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第2部
恋乙女、青柳麻実のお悩み相談
しおりを挟む「――あっ! そっか、今日水曜日だ! ……くっそ、アタシってばすっかり忘れてたっ!」
青柳麻実は、思わず人目もはばからず素っ頓狂に叫ぶ。目当ての店『アーコレード』慧徳学園前店は、本日定休日であった。
「くっそぅアタシとしたことがぁ!」と地団駄を踏む様は、レディとしてあまり見られたものではない。閑静な住宅街の平日昼過ぎとあって、周囲にほとんど人目がないのが幸いか。
冷たく吹きつける北風にどんよりと曇った空の下、麻実は己の失態を嘆きながら、かじかむ手の中の携帯端末で親友の番号に発信してみる(今朝から何度目だろう)。――が、案の定、『電源が入っておりません』のアナウンス。
……うーむ、どうしよう。
休みならアパートにいるか、それともどこかに出かけたか。どちらにしても、携帯が繋がらないのならこれ以上連絡の取りようがない。葵のアパートには固定電話がないのだ。
ぴょぉー、と人をおちょくるように北風が通り過ぎ、沈黙を貫く店の真ん前で、麻実はガックリと肩を落とした。
先月十一月の後半から十二月に入るまで、麻実は取材と撮影に追われ、それこそ本社に寄る暇も自宅に帰る時間さえもないほどであった。
ようやく出張先の大阪から帰って来たのが昨日だ。くたびれきった身体を引きずり本社に寄って、上司に取材レポの報告を済ませ、各セクションへの作業依頼を段取りした後、これでやっと帰れる……と歓喜に打ち震えながら帰り支度をしているところへ、「麻実さん麻実さん!」と呼ぶ声が。
つつーとデスクチェアごと寄ってきたのは、麻実と別企画の班にいる後輩の橋本だ。彼女は麻実とは逆に、ここ数日間、編集室に缶詰め状態らしい。
「……わたし、麻実さんいない間に、とんでもないものを見つけちゃったんです……!」
上司の目を気にしつつ声を潜めて、彼女はキラッキラにデコられた携帯端末を取り出す。
「もう削除されちゃったんですけど……」と言いながら開いたサイトは、麻実も知っている口コミ投稿型のグルメサイト。元は、我が出版社が出していたグルメ雑誌から派生したサイトだ。
しょぼつく目をパチパチさせて、麻実は「それがどうしはのわわわぁ」と興味なさげに欠伸する。今はグルメだ何だよりもとにかく寝たい。そのために先ほど上司から待望の連休をもぎ取ってやったのだ。
そんな麻実に、橋本はいやに真剣な顔で、驚くべき事実を語った。
「――タチの悪ーい中傷記事が投稿されちゃったんですよ! ――『アーコレード』慧徳学園前店の!」
「……はぁぁ? 何それ」
眠気がいっぺんに吹き飛んだ麻実に、後輩は「しーっ」と周りを見渡して、さらに顔を寄せてきた。
「……わたしも全然知らなくて、実際にその投稿を見たのは一週間くらい前なんです。削除されたのはたぶん三、四日前くらいじゃないかな。……なんでも、料理に異物混入があって、その対応がヒドかった……とかそんな感じだったんですけど……あ、でも、記事の内容は、なんていうか細かすぎて、逆に嘘っぽかったですよ? ――で、問題なのはそこからです」
橋本はさらに麻実へ近づき、ぽってりした唇を突き出して早口に語った。
「……その記事が投稿されてすぐに、クロカワフーズさんから削除申請が出たそうなんですけど……まぁ、当然ですよね。でも……サイト側があーだこーだと渋った挙句、対応が相当遅れてしまったらしくて。……なんか、だーいぶ揉めたらしいですよぉ。……『櫻華亭』の本店とかって、ウチのお偉いさんや作家センセーたちも利用してるじゃないですか。……だからここのサイト運営の責任者……えっと、前に第一編集室でエラそーにしてて、Web事業に異動したナントカ部長……なんでしたっけ、……あの人、この件で上に呼び出されて、すっごい絞られたんですって」
「……マジか……」
麻実は唖然と口を半開きのまま、絶句するのみだ。
「その投稿記事にある異物混入っていうのは、実際に『アーコレード』であったらしいんですけど、聞くところによると、どうも怪しい客で “やらせ” っぽいそうなんです。……ほら、わざとクレーム出して、慰謝料だなんだってぼったくろうとする悪ぅいやつ、いるじゃないですか。……このケースも、お金をせびろうとして上手くいかなくって、結局、腹いせでこのサイトにあることないこと捏造して投稿したんじゃないか、ってことみたいですよ……?」
「……マジか……」
麻実は同じ言葉を繰り返すだけのオウムと化した。
「……てゆうか、わたしも一度行ったお店なので、どうしても信じられなくて。……あんなに美味しくて雰囲気よかったのに、あんな書き方されてヒドイって思いました。サイト内の掲示板も荒れてましたもんね……でも麻実さんはずっと取材に飛んでたし、片倉さんは最近全然捕まらないし、桐島くんもスタジオだって言ってたし。このショックを分かち合える人がダぁレもいないんですもん……」
拗ねたように口を尖らせるこの後輩とは、確かに以前、一緒に『アーコレード』慧徳学園前店へ食事しに行っている。片倉ともう一人、桐島という後輩も含め、四人で行ったのは今年のゴールデンウィーク中だったか。
この店の店長と麻実が幼馴染にして親友だと、他の三人皆が知っている。美味しい料理とワイン、そして驚くほどの居心地の良さは、その後何度も話題に上るほど大好評で、いつかまた行こうと約束もしていた。片倉は抜け駆けしてすでに何度か行っているようだが。
「……こういう嫌がらせとか荒らし目的の投稿って、年々増えているんですって。……麻実さんのお友達のお店、何も影響がないといいんですけどね……」
心配そうに顔を曇らせた橋本を見つめながら、麻実は呆然と働かない頭で、ただ、大好きな親友を思った。
――今、葵は、どうしているんだろう。大丈夫なんだろうか……
――それが昨日。
幼馴染のことが気になりつつも、使い古したボロ雑巾のような心身では何の手立ても思いつかず、とりあえず麻実はその日、一人暮らしのアパートに真っ直ぐ帰った。
帰宅するなりベッドに沈没した麻実は、今日の昼頃までガッツリ睡眠を貪り、ようやくすっきりクリアな気分で家を出てきたのだ。しかし麻実は、たった今店の前に立つまで、今日が定休日だとは一ミリたりとも思い及ばなかった……
ガックリ項垂れた麻実は、寒さに身を縮めながら、名残り惜しくも店を離れた。
――だって、お腹空いた……
目覚めてシャワーを浴びた後、腹の中に収めたのはゼリー飲料と魚肉ソーセージのみ。それしか冷蔵庫の中で生き延びていなかったのだ。
葵に会うついでに、『アーコレード』のカニコロッケを久しぶりに食べちゃおう、という目論見は潰えてしまった。ぺしゃんと潰れた期待感を、冷たい北風が無情にも散り散りに吹き飛ばしていく。
しょうがない、ひとまず駅に戻って構内の喫茶店にでも入るか……と、力なくとぼとぼ歩きながら、寒さと空腹は一緒に味わっちゃダメだな、と切なく思う。何というか、精神的に落ちていく気分だ。
葵のアパートを直接訪ねてみる選択肢もあるが、不在だった場合、寒さと空腹はさらに麻実を叩きのめすだろう。それは耐えられない。
グゥと鳴ったお腹をヨシヨシと宥めた時、ふと数十メートル先に目が留まった。
――あれ、あの子……
寒空の下、肩から大振りのトートバッグを下げて、少々俯き加減にぼんやりと歩く女の子。こちらに向かって歩いて来るものの、心ここにあらずといった感じだ。麻実には気づかず、彼女はふらりと住宅街方面へ入る小道を曲がっていく。
――えっと……名前は……、そうだ、 “亜美ちゃん” !
『アーコレード』で、アルバイトとして働いている女の子だ。確かあの子も、慧徳大学の学生だったと思ったが。平日の昼過ぎ、こんな時間に、どこへ行くのかな……?
ちょっと訝しげに思った麻実は、よし!と、彼女を追いかけるべく足を速めた。
* * * * *
「ごめんねー、つき合わせちゃって。しかもアタシだけ食べちゃって」
「……あ、いいえ……」
目の前のテーブルに置かれた “タラコスパゲティー大盛り” は、お世辞にも美味しそう!と目を輝かせるほどのものではなかったが、盛大に鳴きわめく腹の虫に急かされ、麻実は女子的にあり得ない量をフォークに巻き付けて口に頬張った。
真向かいに座る “亜美ちゃん” こと斉藤亜美が、カフェオレカップを手に包んだまま、若干引き気味な目で見守っているが、まぁそこは気にしないでおく。
慧徳学園前駅の構内にある喫茶店。ここの私鉄グループ傘下のチェーン店らしいが、今流行りのカフェというほどあか抜けてもおらず、店内にはそれほど客がいない。ひもじさが限界であった麻実は、最初に目についたという理由だけで、亜美と共に入り込んだ。
大口早食いでタラコスパを食する間にも、麻実は「今日は学校だったの?」とか「冬休み、もうすぐでしょ?」とか、当たり障りのない話を振ってみる。……が、彼女はぽつぽつと答えてくれるものの、あまり話が広がらない。
どうも、抱いていた彼女のイメージと雰囲気が違う。
麻実の記憶にある斉藤亜美という女の子は、いつも元気で明るく可愛らしく、お店の中でもアイドル的な存在だった。店長である葵の口からも、気持ちよく働いてくれるとってもいい子、と聞いている。
だが、いま目の前に座る彼女は今日の空模様以上にどんよりと重く、その周囲には細かい縦線がいっぱい入っている。
ついさっき、麻実がぼんやりと歩く亜美に追いつき声をかけ「葵の友達の青柳だよ、覚えてる?」と言うと、彼女はあからさまにビクッと警戒を見せて顔色が青ざめた。
あれ?と思いつつ「どこかに行くところだった?」と聞けば、彼女の家はこの近隣にあり、家に帰るところだったらしいのだが、じゃあまたね、と別れてしまうには、どうも彼女の様子が気にかかって仕方がない。
よって、やや強引に彼女を誘って駅に戻り、こうしてこの喫茶店に入ってしまったというわけだ。……嫌がる感じはなかったのだけれど、やっぱり強引すぎたかな。
最後の一口を飲み込み、正味三分でタラスパ大盛りを完食した麻実は、冷めつつあるホットコーヒーをちょこっとすすった。……きざみ海苔、歯に付いていませんように。
「……ああ、そうだ。お店、大丈夫だった? ……ほら、何か変な記事がグルメサイトに載っちゃったんでしょ?」
努めて何気なく振った話題は、思った以上に大きな反応を引き出した。
亜美はハッとしたように顔を強張らせ、ますます色を失い、そしてその瞳が見る間にウルウルと潤んでくるではないか。
さすがに麻実もギョッと慌てる。
「……いや、あの……亜美ちゃん……? ……ど、どうしたの? えっと、……ご、ごめんね? 何か、変なこと言っちゃった?」
ぐず、と鼻をすすって、亜美はブンブンと頭を振る。
そしてか細い声で「……あたし、サイテーなんです」と呟いた。
「……お店が大変な時なのに……あたし、自分のことばっかりで……でも、どうしても行けなくて……たぶん、みんなに嫌われちゃった……店長も呆れてます……もう、クビになるかも、しれない……」
……グスン。
よくわからないが、今彼女は「どうしてもお店に行けない」事情があって、「皆に嫌われている」と思っていて、「店長からも呆れられている」と思っていて、「クビになる」と思っている……んだね?
麻実は、小さくコホンと咳払いをした。
末っ子の麻実は、お姉さん的立ち位置につけることが、……意外に好きだ。
「亜美ちゃん。……よかったら、この麻実さんに話してみない? アタシね、こう見えて結構人から相談されるんだ。いいアドバイスは期待できないけど、青柳には恐るべき吸引力がある、ってね。たぶんね、その人の愚痴や不満やストレスを吸い込んじゃうんだろうね。アタシに話すとスッキリするらしい。 ……っていうか、それもヒドくない? 人をどっかの掃除機みたいにさ」
ねぇ?と冗談ぽく肩をすくめれば、ポカンと麻実を見つめていた亜美が、ふ、と泣き笑いのような顔をした。
そして真っ赤になった鼻をもう一度すすって、心を決めたように、頬にかかった髪を振り払った。
亜美には好きな人がいる。
同じ店で働く矢沢遼平という厨房担当の青年だ。バイト初日に一目惚れしたのだが、悲しいかな、その数日後に失恋が確定した。誰に教えられたわけでもない、見ていればすぐにわかること。彼にはすでに想い人がいて、最初から叶わぬ恋だった。
彼の好きな人は店の女店長。なんと彼が高校生の頃から同じ店でアルバイトをしてきた仲であるという。そこに自分が入る隙など一つもなかった。
しかし、その若き女店長は、まるで矢沢青年の想いに気づいておらず、矢沢青年も自分の想いを伝えるつもりはないように見えた。
だから、亜美に一抹の期待が生まれた。――もしかしたら、私にもチャンスが……
亜美は暇さえあればバイトに入り、仕事は一生懸命頑張った。
彼に会えるのはこのアルバイト先だけ。好きな人には会いたかったし、振り向いてほしかった。バイトの仲間がみんな楽しくていい人達ばかりだったのは幸いだった。仕事自体も遣り甲斐があって、片思いでも初めの頃は楽しかった。
そんな亜美の想いは何か月たっても全く届かず、彼の視線の先には相変わらず店長がいたが、店長本人は彼をまるで弟くらいにしか思っておらず、また彼も敢えてその関係を崩すそぶりも見せなかったので、亜美も、もしかしたらという淡い期待を捨て切ることができなかった。
――そんな状況に変化が見え始めたのが、今年の春過ぎ頃からだ。
店の担当マネージャーが黒河という人に変わった。
当初、期待半分冗談半分で店長に薦めたりもした亜美だったが、実物は愛想の欠片もない厳しそうな人だったので一度は早々に諦めた。
だが、亜美の予想を裏切り、黒河マネージャーと店長の間に小さな何かが芽生えてきた気配が見えたのだ。よくよく見なければわからない、小さな小さなある種の兆し。
と同時に、矢沢遼平にも変化が表れてきた。今まで見せなかった “焦り” だ。そんな彼の様子は胸に堪えるが、一方で亜美の心に巣食っていた一抹の期待が大きく膨らんだ。
――もし、店長と黒河マネージャーが上手くいったなら、彼も諦めて自分を見てくれるかもしれない……
大きく大きく膨らんだ期待や希望は、大きく膨らみ過ぎたのかもしれない。
弾け方は無残で木端微塵だった。
梅雨が明けたばかりのあの夜……、亜美は大好きな人からの強烈な拒絶にあって、人生初めてのドン底を味わった。
異性はもとより、友人にも親や姉からも、あんなに酷い言われ方はされたことがなかった。
大好きな彼なのに恨めしかったし、本気でバイトも辞めてしまおうかと真剣に悩んだ。
そんな時だ。見知らぬ高校生から、突然狂気じみた勢いで迫られたのは。
自分は全く知らなかったこととはいえ、店や仲間に迷惑をかけてしまった。店長にも怪我をさせてしまい、警察までが店にやって来る事態になってしまった。亜美は事情聴取の間中、震えが止まらなかった。
あの夜、亜美を自宅まで送ってくれたのは彼だ。
チーフに言われたから、渋々送ってくれるのもわかっていたし、送ってくれる道中ずっと、彼がその心中で、怪我を負った店長を気にかけていることもわかっていた。
それでも、亜美は最後のチャンスとばかりに告白した。その夜味わった恐怖が、逆に亜美の背中をドンッと押したのかもしれない。
いずれにせよ、結果は案の定、惨敗。
「店長のことが好きなんでしょ?」と半ばやけ気味に聞いた亜美に、彼は「葵を守りたい」と言った。
その言葉に秘められた重さを、亜美は知る由もないのだけれど、これだけははっきりとわかった。
――自分には、ほんのひとかけらも望みはないんだ、と。
「……あの夜、本当にもうダメだなんだな、って思ったんです。もう、きっぱり諦めよう、って。……だから遼平くんに、わかったありがとう、って言えたし、遼平くんよりいい男見つけてやるー、って思ったし、……バイトも……もっとちゃんと頑張ろう、って思ったんです。でも……」
亜美は、真っ赤になった子猫のような瞳をハンカチで押さえる。
「……やっぱり辛くて。……遼平くんは、ずっとずっと店長のことが好きで。でも、店長は全然気づいてないんです……。あたし、何かムカついてきて。……遼平くんの想いに、どうして気づかないんだろう、って。……あたしはこんなに遼平くんのこと見ているのに、……なんで遼平くんは、気づかない店長のことなんか好きなんだろう、って……そう思うようになって……それで、あたし……ビックリしたんです。……いつからこんなにイヤな気持ち、持つようになっちゃったんだろうって……」
……なるほど。これが恋する乙女思考。
恋する乙女の切ない恋心、募る想いに叶わぬ想い……正直、麻実にはアドバイスどころか理解するにも骨が折れる話だ。
しかし乙女思考は理解できないが、彼女が語るその背景はしっかり把握できたつもりだ。要するに、世にいう三角関係、というやつなのだろう。
傍から見れば、和気あいあいの仲良し職場だと思えたが、内情ではこんなドラマが生まれていたとは。親友が絡んでいるとはいえ麻実自身にとっては現実味がなく、お茶の間で煎餅をかじりながらワイドショーを眺めている気分である。
それはさておき、話に出てきた “遼平くん” のことは、麻実も知っている。葵の口から何度も聞いたことがあったし、何より、修羅場と化したあの夏の夜――麻実が葵の元彼を殴りつけたあの夜――に、彼もいたからだ。
どうして一見何の関係もなさそうな彼があの場にいたのか……矢沢遼平の葵に対する気持ちをここで初めて耳にして、その理由がようやくわかった気がした。
「……それで、バイトに行っても上手く笑えなくなって……だから、シフトに入る日も、どんどん少なくして……今は連絡もしてないんです。……池さんにも篠さんにも叱られて……店長も何も言ってこないし……たぶんあたし、もう……クビ、です……」
大きな瞳から、またポロリと滴がこぼれた。
……イケさん? シノさん? アルバイトの男の子かな? しかし……うーん、可愛いなぁ……涙が大きな一粒に見える泣き方って、なかなかできないぞ?
――と、どーでもいいような感想しか浮かばない自分がほとほと情けない麻実ではあるが、とりあえず、気になったことだけは訊いてみようと思う。
……申し訳ないが、気になったのはコレ、一点のみ。
「亜美ちゃんさ……、葵のこと、嫌いになった?」
へ?と顔を上げた亜美は、麻実の言葉が理解できない言語だったかのように、きょとんと呆けた。
「……亜美ちゃんから見たらさ、葵は “恋敵” ってやつでしょ? そういうのって……嫌いになっちゃう?」
すると亜美は、五、六秒考えたのち、ブンブンと頭を大きく横に振った。
「……嫌いに、なりたかったです。……大嫌いになって、悪口いっぱい言えて、バイトなんかさっさと辞めちゃってたら、もっと楽だったのにな……って、思います。……でも、あたし……やっぱり店長のこと、嫌いになれない……」
「……そっか」
まぁ、ホッとした。
昔っから他人に嫌われることなど、ほとんどなかった親友だ。一方、この気質のせいで余計な敵を作りやすかった自分を、彼女はよく庇い、いつでも味方でいてくれた。そんな彼女のことが嫌いだ、と聞くのは、自分のこと以上に胸が痛い。
「……ひとまず、葵の鈍感さだけは、葵に代わって謝るよ。ごめんね。……そりゃあ、謝られても困るって話だけどさ。……葵が、恋愛事情に疎い、っていうのは、確かにホントのことだから」
カッコ、アタシもですけどね、カッコ閉じる……と心の中だけで付け足しておく。
「……あー、葵と友達のアタシが言うのも、肩持っているようでナンだけどさ、……葵が、その……恋バナ的なものに鈍感なのはさ……その、本当は鈍感なんじゃないんだよね……いや、鈍感は鈍感なんだけど、その……、」
どう言おうか……関係者以外立ち入り禁止区域に足を踏み込みそうで、麻実はモゴモゴと口ごもる。すると亜美がポツリと呟くように言った。
「……店長って……、昔、何かあったんですか……?」
その言葉に「う」と一瞬詰まれば、亜美は、ふふと小さく笑った。
「……気づきますよ、さすがに。……店長は “彼氏” とか “合コン” の話になると、急に表情がなくなるっていうか……よく顔が強張ってましたから。……本人は上手くかわしているつもりなんでしょうけどね。……それに…… “赤ちゃん” ……苦手みたいでした。……変だなって思ってたんです。小学生くらいの子は全然平気なのに、ちっちゃな幼児とか赤ちゃんは……なんていうんだろう……足がすくむ、っていうか…… “嫌い” なんじゃなくて…… “怖い” のかな、って」
……するどい。
幼馴染にして親友である自分は、葵の苦境に長いこと気づいてやれなかったこともあり、目の前の乙女の鋭さには、被ってもいない帽子を脱いで床に平伏したくなった。
「……うん。まぁね……そこは亜美ちゃんの想像に任せるよ。……詳しいことは言えないんだけど、葵が辛い経験をしたのはホント。……たぶん、女だったら……絶対経験したくない、辛い経験。……だから、恋愛に怯えていると思うし、無意識に拒絶している部分もあったと思う。そのせいで、亜美ちゃんには不愉快な思いをさせたかもしれない。……でもね、葵は今、ようやく前を向き始めたんじゃないかな、って、アタシは思っているんだ。……つまり只今リハビリ奮闘中ってこと。リハビリって一進一退だからさ、時間はまだまだかかるかもしれない。……けど、前には進んでいる、はずなんだ」
一緒にハンバーグを作ったあの日、好きになれただけで幸せだと語った幼馴染は、ほんのり頬を染めて嬉しそうだった。それを思い出せば、自然と胸中が温かくなる。
じっと麻実の言葉を聞いていた亜美は、大きな瞳を一度瞬かせ、濡れた睫毛を静かに伏せた。
「……あたし、やっぱりサイテーですね。……自分だけが可哀想、って思ってました」
「あはは。アタシもよく思うよ。なんでアタシばっかり!ってね。人間ツラい時ってそんなもんだよ? ……ああ、ごめん、アタシと亜美ちゃんの悩みを一緒にするつもりはないんだけどさ」
麻実のフォローに、亜美はゆるゆると首を振った。
「……池さんにキレられたんです。……お前は自分のことしか考えてない、女の嫉妬は見苦しい、人間として終わってる、って。確かにあたし、店長に嫉妬してましたもん。……店長は何も悪くないのに。……篠さんにも叱られたな……このまま有耶無耶に辞めるのは卑怯だよ、今、お店が大変な時なのに、知らん顔するの?って。……店長は絶対ツラい顔なんか見せないようにしてるけど、本当はすごく無理しているんじゃないかって、篠さんが言ってました。……マネージャーも、黒河さんから柏木さんって人に変わっちゃって、結構うるさそうな人だったから――、」
「――え、ちょっと待って。……マネージャーって、黒河さんじゃなくなっちゃったの?」
またもや初耳な話に、麻実は思わず身を乗り出す。
「え、あ、はい……知ったのは十月の終わり頃、だったかな……あ、そうだ、あの異物混入でクレームになった日が、ちょうど引き継ぎの日だったんですよ。あたしはその夜シフトに入ってなかったんですけど」
「……そうなんだ……でも、こないだ担当になったばかりじゃなかったっけ……?」
首を傾げる麻実の向かいで、亜美がちょっと難しい顔になった。
「そうなんですよね……あたしも黒河さんにやっと慣れてきたのに、って思いました。本社の人事のことはよくわかりません……」
「ま、そりゃそうだね……アタシも他社様の事情はわかんないし……」
「異物混入があった次の日、店に行ったら、黒河マネージャーと柏木マネージャーと、杉浦さんまでいたのでビックリしたんです。なんか店長……黒河マネージャーにものすごく責められたらしくって、かなり落ち込んでて……」
「えっ、葵が? 黒河さんに? ……むーん……よっぽど事が深刻だったのかな……新しいマネージャーと杉浦さんまでが店に来て……」
「はい。……なんでも、そのちょっと前に『櫻華亭』のどこかのお店で大きなクレームが出てしまったとかで、立て続けに色々起きたから本社の偉い人たちがピリピリしてるって、杉浦さんが一人でケラケラ笑ってました」
「……ケラケラって……杉浦さん、相変わらずユルいね……」
麻実もすでに顔見知りとなっている慧徳学園前店の前の(いや、前の前の、か)担当マネージャー杉浦。その彼までもが店に顔を出すとは。
うちでいうところの、室長と前室長と前々室長が三人揃いでやってくるって感じか……いやだなソレ。……ていうか、あの黒河さんが葵をものすごく責める、って……
――結構、ヤバめ……?
「……あの、麻実さん」
亜美が思い詰めたように口を開いた。
「……店長は、会社で、何か処分されたり、するんでしょうか……」
「――処分? いや、どうだろ……そんなこと……」
――思いもしなかった……というのが正直なところ。
この件を後輩から聞いた時、 “こちら(自社)側” の内情込み、だったので、 “あちら(クロカワフーズ)側” の内情にまで気が回らなかった。
でも後輩の話では、異物混入の件もネットに晒された件も、全部その客が金目当てや腹いせ目的でやったらしい、とのことではなかったか。
葵には何の責任もないはず――、と断言したいのは山々だが、今まさに社会人として揉まれている麻実としては、そう言い切れない部分がある。
……何か問題があった時――、責任を取らされるのは――?
「……どう、しよう……麻実さん」
「……え?」
亜美の狼狽えたような声で、麻実は我に返る。
「……実はあたし、先週の金曜日……クロカワフーズのマネージャーだって人に、呼び出されたんです」
「呼び出された……? マネージャー……って、黒河さんじゃなくて?」
「黒河さんじゃないです。杉浦さんでも、柏木さんでもない人でした。……あ、名刺をいただいたんですよ……えっと、……ああ、これです」
若い子に人気のブランド財布の中から、白い紙片を取り出し麻実に手渡すと、亜美は眉根にキュッとシワを寄せて続けた。
「……例の投稿記事の件で、問題が大きくなってしまったので、会社としては内密に調査しなければならなくなった、って言ってました。……店長や料理長には内密で、アルバイトの子たちから見た店の様子を知りたい、って。……それで、店長の普段の仕事ぶりとか、スタッフ間の人間関係はどうだったか、とか……、色々聞かれて……」
麻実は信じられない心地で目を見開く。
「うそ……クロカワフーズって、そんなことまでするの……?」
「……どうしよう……麻実さん、もしかしたらあたしのせいで、店長が――、」
「え、なんか、マズい感じのこと、言っちゃった……?」
「言ってませんっ! そのマネージャーさん、あまりにも突っ込んだことを聞いてくるから、あたし、途中から怖くなっちゃって……、だから、何も知りませんって言い張りました!」
「わ、わかった……そっか……」
再び涙ぐみ始めた亜美を宥めつつ、麻実は回らない頭を必死に回転させる。
……アルバイトの子たちから……、ということは、亜美ちゃん以外の子にも本社の調査が入っている、ということ……? 一人一人個人的に呼び出して……?
……にしても、社員には内密でアルバイト相手に調査するってどんだけ……いやしかし、うーん、他社のことは何とも言えないけれど……
……ダメだ。こういった話は自分の手に余る。
「――よしっ! わからんっ!」
「……え」
「亜美ちゃん! そのことは一旦保留で。ああ、この名刺、ちょっと預からせてね。――とりあえず、これからのことを決めよう!」
「……これからのこと、ですか……?」
元気よく問題を後回しにした人生の先輩に、ちらりと不審顔を見せる目の前の乙女。
だが麻実は、この恋する乙女に、ここ一番の姉貴っぷりを披露する。
「亜美ちゃん。最初に言った通り、アタシにはいいアドバイスなんてあげられない。アタシにできることは――、問うこと!」
「……はぁ」
赤らんだ瞳をパチパチさせる亜美に、麻実はビシッと指を突きつけた。
「――さあ、亜美ちゃん。どっちにする? ――このまま逃げるか! ――もう一度、向き合ってみるか!」
威勢よく言い放った後に小さく「……葵はたぶん、亜美ちゃんからの連絡を待ってるよ」と付け加えておく。
すると、亜美はシュッと顔を引き締めた。眉根を寄せて、唇を固く結び、テーブルの一点をじっと見つめる。
「……みんな、許してくれるかな……」
小さな呟きは、きっと、ほんのあと一押しが欲しいから。だから麻実は、恋乙女の背中をちょっとだけ押してあげるのだ。
「う~ん、どうかな。伸兄は……ああ、アタシの三つ上の兄貴はね、『お前の “ごめんなさい” が聞きたいから説教してやってんだ』ってよく言ってる。やな兄貴だけど、たぶんアタシのこと、放っておけないんだな」
麻実はニッと笑って見せた。……ちょっぴり芝居がかっちゃったかな?
それでも乙女は、強張っていた肩の力をふっと抜いて笑った。
「……明日、お店に行ってきます。やっぱりあたし……バイトは、辞めたくないから」
「うん。頑張れ! 恋する乙女よ!」
「お、おとめ……?」
その後、少しだけまた世間話を交わして「店長は今日、本社会議だと思います。去年も十二月は第一水曜だった記憶があるので」……という残念無念な情報を仕入れて、再びガックリと項垂れたりもしたが、結局二人の仲は、アドレス交換するくらいにまで打ち解けた。
そして最後は、亜美の注文したカフェオレ一杯分をしっかりと胸を張って奢り、麻実と亜美は駅で別れた。
――頑張れよ、恋乙女!
麻実は新しくできた妹分の背を見送り、自分も帰ろうと駅の改札に向かう。葵が会議ならば慧徳にいても仕方がない。
ふと思い出し、コートのポケットから先ほどの名刺を取り出した。
亜美を呼び出したという、クロカワフーズのマネージャー。
密やかに行われたアルバイトへの聞き込み……社員の与り知らぬ場所で……スタッフの人間関係まで……あり得るような、あり得ないような。
――あれ……でもこの名前、葵から聞いたことあるような……えっと、どこで聞いたんだっけ……つい二、三か月前じゃなかったっけ。
名刺に視線を貼りつけたまま、半ば無意識にICカードで自動改札を抜け、上り方面のホームへ向かおうとした時、その記憶がポンと姿を現した。
――そうだ。結婚披露パーティー……葵が、こないだ招待されたっていう同僚さんの結婚披露パーティーの、その会場……
《 クロカワフーズ 営業事業部マネージャー 西條 嗣文 》
この “西條マネージャーのお店” ……って言ってなかった、かな?
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ライト文芸
『この感情は、幼馴染としての感情か。それとも……親友以上の感情だろうか──。』
孤独な読書家《凪宮晴斗》には、いわゆる『幼馴染』という者が存在する。それが、クラスは愚か学校中からも注目を集める才色兼備の美少女《一之瀬渚》である。
しかし、学校での直接的な接触は無く、あってもメッセージのやり取りのみ。せいぜい、誰もいなくなった教室で一緒に勉強するか読書をするぐらいだった。
ところが今年の春休み──晴斗は渚から……、
「──私、ハル君のことが好きなの!」と、告白をされてしまう。
この告白を機に、二人の関係性に変化が起き始めることとなる。
他愛のないメッセージのやり取り、部室でのお昼、放課後の教室。そして、お泊まり。今までにも送ってきた『いつもの日常』が、少しずつ〝特別〟なものへと変わっていく。
だが幼馴染からの僅かな関係の変化に、晴斗達は戸惑うばかり……。
更には過去のトラウマが引っかかり、相手には迷惑をかけまいと中々本音を言い出せず、悩みが生まれてしまい──。
親友以上恋人未満。
これはそんな曖昧な関係性の幼馴染たちが、本当の恋人となるまでの“一年間”を描く青春ラブコメである。
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