 私もパシッと両頬を叩いた。

 下を向くな。差し伸べられた手を無下にしちゃダメだ。
 進むなら、自分の意思で。
 少しずつでも前向きに。

 目尻に溜まった涙を風が振り払っていった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた

杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。 なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。 婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。 勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。 「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」 その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺! ◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。 婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。 ◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。 ◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。 ◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます! 10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

【完結】元婚約者であって家族ではありません。もう赤の他人なんですよ?

つくも茄子
ファンタジー
私、ヘスティア・スタンリー公爵令嬢は今日長年の婚約者であったヴィラン・ヤルコポル伯爵子息と婚約解消をいたしました。理由?相手の不貞行為です。婿入りの分際で愛人を連れ込もうとしたのですから当然です。幼馴染で家族同然だった相手に裏切られてショックだというのに相手は斜め上の思考回路。は!?自分が次期公爵?何の冗談です?家から出て行かない?ここは私の家です!貴男はもう赤の他人なんです! 文句があるなら法廷で決着をつけようではありませんか! 結果は当然、公爵家の圧勝。ヤルコポル伯爵家は御家断絶で一家離散。主犯のヴィランは怪しい研究施設でモルモットとしいて短い生涯を終える……はずでした。なのに何故か薬の副作用で強靭化してしまった。化け物のような『力』を手にしたヴィランは王都を襲い私達一家もそのまま儚く……にはならなかった。 目を覚ましたら幼い自分の姿が……。 何故か十二歳に巻き戻っていたのです。 最悪な未来を回避するためにヴィランとの婚約解消を!と拳を握りしめるものの婚約は継続。仕方なくヴィランの再教育を伯爵家に依頼する事に。 そこから新たな事実が出てくるのですが……本当に婚約は解消できるのでしょうか? 他サイトにも公開中。

伯爵夫人のお気に入り

つくも茄子
ファンタジー
プライド伯爵令嬢、ユースティティアは僅か二歳で大病を患い入院を余儀なくされた。悲しみにくれる伯爵夫人は、遠縁の少女を娘代わりに可愛がっていた。 数年後、全快した娘が屋敷に戻ってきた時。 喜ぶ伯爵夫人。 伯爵夫人を慕う少女。 静観する伯爵。 三者三様の想いが交差する。 歪な家族の形。 「この家族ごっこはいつまで続けるおつもりですか?お父様」 「お人形遊びはいい加減卒業なさってください、お母様」 「家族?いいえ、貴方は他所の子です」 ユースティティアは、そんな家族の形に呆れていた。 「可愛いあの子は、伯爵夫人のお気に入り」から「伯爵夫人のお気に入り」にタイトルを変更します。

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

英雄になった夫が妻子と帰還するそうです

白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。 愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。 好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。 今、目の前にいる人は誰なのだろう? ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。 珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥) ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。

【完結】義妹とやらが現れましたが認めません。〜断罪劇の次世代たち〜

福田 杜季
ファンタジー
侯爵令嬢のセシリアのもとに、ある日突然、義妹だという少女が現れた。 彼女はメリル。父親の友人であった彼女の父が不幸に見舞われ、親族に虐げられていたところを父が引き取ったらしい。 だがこの女、セシリアの父に欲しいものを買わせまくったり、人の婚約者に媚を打ったり、夜会で非常識な言動をくり返して顰蹙を買ったりと、どうしようもない。 「お義姉さま!」           . . 「姉などと呼ばないでください、メリルさん」 しかし、今はまだ辛抱のとき。 セシリアは来たるべき時へ向け、画策する。 ──これは、20年前の断罪劇の続き。 喜劇がくり返されたとき、いま一度鉄槌は振り下ろされるのだ。 ※ご指摘を受けて題名を変更しました。作者の見通しが甘くてご迷惑をおかけいたします。 旧題『義妹ができましたが大嫌いです。〜断罪劇の次世代たち〜』 ※初投稿です。話に粗やご都合主義的な部分があるかもしれません。生あたたかい目で見守ってください。 ※本編完結済みで、毎日1話ずつ投稿していきます。

処理中です...