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第2部 第1章
1 キア
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月が生る。
はじまりとおわり。
わたしはだれ?ここはどこ?
記憶喪失になったであろう時に、必ずとも言っていい文言が私を苛んでくる。
毎朝だ。
毎朝、同じ言葉を聞いて目が覚める。
わたしはだれ?
天井の下の梁を見つめた。屋根裏の空いたスペースの部屋だから、手を伸ばせば届きそうな距離にある。でも遠い。起きたばかりの感覚なんてそんなものだ。そこからは何も出てきやしないし、記憶を思い出すヒントもないのに、目が覚めて初めに目がつくのは天井の梁だった。大屋根を支える立派な木だ。表面の皮の色といい、年輪の模様といい、どっしりとして重厚感がある。室内の柱や床も同じ木材を使用していた。階段も同じだ。
重厚感に圧倒されてため息が出る。この家にふさわしくない自分を情けなく思う。
でも、いちいち起きるたびにくよくよしている場合ではない。宿屋の朝は忙しいのだ。
布団から出て、寝間着を脱いで今日の服に袖を通した。
前あきのボタンが付いた白い薄地の服だ。手首のボタンを外して腕まくりをした。黒いズボンに黒い前掛けを締めた。鏡に映る自分を見つめた。茶色い目、白い肌、青みがかった髪の色。
見覚えのない姿にまた、ため息。
私ではない「私」
記憶はないけれど、これは自分ではないと体が訴えている。ため息。また、動きが鈍くなる。
「おはよう。キア」
階段の下から呼ばれた。宿屋の主人だ。ナユタという。
細身で黒髪の短髪。自分と同じく腕まくりをした両手には食事の材料があった。今朝は採れたての野菜でサラダを作り、自家製酵母で焼いたパンに、具沢山なスープ。鍋には卵が茹でられている。半熟か固めか。どちらがいいように取り分けている。毎朝同じ取り合わせだが、毎朝内容が違う。いい匂い。腹の虫がキュウと鳴いた。宿屋に客がいない分、近所の住人に振る舞われていた。
「…おはようございます」
呼ばれてもすぐに返事ができないのは、まだその名前を受け入れてないからなんだと思う。贅沢な悩みだ。
キア。聞きなれない名前の音にどう反応していいかわからない。素性のわからない私を保護して、家に住まわせてくれて、名前まで用意してくれたというのに。
良い人達なのに。
「さあさ、顔を洗って髪を結んできな。朝食の準備を手伝ってくれ」
「はい」
私はまだ、何の恩も返せていない。
台所の奥にある手洗い場に入った。ここで洗濯をしたり、髪を梳かしたりする。ちなみに風呂場は外の別の建物になる。
顔を洗ってもう一度鏡に映る自分を見た。知らない姿にまた自問自答。
むしゃくしゃする。
「…はぁ」
くよくよしてはいられないのに、弱気がおさまらない。
頬から滴る水が水面に波紋を広げた。一重二重と。
風の音が聞こえた。水面を揺らし、木々の緑を映し出した。新芽の季節だ。若い柔らかな葉が風になびいている。
「…キハラ」
呼ばれているのだろうか。森の主に。
身を乗り出して水面を覗いた。映るのは今にも泣きそうな自分の顔だけだった。
さわさわと揺れる枝の先から花が舞う。ひとつふたつと。白い花。雪の結晶のような繊細な花弁から甘い香りがした。
「その水は森の湧き水と同じところから来ているから、思念が届いたんじゃないかな」
背後から声がした。
「ナユタさん」
「慣れることを急がなくていいよ。知らない土地に来てすぐに柔軟に対応できる人は大抵が無理をしている。居心地の良し悪しは人それぞれさ」
見透かされている!
「わ、私は、ナユタさんやナノハさんにはとても感謝しています。助けてもらった上に、住む場所をくれて、それに名前まで、」
焦って口がうまく回らなかった。吃ってしまった。
「わかってるよ」
みなまで言うなと言わんばかりにナユタは察してくれていた。
頭を撫でる仕草は幼子をあやすそれに似ていた。
「キアという名前は、キハラの別名なんだ」
「別名…?」
「彼らは雌雄同体だ。時に雄、時に雌と人格が入れ替わる。雌の名前がキアラ」
「キアラ…」
「森で君を見つけた時は、俺がキアラの番だったんだよ。君が現れてキハラが出てきた。これも何かの縁だと思ってね。キアラの名前からとったんだよ。君を守ってあげられる名前だと思ってね」
「私を守る…名前?」
守ると言われてドキッとした。
「番は主と共にある。いつまでも素性の知れない名無し草だなんて言われたくないからね。キアはうちの子だ。堂々としてなさい」
ナユタは今にも溢れ落ちそうな私の涙を拭ってくれた。
私が村の人間達からも異質に見られていて、所在無く落ち込んでいたのを知っていたのだ。
「さあ!おしゃべりはここまで。外のテーブルを掃除してセッティングしてくれ。ナノハに怒られちゃうよ」
ナノハはナユタの妻だ。小柄ながらパワーがある。
ナユタは喝を入れるかのように、キアの背中をパシッと叩いた。
「それに森の主から付けた名前だもん。きっとご利益あるよ」
「はい…!」
私もパシッと両頬を叩いた。
下を向くな。差し伸べられた手を無下にしちゃダメだ。
進むなら、自分の意思で。
少しずつでも前向きに。
目尻に溜まった涙を風が振り払っていった。
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