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第5章 淋しいキノコは山より里を選ぶ
第12話
しおりを挟む地下部屋には窓がない。よって、照明が消えれば完全な闇となる。
「――何だ、停電か? 近くに落雷でもあったのか……」
戸惑う声が聞こえて、貴祐の手元がポッと明るくなった。携帯端末のライトを点けたらしい。そのまま貴祐は端末画面を操作して耳に当てるが、眉根を寄せて首を振る。
「……まったく、宇辺野は何をやっている……」
溜息を吐いて、貴祐は立ち上がった。
「心配はいらない。非常用の予備電源があるはずだ。すぐに切り替わるはずだが……おかしいな。……少し待っておいで。ブレーカーを見てこよう」
陽乃子の髪をひと撫でして微笑み、光を放つ携帯端末を持って貴祐は部屋のドアから出て行った。
ドアが閉まり、圧迫してくるような闇の中、陽乃子は両腕を動かしてみる。青いベルトは長さに多少の余裕があるが、右手を左手首まで持っていくのは到底不可能だ。力ずくで手首を引き抜くこともできそうにない。
「おっと嬢ちゃん、ちょっと待て」
と、すぐそばで聞こえて、同時にぬっと褐色の顔が浮かび上がった。細いペンライトを持った柾紀がニッと笑っている。
声を出しかけた陽乃子に「黙ってろ」と逆側から制したのは幸夜だ。動いている。あんなに血が出ていたのに。大丈夫なのだろうか。
「ナンだこれ、医療用か?」
「こんなものまで用意してるなんてよ、狂ってんな」
二人がかりで手早く手首の拘束を解いてくれる。ペンライトの小さな光に見える二人は、ぐっしょり濡れて泥まみれに見えた。
「幸夜、あんまし長居はしていられねぇぜ。大雨特別警報だとよ。この辺り一帯に避難指示が出たらしい」
今度は柾紀に背負われた。その時、ペンライトを持った幸夜が「ああ。でも」と、陽乃子の首にかけられた紐を辿って、懐からガマ口を引き抜く。留め口を開けて中から取り出したのは、あの写真――父と母と陽乃子が映っている写真だ。
写真を無造作にポケットへ突っ込み、幸夜は暗く翳った眼で陽乃子を見た。
「やることはやっておきたい」
* * *
地下部屋から階段を上りきると、そこは居間から玄関につながる短い廊下である。床は先刻のまま、幸夜が流した血糊に加え、泥の足跡だらけでひどい有様だ。
柾紀が陽乃子をそっと降ろしたところで、キッチンの奥から黒い人影が出てきた。手に持った携帯端末の光が、のっぺりとした顔を不気味に浮き上がらせている。
「いったいどうなっているんだ……」
不可解そうに首を傾げる藤緒貴祐。
ブレーカーを確認しに行っても無駄だ。分電盤の中にある配線を切ったのだから。
ちなみに、合図とともに配線を切断したのは天宮晃平で、地下部屋から貴祐が出てきたのを見計らい、その隙に幸夜と柾紀が陽乃子を救出するという算段だった。もちろん、停電時に切り替わる非常用の方も事前に抜かりなく配線を切ってある。
キッチンから出てきた貴祐はこちらの影に気づいたのだろう。ギクリと足を止めて携帯端末のライトを向けた。
「よぉ、また会ったな」
幸夜がペンライトの光を振ってやると、貴祐は無表情にじっと見据えた。
「……宇辺野は失敗した、ということか」
「あんたの忠実な部下二人は裏手の軒下に転がしてある。あとで回収してやるんだな」
そう伝えた柾紀は、宇辺野の所持していた拳銃を軽く放り投げる。ゴトと重い音をさせて落ちる拳銃。ちらりとそれに目をやった貴祐は、平然とした様子で居間に入ってきた。
「どのみちそろそろ替えどきかと考えていたところだ。仕事をこなせない人間は必要ないのでね。煮るなり焼くなり、好きにするがいい」
「……うちのと似たりよったりのクソ上司だな。同情するぜ」
小さく吐き捨てて、幸夜はペンライトをポケットにしまった。
居間の窓はすべて厚いカーテンを閉じているので、外光はキッチンの割れた窓から入ってくるのみ。その外光も悪天候のために薄弱で、室内は完全な闇ではないが手元に光は欲しい、といった程度。ちょうどいい暗さだ。
「俺たちは帰る。こいつも連れてな。けどその前に――」
すぐ後ろで柾紀に支えられている陽乃子を振り返る。
「陽乃子。あいつに訊きたいことがあるんだろ? せっかくだから訊いとけ」
熱で潤んだ瞳が戸惑うように幸夜を見上げた。その肩を、柾紀の手が優しく叩く。
貴祐が苛立ったように端末のライトをこちらに向けた。
「何を吹き込むつもりだ。その子を解放したまえ」
幸夜から貴祐に視線を移した陽乃子がふらりと一歩踏み出す。柾紀と幸夜が両側につくと、陽乃子は息を吸った。
「わ、わたしは、あなたを捜していました……訊きたいことが、あったからです」
掠れて震える声。熱のせいだけじゃないだろう。
「どうして、お父さんに、車をぶつけたんですか」
陽乃子はもう一度、身体全部で息を吸った。
「お母さんを、どこへ、連れて行ったんですか」
か細く震えていても、それは慟哭に聞こえた。両親を奪われ、幸せを壊された少女の絶叫。
一瞬、貴祐の無表情が歪んだように見えたが、すぐに平淡となり、偽善に満ちた笑みが浮かんだ。
「何を言っているんだ。そんな奴らの言うことに惑わされてはいけない。そんな奴らと一緒にいてはいけない。ほら、こっちにおいで」
「――顔を、思い出したんです」
拒絶するように、陽乃子は声を上げる。
「オレンジ色の夕陽が射した顔と、燃える火の中で見た顔……お父さんを轢いた車を運転していた顔と、お母さんを抱いて居間から出て行った顔……両方とも、あなたの顔でした」
再び、貴祐の顔が歪んで凹凸が増した。無理に笑みを貼りつけた顔で、彼は陽乃子に向かって手を差し伸べる。
「そんなつまらない話、どうだっていいだろう? 私のもとへ来るんだ」
「答えてやれよ。人を殺しておいて “つまらない話” はねーだろ」
口を挟み、幸夜はおもむろに一歩一歩と貴祐へ近づきながら、ポケットから取り出した――例の写真を。
「あんたがこいつから奪ったものだ」
貴祐の目の前に突きつける。
「こいつはある日突然、ワケのわからないまま大事なものを壊されて奪われた。壊して奪ったのは、あんただ。だったら、その理由くらい教えてやれっつってんの」
写真を見据える貴祐の呼吸が荒く乱れた。目を眇めて歯を食いしばり、肩を怒らせた貴祐はいきなり目の前の写真を奪い取って破り捨てる。
「卑しい病原菌ども……いつもいつも、私の大事なものを奪っていく……真梨子がおかしくなったのも、あの忌々しい病原菌が真梨子に寄生し侵蝕し、精神を侵したからだ……」
空気が漏れるような呪詛。
幸夜はソファの背に腰を下ろして嘲笑った。
「―― “強姦した” のは、あんただろ?」
「幸夜――」
柾紀が制すも、幸夜にほのめかすつもりは毛頭ない。
「 “真梨子” に寄生、干渉、執着して、彼女の自由を奪ったのはあんただ。あんたは “真梨子” が自分以外の誰かを見ていると知って逆上し、 “真梨子” を自分だけのものにしたくて、無理矢理 “強姦した” んだ」
半分ハッタリだが、半分確信もあった。
山間の静かな環境で人知れずひっそりと暮らしていた中原真梨子。ある時、彼女は天宮淳平と出会い交流を深め、恋仲となった。ところが、貴祐はそれを許さなかった。真梨子に沁みついた “恐怖” が尋常でなかったことは、天宮晃平の証言ではっきりしている。そこまでの恐怖を植えつけるには、真梨子が抗えない、強い暴力的な行為があったと考えるのが自然だ。加えて、目の前の男から感じ取れる妄執的な異常人格。
真梨子は、半分血を分けた実の兄に凌辱された――そうとしか思えない。
「――違う! 真梨子を奪ったのはあいつだ! 私は真梨子を守ったんだっ!」
貴祐は唾を飛ばして主張する。もはや偏執狂だ。
――想定内だが。
「んじゃ、本人に訊いてみれば?」
幸夜は目線を移して顎をしゃくった。つられて居間の窓に向いた貴祐が、ヒュッと息を詰まらせる。
いつからそこにいたのか――仄暗い中にひっそりと佇んでいたのは、淡い色のワンピースを着た長い黒髪の女性。俯き加減で数歩前に進み出た彼女は静かに顔を上げる。大きな黒い瞳が真っ直ぐ貴祐を見つめた。
「――真梨、子……?」
思わず足を踏み出した貴祐より早く、やにわに陽乃子が飛び出してその女性に抱きついた。
これには幸夜、柾紀ともにギョッとするも、抱きつかれた人物はふわりと微笑んで陽乃子を優しく抱きしめる。その時、どこから出てきたのか、もう一人の人物が出現した。
「――な……っ」
貴祐が驚愕したように呻いた。
白いシャツにジーンズ、縁なしの眼鏡をかけた背の高い男性が、抱き合う二人を守るように寄り添う。
そして、陽乃子を中にした三人はそろって貴祐を見た。彼らの姿はまるで淡いスポットライトが当たっているかのように浮かび上がり、どこか幻想的に揺らいで見える。そこだけ別の世界から切り取ったようだ。
――まさに、今しがた貴祐が破り捨てた写真の構図そのもの。
貴祐が明らかに狼狽した。
「き、貴様はっ……どうして……」
「――どうして、轢き殺したはずの “天宮淳平” が、生きているのか……って?」
ニヤリと笑んで幸夜は言う。
「あんた、遺体をちゃんと確認したのか?」
「う、嘘だっ! あの男は死んだはずだ! 私が駆除した! 二度と真梨子に近づかぬように、何度も何度もぶつけて……っ、手も足も、腹も頭も、全部轢き潰してやったんだ! 生きているわけがないっ……」
「ホントかよ。幻でも見たんじゃねーの?」
「そんなはずはないっ! たしかに私はやり遂げた!」
顔中を引き攣らせて、貴祐はがなり立てた。
「私と真梨子を引き裂こうとする雑菌どもがまたもや真梨子をどこかに隠してしまい……私は何年も何年も、ずっとずっとずっと捜して……ようやく見つけた真梨子は、別の男と結婚し子供まで産んでいた。恐るべき光景だった……邪悪なものに侵され洗脳されているとしか思えなかった! だから私が救い出そうと決めたのだ!」
「……狂信ってやつだな……」
柾紀が処置なしといった顔で首を振った。
狂気に支配された貴祐は、一心に “真梨子” へ訴えかける。
「――私が救い出さなくてどうする! 真梨子のために私は自ら病原菌を駆除し、病原菌の巣窟を焼き払い、真梨子をここに連れ戻した! 身代わりの死体まで用意して! 私は成し遂げたのだ! 汚染された真梨子の精神を清め、また二人きりの静寂と安寧の日々を取り戻した! そうだろう真梨子!」
また数歩前へ進み出る貴祐。
「……お母さんは、どうなったんですか……ここへ来たお母さんは……そのあと……」
身を竦めて唇を震わせる陽乃子を “真梨子” が苦し気に見つめる。そして彼女は長い黒髪を揺らして前に出た。陽乃子を背に庇いながら苛烈な視線で貴祐を睨みつける。
「やめろ……そんな眼で私を見るな……どうして……真梨子……こんなに、愛しているのに……」
貴祐はがくりと膝をつく。薄っぺらい体躯が萎れるようにへたり込んだ。
“真梨子” と “淳平” に守られた陽乃子は、丸く大きな目で貴祐を凝視していた。異形の化け物を見るように。
それでも、長い間隔絶された箱の中で生きてきた少女は、両親の仇に復讐する術を知らないのだ。せめて、憎悪も嫌悪もありったけの罵声でぶつけることができたら、少しは楽だろうに。
「……真梨子……わかっておくれ……愛しているんだよ、真梨子……」
項垂れたまま、何度も “真梨子” の名を繰り返す貴祐。
「……君は私のものだ……私の……渡すものか……誰にも……誰にも、渡さない……っ!」
突如飛び出し、床に落ちている拳銃をひったくって銃口を “天宮淳平” に向けた。しかしトリガーを引いても弾は出ない。焦ったように握った拳銃を振る様子は、まるで扱いに慣れていないと見えた。
「弾倉を入れたままにしてあると思うか?」
柾紀が呆れたように言って貴祐を軽く小突く。彼は簡単にひっくり返った。
これ以上は無意味だと見なした幸夜は、ソファから立ち上がる。
「陽乃子、どうだ? まともに答えたとは言い難いけどな」
床上の憐れな男をじっと見つめていた陽乃子は、瞳をギュッと固く閉じた。
「……サブロ館に、帰りたいです」
どこからともなく安堵の息が落ちて、黒髪の女がもう一度陽乃子を抱きしめる。
「帰ろうぜ」
肩を竦めて幸夜はポケットに両手を突っ込んだ。柾紀が「行くぞ」とソファの陰に隠れていた信孝に声をかけ、皆が気抜けしたように玄関ドアへ向かう。
「……また、私から真梨子を奪うのか」
――地を這うような怨嗟の声。
「……いつもそうだ……私と真梨子を引き離そうとする……父も、母も……判で押したように同じ言葉…… “あれはお前の妹だ、血のつながった妹なのだ” ……フハ、ハ……それがどうした……だから何だというのだ……世の理など、私と真梨子には通用しない……貴様らと一緒にするな……」
蛇が鎌首をもたげるように、貴祐は顔を上げた。
「……真梨子は私のものだ……誰にも渡さない……必ず取り戻す……」
怨みの籠った眼で一同を睨みつける藤緒貴祐は、這いつくばったまま腕を伸ばして、床上の携帯端末を握りしめた。
「不二生の力を甘く見るな……どんな手を使ってでも貴様らを完全駆除し、真梨子を連れ戻して見せる……私のひと声で貴様ら雑菌どもなど――」
「――ふざけるなっ!」
咆哮したのは “天宮淳平” 。
「天宮さん……」
「また父親に庇ってもらうのか。尻拭いしてもらうのか? 邪魔な人間を殺してその罪を他人に被せるのかっ? どれだけ他人の人生をめちゃくちゃにすれば気がすむんだっ!」
「――うるさい黙れぇぇっ!」
貴祐は絶叫する。
「邪魔なものを廃し、欲するものを手に入れて何が悪い! 私は選ばれた人間なのだ! 貴様ら雑菌どもが厚かましく世にのさばっていられるのは誰のおかげだ? 不二生がこの国にあるからこそだ! その不二生を長年統率してきた藤緒家の人間は特別な存在であり、不二生の次期社長となる私はこの国の最重鎮といっても過言ではない! 誰も私を捕まえることはできず、誰も私を裁けない! 何者も私に罪を科すことはできないっ! 貴様のような雑菌ごときが私の邪魔をすることこそが罪悪なのだっ!」
「こ、の野郎……ッ――」
「――ちょっと待て、静かに……」
今にも殴りかかっていきそうな彼を制して、幸夜は宙を見据えた。
――かすかに、足元からズズズと伝わる地響き。
それはすぐに止まったが、幸夜は玄関付近の皆を押し分けてドアを大きく開けた。同じことを考えたのだろう、柾紀もあとに続いて出てくる。
外は先ほどよりいくらか明るくなっていた。いつの間にか雷は止み、雨も小降りになっているが、空にはまだ重く垂れこめた灰色の雲が蠢いており、辺りは不気味な静けさだ。幸夜の鋭い目線が階段の手すりをなぞってロッジ前の車両へ移り、周囲の樹々の枝先を捉える。
その時、遠くからサイレン音が流れてきた――救急車両のものではなく、山のふもとに設置された拡声器からの防災警報音だ。
「幸夜……」
柾紀と目を見交わし頷いた幸夜は、即座に振り返って怒鳴った。
「――ここを出るぞ! みんな車に乗れ! リリコ、エンジンかけろ! 天宮さん! 陽乃子を頼む! ――柾紀!」
みなまで言わずとも、柾紀は大股で玄関ポーチから階段を駆け下りた。ロッジの裏手に縛りつけてある宇辺野と牟田の拘束を解くためだ。
皆を玄関ドアから押し出しつつ、幸夜は唖然とへたり込んだままの貴祐に向いた。
「部下の二人を連れて今すぐ山を下りろ。地鳴りだけじゃない、土臭さが増して木の枝が不自然に振動している。地すべりの前兆かもしれない」
「ま、真梨子……まり……」
「しっかりしろっ! “真梨子” はもういないっ!」
一喝して貴祐の胸倉をつかみ、引きずるようにして玄関から出た。ロッジの前の廃車と化したベンツの後ろに黒のミニバンが停まっている。エンジンをかけたリリコが車を回転させて、天宮晃平が陽乃子を抱えるようにして乗り込んだ。――信孝はどこだ。幸夜は貴祐の腕を掴んだまま玄関ドア越しに室内を捜す。
「――信孝ッ! ナニやってんだ、急げっ!」
居間の暖炉の前で何やら屈みこんでいた信孝が、リュックを抱え慌てて飛び出してくる。
ミニバンへ駆けていく信孝を横目に、幸夜は狂乱の気が抜けきらない貴祐をガレージ小屋へ引きずっていった。髪もシャツも乱れきって虚脱した貴祐は、携帯端末だけを握りしめて真梨子の名をブツブツと繰り返しながら為されるがままだ。
同時に裏から出てきた柾紀も幸夜と同じように、足元がおぼつかない宇辺野を怒鳴りつけながら引きずってくる。一足先に大男の牟田がガレージに停めてあった大型四輪駆動車の運転席に乗り込んだ。牟田だけが唯一正気を保っているようだ。柾紀がどう説明したかは知らないが、さすがに遠くで鳴る警報音と断続的に感じる地面からの振動は無視できないだろう。
四駆車に貴祐と宇辺野を押し込んで、柾紀と幸夜はミニバンに駆け戻った。
ミニバンは追い立てられるように、ものすごいスピードで細い私道を下った。バックミラーには小さく、後方からついてくる四駆車が映っている。
柾紀が運転し、隣の助手席に信孝、後部中席にリリコと幸夜、最後部席に天宮晃平と陽乃子。
陽乃子は晃平にぐったりともたれかかり目を閉じていた。「陽乃子?」と晃平が声をかけるが反応がない。呼吸は安定しているが未だ熱は高く、肉体的にも精神的にも限界を超えたのかもしれない。
人の心配をしている場合じゃないかも――幸夜は脇を押さえて顔を歪めた。車に乗り込んでいきなり傷の痛みが悪化した。藤緒貴祐を引きずっていった際、傷口が開いたのだろう。出血している感覚がある。
緩いカーブが続く山道を疾走し、前方の樹々の隙間に県道のブロック工壁が見えてきた。私道入り口のゲートは、先刻ベンツの中にあったリモコンで開けて、リリコたちを通したあと開けたままにしてある。
今のところ周囲の樹々に異変はなく、私道に亀裂が入っている様子もない。が、近く大きくなるサイレンの音は依然として鳴りやまない。このまま下りきって少しでも山を離れた方がいい。
肋骨付近の激痛にしびれが交じってきて、幸夜が思わず前のめりになった時――、
「ね、ねぇ……あいつらの車が、停まった……!」
サイドミラーを見ていた信孝が助手席の窓を開けて顔を出した。
「えっ!」と振り返ったリリコも、
「ちょっと……あの男、引き返していくわよっ……!」
と甲高い声で叫ぶ。
バックミラー越し、車からよろけるようにして降りた貴祐が、ふらふらとつんのめりながら私道を上がっていく姿が遠ざかり、四駆車もろとも木立の奥に消えた。
「ウソだろ、ナニやってんだ……」
舌打ちした柾紀がアクセルを弱める。
「――柾紀、止まるな」
声を張ったつもりなのに、呟くような声音になった。
「早く、山を……下り……」
身体が傾ぐ。リリコにもたれかかった幸夜の上半身が、そのまま重く沈み込む。
「――ちょっと……っ、ユキヤ?」
「……ノ、ブ……絶対……開くな……佐武朗、に……」
「――ユキヤ……? ユキヤッ! しっかりしてっ……!」
耳に脱脂綿を詰め込まれたように、リリコのキンキン声が遠くなった。
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