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第2部
戦士たち、今昔を語る
しおりを挟むコポコポとドリップ音をたてて、コーヒーの芳しい香りが瞬く間に漂い始めた。
カウンターの向こうのフロアでは三人の紳士がテーブルに着き、店内を見回しては楽しそうに談笑している。
葵はガラス製のデカンタに落ちる暗褐色の液体を目に映しつつ、激しい動悸を懸命に抑え込んでいた。
――あんな……どうして……、まさか……
最悪の予感が、胃の腑に重く沈む。
強張った顔のままドリップマシンの前で立ち尽くしていると、佐々木がのっそりとやってきた。目を上げた葵に、佐々木はいつになく厳しい表情を向ける。
「……いいか、絶対に泣くな。何でもない顔をしろ。できないんなら今すぐ帰れ。……キツいことを言うようだが、……お前がそんな顔すれば、濱さんが気に病む」
フロアを気にしつつ声を潜める佐々木も、何かを堪えている顔だ。
葵は途切れそうになる息を吐き出しながら、大きく何度も頷く。
そこへ、侑司もカウンター裏に入って来た。その顔は、佐々木以上に険しい顔つきだ。手に持ったトレーの上に、先ほど漂白し洗い上げたばかりのコーヒーカップとソーサーがいくつか乗っている。
「……大丈夫です。コーヒー、もうすぐできますから」
そう告げれば、佐々木は葵の肩を一つ叩き、厨房に戻っていく。葵は侑司の目を避けるようにして、カップとソーサーを受け取った。
――濱野哲矢は、葵と侑司が息を呑むほど、変わり果てていた。
前回彼と会ったのは、西條氏が経営するレストラン『メランジール』へ、侑司に連れられ訪れた時だ。あれから三か月ほどしか経っていない。
あの時でさえ、だいぶ痩せたなと感じていた。なのに、今の彼はさらに痩せ細っている。料理人特有のがっしりした肩や腕の線はまるでなく、ボア付きの防寒コートは肩が落ちているほどだ。
顔色も良くない。髪は一層白くなりずいぶん薄くなったようだ。トレードマークだったあの口ひげはなくなり、白い無精ひげが口元にわびしく生えていた。
黒河紀生に支えられるようにして店にやって来た濱野氏は、歩くだけでも息切れするようで、この数か月の間に、彼の身体が何か良くない変調をきたしてしまったことは明白であった。
――誰も、何も、言わないけれど。
ドリップ終了合図の小さな電子音が鳴って、葵はもう一度震えるように息を吐き出し、デカンタに手を伸ばした。
それでも、葵に向かって微笑んだ彼の瞳だけは、以前と変わらない気がした。変わっていないと思いたかった。
葵が落としたてのコーヒーを人数分給仕し終わると、次いで佐々木が、濱野哲矢の前にスープカップを一つ、静かに置いた。透き通った黄金色をした、コンソメスープだ。
「今朝仕込んだヤツです。『櫻華亭』の仕込みとほとんど変わりません。もっとも、使う牛肉と香味はランク落ちしてますけどね」
言いながら、葵と侑司に座るよう目配せした佐々木は、紳士三人が座るテーブルの脇に椅子を持ってきて腰を落ち着けた。葵は侑司に促され、隣のテーブルに並んで座る。
濱野はゆっくりと両手でカップを包んだ。嬉しそうに目を細めて微かに立ち上るスープの湯気に鼻先を近づける。
「……いい色だね。香りもいい。……昔も今も変わらない、洋食屋のスープだ。これを見たかった……なぁ相馬、このコンソメこそ、洋食の神髄を表していると思わないかい?」
“相馬” と呼ばれた黒河紀生は、それを気にする風でもなく至って穏やかに微笑む。
「そうだな。そのシンプルなスープ一つに、一体どれだけの食材を使い、時間を注ぎ込んでいるか。……最高に生産効率の悪い料理の一つと言えるだろうな」
深みのある声で冗談ぽく語る黒河紀生は、コートを脱いだ背広姿でゆったりと窓際の椅子に腰かけ、くつろいだ様子でコーヒーを啜っている。
自分が勤める会社の社長とはいえ、あまり頻繁に会える人ではない。こうして間近で見ることも滅多にないことだ。
よくよく見ると、息子の侑司の方が背は高い。が、その侑司よりもさらに威風堂々、大きく見える人だな、と葵は思う。身体つきはすらっとしたバランスのいい体躯だが、発するオーラというか纏う雰囲気が尋常でない大きさを持っている人だ。
そんな彼の向かいに座る茂木氏が、上品な手つきでコーヒーにミルクを少量注ぎながら「おやおや」と笑みを零した。
「社長にして総料理長ともあろう方が、そんなことをおっしゃいますか?」
「茂木さん、持ち上げても無駄ですよ。社長業なんてものは、会社の小間使いみたいなものですからね」
「気紛れな小間使いのために東奔西走される、統括部長のご苦労もお察しください」
すました顔でコーヒーカップに口を付ける茂木の向かいで、黒河紀生は叱られた子供のように詰まってしまう。それを見ていた濱野がクスクスと堪え切れなさそうに笑った。
「相変わらず、沙紀絵さんは苦労しているようだね。またフラフラと放浪していたんじゃないのかい?」
「 “また” とは……私もずいぶん信用がないんだな」
黒河紀生は鼻梁に少ししわを寄せた。
今現在、彼は総料理長という立場でありながら、厨房に立って腕を振るうことはほとんどないという。 “社長業” がどんなものなのか、葵ごとき末端の社員には知る由もないが、噂によれば海外に飛ぶことも多く、月一度の定例会議に出席することも稀だ。
その代わり、というのもおかしな話だが、彼の妻でありクロカワフーズの統括部長である黒河沙紀絵が、社長秘書のような雑務から人事や対外的業務まで、一手に引き受け采配しているのだそうだ。その下に、徳永GMや鶴岡マネージャーが補佐としてついているが、それでも統括部長が請け負う業務の多さは他に類を見ないほどだと聞く。
「……今回は仕事だよ。クロカワフーズの社運をかけた大仕事だ。遊んでいたわけじゃない」
溜息交じりに言った黒河紀生は、そこで息子をちらと見た。葵の隣に座った侑司の身体がかすかに反応する。
そんな父子の微妙なやり取りには気づかない様子で、濱野はゆっくりと店内を見渡した。
「いやしかし……驚いたな。……本当に、昔の本店を思い出す……。ここよりもう少し広かったが……雰囲気はビックリするほどよく似ているよ」
濱野は感慨深げに言う。暖を取るようにスープカップへ添えられた手はそのまま、目は遠く、懐かしい何かを見ている。
茂木も同じように視線を巡らせて、目を細めた。
「確かに。何というか、同じ空気感がありますね……あの頃の本店と、その温度が似ております。……先代の奥様もずいぶんここが気に入られたそうで、密かな常連客となっているようですね」
茂木がニッコリとこちらに向いて微笑んだので、葵は慌てて大きく頷いた。
「は、はい……あの、私も、先代の奥様だと知ったのは、つい最近だったんです……」
モゴモゴ言えば、佐々木も苦笑しつつ「すっかり騙されましたよ」と同調した。
それを受けて、話題の人の義理の息子でもある黒河紀生が、葵に微笑を向けた。
「世話をかけてすまないね。だが、ここで食事をすることが、ずいぶん張り合いになっているようだ。……先代が亡くなってすぐに足が悪くなってね、めっきり外へ出る機会も減っていたんだが……ここだけは特別らしい。これからも普通の客として接してくれれば、彼女も喜ぶだろう」
いいかな、と尋ねる彼に葵は、はい、と力強く頷いた。
「それはさておき……『敦房』の間取りとそう違いはないだろう? フロアが多少広くなった程度で、客席の配置も厨房の位置も、そこまで大きく変わってはいないはずだが」
黒河紀生の言葉に『敦房』を知る葵も、内心そうだな、と思う。
『敦房』から『アーコレード』へ変わる際、ここは完全に一度取り壊されて建て直したのだが、上下水道やガスの配管の関係もあり、全体的な配置――玄関からフロアに続き、厨房に至る間取りはあまり変わっていない。
濱野は、もう一度フロアを見渡したが、「いや……『敦房』とは違うよ」と小さく呟いた。
関節が浮き出た細い指先で、濱野はスープカップの淵をなぞる。
「……あのまま『櫻華亭』に居続けたら、こんな店を作ることができたんだろうか」
力ないその口調に、黒河紀生は事もなげに答えた。
「濱野が『敦房』を作ったから、私は『アーコレード』を作ったんだ。君の軌跡がなければ、この店はなかった」
「……そうか……そうだな」
目を伏せた濱野は、小さく息を吐き出す。それだけで彼の肩が大きく上下した。
「クロカワフーズを辞めて、『敦房』を始めた……そのことに後悔はないんだ。たくさんの人と出会い、遣り甲斐もあった。十分楽しんだよ。……だけどね、今になって時々ふと思うんだ。……僕のこの充足感は、誰かの犠牲や代償の上に、成り立っているのじゃないか、とね」
息を継ぐ音と、微かな衣擦れの音。その場は、時の流れが止まったように見えた。
「……僕はずっと、相馬に、謝らなきゃいけないと思っていた。……相馬が先代に認められ、赤坂にできた新しい『櫻華亭』の料理長に抜擢され……事あるごとに先代から、相馬を支えてやってくれと言われ続けてきた。……相馬が赤坂を成功させ、濱野が本店を守る……クロカワフーズはお前たちの代でさらに大きく飛躍するはずだ……先代は嬉しそうにそう言っていた。……有り難い言葉だ、是非期待に添いたい……そう思っていたはずなのに、僕は逃げ出した。……自分の力を試したかった気持ちに嘘はない。でも、それだけじゃなかった。……怖かったんだ。……相馬と自分の格差が、どんどん広がっていくような気がしてね。……それをこの先ずっと、思い知らされ続けていくのかと思うと、それが怖かった……」
静かな声が、静かなフロアに、染み込むように流れていく。
黒河――相馬紀生と濱野哲矢は同期だった。そして二人は良きライバルだった。それは葵も知っている。
しかし、あの陽気な濱野哲矢の内面にこんな苦悩が隠されていたなど、一体誰が予想できただろうか。
黒河紀生は、息子にも受け継がせたその端正な顔を、煩わしそうに顰めた。
「……元々先代は、君にクロカワフーズの舵取りを任せたかったんだ。……私じゃない」
濱野が困惑の顔を上げると、黙って聞いていた茂木が「社長」と穏やかに窘めた。
「先代がはっきりとそう仰っていたわけではありません。ただ例えば……、料理の才覚と経営の手腕は、決してイコールではない。……ましてや、一人の人間の内に両者が存在することは非常に稀で難しいことなのです。……あなた方を、クロカワフーズの双璧と為す理想はあったようですが、あの当時は、沙紀絵さんをトップに据えたい考えも捨て切れておりませんでした。……結局、最終的な決断は先代の中で出されぬまま、だったのかもしれません。……先代も破天荒な割に、そういうところは慎重に考えておられたのですよ」
まるで息子たちに言い聞かせるように、茂木は静かに語った。
葵は、隣の侑司をそっと見上げた。ここまで深い話を自分が聞いていていいものかと不安になる。彼はすぐ葵に気づき、目を合わせて小さく頷いた。大丈夫だ、と言われた気がした。
「……もしかして、今田さんの立場が悪くなったのは……僕のせい、ですか?」
不意に濱野が、何か思い当ったように身を起こした。茂木は「いいえ」と即座に首を振る。
「彼に関しては、すべて私の責任です。私の言葉が足らなかったせいで、彼に大きな誤解を与えてしまったのですよ。濱野くんのせいではありません」
すると、黒河紀生も宥めるように濱野へ語り掛けた。
「……濱野。君が私に一目置いてくれるのは嬉しいがね、私は君が羨ましかった。……自分自身の力で新しい自分だけの城を創り上げる……一端の料理人なら誰もが一度は抱く理想の夢だ。君は “逃げ出した” と言ったが、私には君が “巣立った” ように見えていた。しがらみだらけの檻の中から、広い空へ飛び立つ自由な鳥のようにね。……所詮、無いもの強請りに隣の芝生……そんなものだ」
「相馬……」
「それに、君が築き上げた城で貴重な人材が育った。……そこにいる二人はかつて『敦房』で学んだのだろう? 彼らは今や我が社にとって無くてはならない優秀なスタッフだ。君が身体を張って若人に教え込んだ理念や信条が、巡り巡ってクロカワフーズを支え発展させる力となっている。……これは実に、素晴らしいことだとは思わないか?」
少々芝居がかった身振りで黒河紀生が言えば、濱野は困ったような笑みを浮かべる。そこへ今まで黙って聞いていた佐々木が、おもむろに口を開いた。
「……濱さん。俺ぁ、ちゃらんぽらんにやって来た半端な人間だが……ここでの仕事は、なんつーか、楽しませてもらってますよ。なんたってうちの水奈瀬店長はスタッフを飽きさせない、変な技を持ってるんでね。これは濱さんの直伝なんじゃないですかね?」
ニヤリと口端を上げた佐々木に、葵はドキリと冷や汗を滲ませ、三人の紳士が興味深げに瞳を輝かせた。
「……ほう、それはまた」
「是非聞きたいものですね」
「……あの、佐々木チーフ……?」
止めてください!という葵の目配せも甲斐なく、佐々木は葵が引火爆発しそうな赤面ものの “武勇伝” を、面白おかしくいくつも披露し始めた。
そちらの店に “差し歯” を忘れたかもしれない、という客からの電話を受けて、店中のゴミ箱をひっくり返し漁った挙句、タイミングよく通りがかったゴミ収集車を必死に追いかけていったこととか、ふらりと店に入ってきた浮浪者をご丁寧にテーブルへ案内し、お冷やおしぼり、メニューまで出して杉浦にこっぴどく叱られ、消臭剤を買いに走らされたこととか、葵が恥ずかしい過去として封印してある思い出話を、佐々木はいくつも引っ張り出してくる。
気づけば、隣にいる侑司までくつくつと喉の奥で笑っていた。すると、興に乗ってきた佐々木は、次に侑司を槍玉に挙げた。
本店での支配人時代、侑司がどれほど頑固で小生意気な若造だったかを語る佐々木に、何と茂木までが加勢した。特に、国武チーフと繰り広げたバトル談義には葵も声を上げて笑ってしまい、さすがの侑司もらしくない咳払いなどしていたのが、さらにその場の笑いを誘った。
だが、佐々木の口撃もそこまでだった。今度は茂木が、佐々木の昔を暴露し始めた。
いい腕とセンスを持っているくせに、いつも今一つやる気のない若き日の佐々木には、先代も手を持て余し気味であったこと。当時からいかにも素行の悪そうな国武とつるんでいたが、二人して賄いだけは真剣に作るから、先代もそこは呆れつつも感心していたこと。
辟易する佐々木をひとしきり皆で笑ってから、昔話は次第に時を遡っていった。
茂木氏が初めて支配人に就き、相馬紀生と濱野哲矢という若い料理人が本店の厨房で頭角を現してきた頃……それはまさに、昭和の異常な経済成長時代の幕開けであった。
イタリアンやフレンチといった新時代の外食産業が増えゆく中で、 “洋食” というジャンルを守りながら生き残るのは、とても難しく険しい道のりだったという。その一方で、 “料理人” という職業が、世間の中で一目置かれるステイタスを示すようになり、幸いにして『櫻華亭』は、そんな時流に恵まれたのだそうだ。
そうして、クロカワフーズは生まれた。
現在に至るまで、多くの人々が会社の発展と成長を願い尽力してきた。そんな従業員たちを、先代はことのほか大切にしたという。
『――美味しかったよ、ご馳走様、と言ってくれる客の顔を見るのは嬉しいもんだ……だが、その言葉をもらったあいつらの顔を見るのは、もっと嬉しいものだな。我が子を褒められて嬉しくない親が、どこにいるもんかね』
常々、口癖のようにそう語っていた先代、黒河正治。
黒河正治にとって “我が子” とは、丹精込めて仕上げた料理であり、同時に、丹精込めて育てた従業員のことを指していた。
老舗洋食屋から会社を興し、その事業規模の拡大を願った先代は、利益より何より、彼の大切な “我が子” の悦ぶ顔を、ひたすらに増やしかったのだろう……現社長は懐かしそうに、そう語った。
先駆者たちの話を聞きながら、時に笑い、時に教訓として受け止め、葵は気づくと不自然なほど瞬いて、溢れ出そうになる何かを懸命に堪えていた。
――この人達は百戦錬磨の戦士なのだ、と思った。
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「楽しんだもの勝ち、なのかな」と濱野が静かに微笑んで、「では、我ら皆が勝ち越しだな」と黒河紀生が笑った。
泣きたいほどの誇らしさと、息が詰まるような切迫感。
侑司の温かさを感じながら、葵は、この光景を一生覚えておこうと思った。絶対に忘れたくない、忘れてはいけない、と強く思った。
* * * * *
ずいぶん長い時間、思い出話に花が咲き、ようやく皆が腰を上げたのは、とっくに日付が変わった頃であった。
帰る前に、厨房の中を一目見たいという濱野を佐々木が案内し、侑司はタクシーを呼ぶため店の隅で電話をかけている。その間に、葵が手早くコーヒーカップを片付けていると、コートを着込み帰り支度をする黒河紀生が、ふと思いついたように言った。
「……そう言えば、慧徳の店長がずいぶん面白い企画を申請していたな」
「あ」と、思い当たった葵が社長を見れば、彼は何やら意味ありげな笑みを浮かべている。
「自分で好きな品を選んで組み合わせる “大人のお子様ランチ” とは、なかなか洒落たアイデアだと、私は思ったんだがね?」
「あ、あの……それは、詰めが甘いと言われまして……通るかどうかも、わからないと……」
しどろもどろになる葵に、中折れ帽子を被りながら茂木も加わった。
「いわばセレクトオーダー、といったスタイルは今までなかったですからね。厨房も仕込みや仕上げの感覚を掴むのに難儀するのではないですか?」
「そうだな……イベント開始前に簡単なシミュレーションができれば、厨房も給仕も感覚が掴めると思うんだがね」
「いえ、でも……、」
「なるほど……シミュレーション……模擬販売、ですか。それは是非、本番前にされるのがよろしい。この店だと……貸切にしても二十名ほどが限度ですかな」
「フム……数としては心もとないが、やらないよりはいいだろう。実際どんな品に人気が集中するか……仕込みの量とオーダーが入ってからの段取り、盛り付け方。……給仕の流れも確認できるといいな。流れさえ掴めれば、一気にオーダーが入っても捌いていける」
「皿などの備品も、店にあるもので賄えるかどうかチェックしたいところですね。お子様ランチ、というからには、出された瞬間、心浮き立つ見栄えでなければ」
「……あの、でも、社長……」
葵の目は黒河氏と茂木氏の間を、行ったり来たり忙しい。発案者そっちのけで、社長と顧問は何を楽しそうに話しているのだろう。
おろおろと焦る葵の傍に、侑司がやって来た。助けを求めて見上げて、葵はビクッと肩を揺らす。……侑司から、何か只ならぬ怒りの気配が、する。
「……社長」
しかし、地の底を震わすような低い声にも、社長と顧問は全く動じないようだ。
「原価に差異が出るならこの際、一品いくら、と決めてみるのはどうだ?」
「いえ、そうなるとお客様は計算しながらオーダーすることになります。料金は固定してある方が、安心して楽しめるというものです」
「……なるほど。ならば……原価をもとに品分けして、いくつか料金プランを設定するのは? よく、焼き肉屋などであるじゃないか――、」
「――社長!」
鋭く貫く声音に、葵はヒャッと身を縮め、重鎮二人はおどけるように肩をすくめた。ハラハラと固唾を呑む葵の前で、黒河紀生は凪いだ静かな眼を、真っ直ぐ侑司に向ける。
「……黒河マネージャー。新しい分野や領域に挑戦する社員の心意気を、会社が妨げたり潰したりすることは断じてしてはならない。会社が発展していく上で最も重要なことの一つだ。……君なら、その真意を充分理解していると思ったがね?」
ぐ、と詰まったように黙り込む侑司に、黒河紀生は容赦なく続けた。
「この慧徳の店で、新しく画期的な企画が成功した暁には、水奈瀬店長やここのスタッフは大いに評価され、他店舗の従業員にも良い刺激になるだろう。さらに言うなら私は、この小さな店が我が社を変える、一陣の風になり得るかもしれないと信じている。……むしろ、そこに賭けているんだよ」
侑司は黙ってしまった。しかし触れるほど近くにいる葵には、彼から立ち上る憤りのオーラがビンビンと伝わってくる。
茂木氏が密やかに目を細めたところで、黒河氏が葵を見て柔らかく微笑んだ。
「……さて、水奈瀬店長。うちの統括部長は極度の “現実主義者” でね。夢だ理想だ、の話にはつれないほど乗ってこないが、根拠あるデータと実績を伴ったQ.E.D.には、食いつく傾向にある。……それと彼女は “一石二鳥” という言葉が好きだな。根がせっかちなんだ」
すると、茂木氏も捉えどころのない微笑みを浮かべて言った。
「そういえば……事前シミュレーションに快くご協力いただけそうな顧客がおりましたね。ここの店を大層お気に召したはいいけれど、いささか押しの強いお客様だそうで、統括部長が手を焼いておりました」
「……はぁ」
まったく理解できずにポカンとする葵と、怒りを漲らせたまま押し黙った侑司を見やって、社長は声を上げて笑い、顧問は静かに目尻を下げた。
そこへ佐々木と濱野が戻ってきて、一同はやっと店を後にすることとなった。
別れ際、濱野は「葵ちゃん、今の仕事は楽しいかい?」と聞いてきた。葵が「はい、楽しませていただいてます」と答えると、「よかった」と、心底嬉しそうに笑った。
――仕事ってものはね、楽しんだもの勝ちなんだよ、葵ちゃん。
そう言った濱野哲矢の瞳は、やはり昔と同じ光を湛えていた。
キラキラと、いつも楽しいサプライズを秘めているような、いつも誰かを喜ばせたいと思っているような、そんな輝きは変わらなかった。
三人の来訪者が乗ったタクシーを見送り、佐々木も自分のアパートへ帰っていき、葵はアパートまでの短い距離を侑司のSUVに送ってもらった。
五分もかからない真夜中の車中、二人はお互い黙ったままだった。
侑司は、先ほどまで醸し出していた憤りのオーラを辛うじて抑え込んだようだが、ずっと何か考え込むような顔で運転していた。
葵もひたすら、今夜見聞きしたすべてのことを、頭の中で何度も反芻していた。
王者の風格を漂わせた黒河紀生は、しんがりでタクシーへ乗りこむ際、葵にそっと囁いたのだ。
『――水奈瀬さん。……濱野はまだ、諦めていない』
侑司とそっくりの射るような強い双眸でそう告げた彼は、次の瞬間にはその目元を和らげ、コーヒーご馳走様、と言ってタクシーに乗りこんだのだった。
葵は考える。
今夜あの店に訪れた、得難い貴重な時間を、絶対に無駄にしてはいけない。
葵には難しい暗喩的な言葉も多くあったが、彼らの話の一つ一つに、これから葵が為すべきことへの、重要なキーポイントがいくつも含まれている気がした。自分は、それらを正確に解読し、己の中へ取り込まなければならない。
アパートに着いて車を降りる直前、侑司は葵の頭を一度だけ撫でてくれた。
頭に残る彼の手の感触、握ってくれた手の温かさをじんわりと抱きながら、葵はアパートの階段を駆け上がる。
――濱野さんは、まだ、諦めていない。
――私は? 私にできることは、何? 私がすべきことは……何?
見えそうで見えず、形になりそうでならない不鮮明な何かを掴むため、葵は必死にその手を伸ばした。
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