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第5章

20 ただ一つの絶対的なもの。

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 「眠るなよ」
 ディルは返事のないシャドウに振り返った。長い髪をだらりと顔の前に下げ顔色は伺えなかったが、だいぶ怠そうにしていた。ゴビバビルムバウムの酸がまだ体内に残ってるようだった。
 「…ああ」
 うなだれた呻き声が息を吐くように聞こえた。ディルはしょうがないなと腰に提げたポーチの中から小さな缶を取り出した。中には砂糖をまぶした保存食がいくつか入っていた。赤い実と黄色い実。
 「景気付けに2、3個いっとくか」
 ディルは、にひひといたずらっ子のような悪い笑みを浮かべた。手のひらの中には黄色い実2個と赤い実が1個。ひとつは言わずと知れたシャンシュールだ。柑橘類の中では最も小さな実だが、味は最強レベルの酸味を持つ。もうひとつはムルアの実。透明の皮を剥いてから赤い実が出てくる。これは、そのまま皮を剥かずに食べる。甘い果汁がたっぷりと入ったまろやかな味わいだ。酸味と甘味のバランスは申し分ない。どちらかでは味に飽きがきてしまうが、交互に食べれば口寂しさはなくなる。長旅には必需品だ。
 「シャドウ。口開けろ」
 ディルはシャドウの顎を掴み、にわかに開いた口の中にポイポイと果実を放り込んだ。頭と顎を挟むように抱え込み、咀嚼するように促した。
 「よ~く噛めよ~」
 弾力がある分、喉に引っかかりやすい。しかも喉を引っ掻き回すような味だ。
 「…ぉおあああ!!」
 しばらくして、シャドウは口元を抑えてもがき出した。
 パンクロッカーのごとく、髪の毛を振り乱してもがいていた。
 「吐き出すなよ」
 にひひと笑うディル。
 「お、まえ…ふざけるな…よ」
 シャドウは口元を抑えてディルを睨みつけるが、眼力はない。目尻に涙の粒が見えた。性格上、絶対に人前では吐けない。
 「ふざけてないよ」
 あっけらかんとディルは流した。
 「犬になったってシャドウの体は運べないんだから起きてもらわなきゃ。運べたとしても、せいぜい雪までだな」
 あいつも重いけどね。
 ディルはさらっと酷いことを言い放つ。
 「…雪」
 シャドウは、はっとしてキョロキョロと辺りを見回した。
 「俺はどのくらい寝てた?あれから何分経った?」
 ディルの力でゴビバビルムバウムの群生地からシャドウを運び出せたのはそれほど距離はない。
 「んー…そんなには。10分くらいかな」
 「…そんなにか」
 時間が惜しい。1分たりとて無駄にしたくないのだ。
 「早く雪を探さねばな」
 この10分の間に雪の身に何かあったらと思うと気が狂いそうになる。
 シャドウは口内に残る果実を無理やり胃の奥に沈めた。
 込み上げてくる嗚咽を手のひらで無理やり押し戻した。
 顔の前にうるさくバラついていた髪の毛も無造作に縛り上げた。
 シャドウは行くぞとディルに向き直った時、
 「…あ、あれ何」
 ディルは崖の下に視線を送った。
 崖の下から地上へと這い上がって来そうな太い枝が幾重にも伸びていた。
 「…リュリュトゥルテだ」
 「あれが国花?何か気持ち悪いな。人間の腕みたいだ」
 ディルは顔をしかめた。何十、何百の人の腕が四方八方に伸びていた。隣り合わせの指先が絡み合って融合して、また次の腕を探す。手を繋ぐという友好的なものではなく、共食いのように侵食し合う。より上へ、上へと向かう欲望の塊のような物体に成り代わっていた。可憐とされる花も自身の枝に押し潰されていて、花びらが数枚剥がれていた。
 以前に見た時より成長していた。後味の悪さが胸に沁みた。
 「ここは塔の裏か。何とかして塔の中に入らないとな」
 不意に、シャドウの頭の中に剥がれ落ちた花びらが風に舞う情景が過ぎった。無数の花びらの中に倒れ込む雪を見た。

 (まだだ、まだやめてくれ!!)

 シャドウは目を瞑ってその情景を打ち消した。雪をまだ行かせるわけにはいかないと心の中で強く思った。

 (俺が行くまで待ってくれ!!)

 どうしてもこの世の理りを覆せないのなら、せめて1人では行かせたくない。望まない道に放り出すことだけはしたくない。道を示すと何度となく背中を支えたつもりだったが、何一つとして叶えてやれてない。つもりだけでは誰も救えやしない。決して望まない道に行かせるわけにはいかないのだ。
 「とにかく行こうぜ。表に出て中に入るルートを探そう」
 塔の周りは白装束の査問委員会が固まっていた。神殿の中に息を潜めていた神職者達を全員外に集められていた。
 委員会の連中に突っかかる者もいれば、大人しく座り込む者もいた。力任せに暴力を振るわれたりはしてなさそうだった。どうしたって物々しい雰囲気に皆、何事かと不安そうにしていた。荒れ狂う草花や空を指差してはざわめきが起きた。
 「シャドウ」
 ディルの声は俄かに困惑していた。
 「何だ」
 「あれ見て!空が」
 ディルも空を見上げて指を指した。金色に輝く雲の塊が悠々とたなびいていた。その中を光の粒子が風になびく。
 「空が、…割れる!?」
 いつかどこかで見た光景に似ていた。あの時は曇天の雲を割って、雲のカケラが雪と共に降ってきた。パラパラと。灰色のカケラが舞い落ちる。はらはらと儚く風に舞う。手のひらに落ちる頃には音もなく溶けて消える。
 「雪?」
 雪と見間違えるほどやわなカケラとは違った。手のひらに落ちてもなお、輝きは消えない。
 「何だこれは」
 金色の、としか言いようがない。
 シャドウもディルも手のひらと空とを交互に何度も見返した。
 まあるく切り込みが入った空は、螺旋を描くように光が降りて来た。ワルツを踊るようにくるくると。白い塔の先端部に輪がかかった。
 おお、と神職者達は次々と歓喜の声を上げた。
 ふっと息を吐くように、塔の上てっぺんから地上へと輪が落ちた。くるくると回りながら落ちる輪からは金色の粒子が溢れ出ていた。クリーニングしていくようになぞられた箇所は、ヒビや汚れを一掃した。地上に着くや否や、地面を波打った。鬱蒼とした草花を包み込み、成長しすぎた草木を沈ませた。手折れては生き返り、手折れては生き返り。隆起した地面は均され、崩れた斜面はなだらかになった。
 「あれはもしかして、天冠か!」
 「神は我々を見捨てたわけではないのだ!!」
 神よ、神よと神職者達は地面に膝をついて頭を下げた。
 我も我もと後に続く神職者達。まばゆい光に人々は皆目を開けてはいられなかった。じきに査問委員会の人員達も同じ行動に出た。
 「巫女様か?巫女様にくだったのか?」
 ある神職者の声にシャドウは酷く動揺した。
 「な…に…」
 「おい、シャドウ。やばいって!」
 ディルが腕を掴もうとしたが、タッチの差で手が届かなかった。シャドウとて長く空を見上げているのは禁忌だと教え込まれていた。神もしくは神の使者を覗き見してしまう恐れがあるからだ。今まさにそんな状況下であるのに、シャドウは目を反らせなかった。
 まばゆい光に縁取られた箇所から世界が変わる。
 「まさか…マリー、おまえ…」
 神の巫女になるということは、一生を神殿に身を捧げて生きていかなければならない。
 「それだけ」は何としても回避したかったのだ。別の世界を、別の生き方を、教えてやりたくて下界に連れ出したというのにすぐに捕まって愚行だと処分され、シャドウは神職を剥奪され、マリーは成長を止められた。
 「罰はもう受けた筈だ!なのに、なぜ、」
 シャドウは神職者達を掻き分けて、塔の中に入ろうと走り出した。
 「ちょ、待てってシャドウ!落ち着けよ!マリーが決めた事かもしれないだろ!」
 ディルは今にも飛び出そうとしているシャドウを体を入れて制止した。
 「もしそうなら、シャドウにだって止める権利はないよ」
 ディルは自分より背丈のあるシャドウを制止するのは一苦労だった。じりじりと詰め寄られていた。
 突然現れた2人に何者だ、何者だと騒ぎ立てる委員会の連中をよそ目に、神職者達の中にはシャドウを知る者もいた。
 ソインだ。マリーの置き忘れた靴を取りに行った後、地震により地面が隆起し、草花に遮られたりしてすっかり迷子になってしまっていたのだ。よそ者と警戒をされないように、神職者達と同じ白っぽい服を着ていた。ソインはこそこそと委員会の人員と神職者達の中を割って、シャドウの腕を引いた。感動の再会に体が黙っていることはできなかったのだ。こっちですよとソインは人混みに紛れ込んで雑踏の中を小走りで歩いた。ディルはシャドウの姿を見逃さないように目で追った。
 「シャドウさ~ん」
 均された垣根を超えたところでソインは振り返り、シャドウに抱きついてきた。
 「シャドウ、この人は?」
 垣根を越えてディルが入って来た。神職者と同じ服を着た小太りの男を胡散臭いとピリピリと警戒心を逆立てた。
 「ソイン。お前無事だったか!」
 「そりゃあもう大変だったですよ!いきなり地震がきて地滑りするわ隆起するわ!僕の自慢の花壇も台無しですよ!」
 会話の中でディルと目が合い、僕はソイン。花卉農家ですと挨拶をした。
 「そんなことより、あれは何だ!天冠か?マリーはどうした?」
 「詳しくはわかりませんが…神殿の者はそれっぽいことを言ってますね。こんなこと僕初めてですよ!こんな神々しい状況、一生に一度ですよね!国花も咲いてただ事じゃないですよ!!」
 ソインは興奮覚めならぬ状態だ。
 「マリーはどこだ?」
 シャドウはソインの高揚した感情を塗り潰すように低い声で唸った。
 「…巫女様のお姿はまだ確認できてません」
 何かを察知したかのように、ソインは静かになった。
 「ただ、神官様でしたらお見かけしたような」
 「チドリか?」
 「は、はい」
 ソインは自信なさげに塔の上を指指した。示した先は眩しくて、まともに目を開けてはいられなかった。
 「…国花の開花に巫女の誕生で神々の祝福か?」
 ディルも納得はできてないようだった。

 
 「あーあー。すげえなぁ、天冠はマリーが継いだか!やっぱりなぁ。そりゃそうか!素質あるからな!…望まなくてもすんなりと手に入るんだからなぁ。オレらは、望んでも、いや望むことさえ許されないんだからなぁ」
 参るなぁと頭を抱えるチドリの口調の変化に、雪は気がついた。真面目な素振りから一転、素に戻っていると思った。タガか外れたか。粗野な口ぶりだ。
 「天環違いだな。いい気味。ヴァリウスの奴、今頃泡食ってるよ。予想と反した出来事が起きているからね」
 「どういう意味?」
 「アテが外れたって意味さ。自分こそが唯一王だとか思っちゃってるイタい奴だから、きっと、現実を突きつけられても直視できてないだろうから、荒れてるぜ今頃」
 「…楽しそうですね」
 雪はやや冷ややかな目でチドリを見た。
 「ザマーミロ!…唯一だなんて図々しいにもほどがある」
 「唯一…」
 「きみにとっての唯一は何?」
 …ただ一つの絶対的なもの。
 「…」
 「答えられないの?」
 「…大事な物が多すぎて順番を付けるのは難しい…です」
 「真面目だね」
 フンと鼻で笑い、雪の拘束を解いた。拘束具の跡がくっきりと肌に残っていた。内出血の跡が青黒く痛々しく感じた。点滴針の跡みたいに黒く広がる。結っていた髪紐が切れ、髪の束が肩に着いた。
 まあ、そこが羨ましくもあるとチドリは呟き、雪の髪に触れた。
 「…あなたこそ何が一番大事なんですか?あなたにとってただ一つの絶対的なものは何?」
 「友達…かな?」
 「何で疑問形」
 「大事過ぎて、傷つけても許されるとか思っている節がある」
 「ずいぶん都合のいい考えですね」
 「かもね。マリーはかわいいし、サリアは口うるさいけど優しいし」
 「…シャドウさんは」
 「シャドウはいい奴だ」
 「…ですね」
 「だから、きっと」
 チドリは雪の髪の毛から手を離し、首の後ろに手をかけた。
 「オレの行動を理解して」
 「オレを許してくれる」
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