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第2部
暗天なり、月会議(十月度)
しおりを挟む「――以上の経緯により、お客様に大変なご迷惑をおかけしたこと、そして『櫻華亭』が長年築き上げてきたお客様との信頼関係を崩しかねない事態を引き起こしたことを、深く反省してここにお詫びいたします。また事態収拾のため、尽力くださった鶴岡マネージャーと黒河マネージャー、及び茂木顧問に感謝いたします。ありがとうございました。今後、二度とこのような人為的ミスを犯さないよう、従業員一同、心を入れ替え日々精進して参りたいと思っております。この度は誠に申し訳ありませんでした――」
水を打ったような静寂の中、会議室の前方で深々と頭を下げる男女二名。
頭を上げてもなお俯いたままの女性の方は、今にも泣きだしそうに顔を強張らせている。
息詰まる張り詰めた空気のそこここに、見えない触手を伸ばし絡み合っているのは複雑様々な感情……驚きや不安、緊迫、そして同情、哀れみ。その中でひときわ大きく侵蝕するのは、ひやりとした危機感覚か。
この重大で深刻な事態となってしまった今回の “クレーム沙汰” は、いつでも自店で起こりうること、自分自身が起こしうること――決して他人事ではないのだ……と。
* * * * *
「確かに、キッツいわよね……あれは」
「自業自得ですよ」
「……木戸さん、大丈夫でしょうか……」
三者三様の言葉が三種同様に、濡れたアスファルトへ向かって重たく落ちる。黒い鏡面のような水たまりが、呼応するように鈍く反射した。
十月の第三週水曜日――十月度定例会議の日である。
午前の総会議終了後、葵は『アーコレード』渋谷店店長の牧野昭美と恵比寿店店長の諸岡良晃の三人で、馴染みのカフェに赴き遅めの昼食を済ませた。今日は『櫻華亭』麻布店の大久保恵梨がおらず、久しぶりの『アーコレード』メンバーのみだ。
外の景色が何となく暗いのは、降ったり止んだりの曇天のせい。今は止んでいるが、いつ滴が落ちてきてもおかしくない厚い雲が垂れ込めている。
しかし、重い足取りで本社に戻る三人の面持ちは、今日の空以上に陰鬱であった。
「――まぁね、木戸さんだけの責任とは言えないけど? 本部クレームにまで事が大きくなっちゃったのは、彼女の浅はかな言動にも一因があったわけだし。ここはきっちり反省・学習してもらわなきゃ」
「それは、そうなんですけど……」
「ちょっとした小さなミスや手違いは誰にだってあるのよ。人間だもの。でも、どんな時でも、まずはお客様の立場や気持ちを一番に優先して考えることが重要。木戸さんがそこのところ、きちんと解っていたなら、少なくとも今回のような大きなクレームにはつながらなかった……でしょ?」
「……そう、ですね……」
牧野女史の論は正しい。葵もそう思う……けれど。
「どうしたの、水奈瀬。……何かあった?」
いつになく沈んだ葵の様子に訝しんだのか、諸岡が顔を覗き込んでくる。
「あ? い、いえ、何もないです。すみません、何か……他人事じゃないなーと思いまして……」
慌てて顔を上げた葵は、何でもない風で笑顔を作る。
牧野女史と諸岡が、眉を寄せて顔を見合わせたのも気づかぬまま、視線は灰羊毛を厚く敷き詰めたような遠くの空に飛んだ。
午前の総会議で報告された “本部クレームの発生” は、元々晴れやかとは言い難い心持ちであった葵を、さらに重く沈みこませていた。
クロカワフーズにおける本部クレームとは、店舗で発生したクレームがその場で治まらず、本社へ持ち上がってしまうことである。自他ともに一流を誇るクロカワフーズであり、クレーム自体を発生させないよう社員教育は徹底されているのだが、やはり人間に完璧や絶対はなく、残念ながら客からの苦情は皆無ではない。
万が一のクレームが発生した場合、店舗管理者である支配人や店長は、すみやかに迅速に誠意をもって対応に当たる。どうしても対処できない場合、トラブルの解決を本社に一任するケースもないわけではないが、大体の場合、自店の中で対処する。対処できるように店舗管理者は教育・指導されており、できないほどの重大クレームはそもそも滅多なことでは起きない。
よって、数年に一回あるかないかのごく稀な頻度で発生する本部クレームは、そのほとんどが、本社に直接入る顧客からの訴えによって発覚する。
今回発覚したクレームの出所は『櫻華亭』グランド・シングラー赤坂店。
赤坂は本店に次いでそのステイタスを誇る店である。本部クレームなど前代未聞なだけに、他の社員が感じる驚きと不信は決して小さくなかっただろう。
――以下は、総会議で報告された大まかな事実に、詳細を知る牧野女史の注釈・説明を加えた事態の経緯である。
そのクレームの内容は “ダブルブッキング” ――いわゆる重複予約で、絶対にあってはならない人為的ミスの一つでもある。
事の発端は、ホテル店舗を拠点としてその権威を振りかざすクロカワフーズの重鎮、今田顧問の一言からであった。
先週末、FCIC本社の役付き数名が来日することとなった。FCICとは米国に本社を構える外資系ホテルグループで、『櫻華亭』がテナントとして入っているグランド・シングラー赤坂、シングラーホテル日比谷、そしてホテルシングラー・インターナショナル汐留の親会社である。
FCIC本社の中でも『櫻華亭』ファンは多い。来日すれば日本支社のジェネラルやチーフディレクターたちと合流し、『櫻華亭』で食事を楽しむことも通例となっている。
そこで、FCIC関係者と懇意であることを誇りとする今田顧問は、嬉々としてその接待役に名乗り出た。彼は赤坂で、オープン時から長く支配人を務めた経歴を持っている。必然、ホテル店舗の第ー号店として誉れ高い赤坂を、ここまで築き育て上げたのは自分である、という自負の塊だ。
我がホームへ招待する心持で、彼は赤坂店随一のVIP席(個室)へ自ら予約を入れた。
しかし、そこは今田顧問かくあるべし、というべきか、その予約記入を人任せにした。つまり、自分で予約台帳を確認することなく口頭で、入れておいてくれ、と伝えたのだ……赤坂店アテンドの木戸穂菜美に。
木戸は素直に了承し、言われた日時を言われたままに予約台帳へ書き込んだ。
だがそれが、間違った日時だったのだ。
ここで牧野女史は注釈を入れた――今となっては、今田顧問が伝え間違えたのか、木戸さんが聞き間違えたのかは、断定できないの――と。
それから数日、来日が間近に迫ったある日、くれぐれも粗相のないように、と今田顧問から念を押された赤坂の支配人蜂谷が、最終確認のつもりで予約台帳を開く。――そこで予約ミスが発覚した。しかも入れるべきその日その時間、VIP席は他の予約で埋まっている。蜂谷はすぐに木戸を呼び出した。
蜂谷は木戸を叱責し、とにかく他のテーブルを確保できないかと入っている予約をすべてチェックしたが、あいにくその日は予約が多く、個室どころか窓際の優待席はすべて予約で埋まっている。さもありなん、その日は金曜の夜なのだ。
残っているのは二名掛けやお一人様用のカウンター席で、とてもじゃないがFCIC本社の役付きを接待するには不向きの席。どう頭を捻っても、調整できる余裕が一切ない状況だった。
この危機的状況を今田顧問へ報告するべく、蜂谷支配人がその場を離れたわずかの間に、切羽詰まった木戸は、あろうことか先約していた客に電話をかけたのだ。
『――ご予約の日にちをずらしていただくことはできないでしょうか、もしくは、個室でなかったら、ご案内できるのですが……』
それに怒ったのは当然、電話を受けた先約の客だ。
――予約した時確かに、かしこまりました、と受け付けたくせに、何故今になってそんな理不尽なことを言われるのか。その日は結婚を控えた息子と婚約者のための両家の食事会だ。祖父母もいるしそれぞれの兄弟姉妹も呼んだ。赤ん坊だっている。だから個室をお願いしたのに。全員が出席できるよう、ようやく日時に都合つけたのだから、日を変えてくれと言われてもできるわけがない。『櫻華亭』での食事を皆楽しみにしていたのに、手配したうちの面目は丸つぶれじゃないか――云々。
憤り冷めやらないその客は、当然と言えば当然なのだが、叩き付けたその受話器をすぐさま持ち直しクロカワフーズ本社に電話、その怒りをぶつけることとなってしまった。
よって、蜂谷支配人が今田顧問を捕まえるよりも早く、事は本社上層部の知れるところとなり、報告を受けた黒河沙紀絵統括部長は、一瞬にしてその玲瓏たる面貌を般若のごとく一変させたという。
女史曰く――私、たまたま本社に行ってたのよその日。だから鬼面の統括、久しぶりに見ちゃった……あれは怖い……ヒトじゃない……
ブルッと身を震わせた女史の話を聞きながら、葵は身につまされる心地で自店を思ったものだ。
慧徳店ではVIP席も個室さえもなく、VIP客という差別化をしていないので、なかなか考えにくい事態ではあるが、ダブルブッキングは他人事ではない。これからのイベント時期には予約も増える。テーブル数が少ないからこそ、重複してしまった時の調整はほぼ不可能だ。
毎年お盆や年末年始の時期、親戚一同揃った大人数で予約を入れてくれる客は、慧徳にもたくさんいる。楽しみにしている顧客に不快な思いをさせたり、落胆させたりするのは考えるだけでも心苦しい。
改めてもう一度、自分はもとよりスタッフ全員に危機意識を徹底させなければならない、と思った。
「――ま、今回は上手く収まったからよかったんじゃないですか? 今田顧問の “どこ吹く風” っていう感じは面白くないけど」
諸岡の呆れたような声音に牧野女史は、フン!と鼻息を荒くした。
「そこが腹立たしいのよコンダヌキっ! 散々周りを振り回しておいて知らん顔だもの! ……ったく、茂木さんの爪の垢を煎じないまま喉奥に突っ込んでやりたいわっ」
忌々しげに傘を振り回す牧野女史を、諸岡が苦笑いで、まぁまぁ、と宥める。
――そう、結果から言うと、どうにかこうにか丸く収まったのだ。
それは他でもない、 “本店の顔” と称される茂木顧問の機転があったからこそ、なのである。
本社にクレームが入ったその日、営業事業部室に居合わせた鶴岡・黒河両マネージャーは報告を受けてすぐさま本店へ向かった。
本店は『櫻華亭』の中で最も予約が取りづらく、一般の客なら(つまるところコネがなければ)週末の夜など半年先でも取れないのだが、本店ならではの特質を知っている二人は、もしかしたら、という可能性に期待をかけた。
訪れる大半の客が各界のVIPばかり――大企業の重鎮やどこぞの国会議員、国内外の大使や皇室関係者まで――という本店では、その用途も、プライベートだったり大事な会合だったり接待だったり、と色々事情が異なる。加えて、この客とこの客は絶対に顔を合わせちゃダメ、などとという暗黙のルールも少なくなく、日々、不測の事態だらけと言っても過言ではない。
だから本店では、いつでもほんのわずかな “遊びの部分” を残してある。時間もテーブルもギチギチに埋めることはせず、何かあった時のための補助枠として小さな余白をいくつか作っているのだ。加えて、フロア内が複雑に入り組み、テーブルの増減や移動、フロアの分断、結合さえも容易にできる造りになっているため、不測の事態への対応力は大きい。
その辺を上手く操れば、もしかしたら何とかなるかもしれない――『櫻華亭』現担当の鶴岡と本店前支配人の侑司はそう考えた。
しかし、事情を聞いた本店の柏木現支配人や茂木顧問とともに予約台帳を確認するも、当然週末のその日はものの見事に埋まっていて、補助枠も上手く使えなさそうであった。何しろ件の客は大人数で、しかも個室を望んでいる。
やっぱり無理かと肩を落としかけたその時、茂木顧問がずらりと並んだ予約客御名の中の、とある名前を指差した。
先代の頃から通っていただいている “超” がいくつもつくほどのお得意様で、尚且つ、黒河沙紀絵統括の親戚筋に当たる人物だ。――仮にT氏としておく。
その日は仕事関係の人達と食事をするため予約を入れていたのだが、実はこのT氏、仕事の都合上、予約時間通りに来られないことが常であった。
『――不躾は承知のうえですが、予約時間の繰り下げをお願いしてみましょう』
茂木顧問はそう言って、統括にまず話を通し、自らそのT氏に連絡を取ってくれたという。実はこれ、赤坂の木戸穂菜美と同じ発想に見えるが、その実情は全く異なるもの。
茂木顧問には、そのT氏が快く承諾してくれる算段が十分にあった。長年の交流の中で茂木顧問が大切に培ってきた信頼関係の賜物だ。
果たせるかな、茂木顧問はT氏からすんなり了承を頂いた。すぐに統括へ報告した茂木顧問は、T氏からの伝言『貸し一つだな』も端折ることなく伝えたので、彼女の般若顔は全く解消されないままであったらしいが、とにかくも本店の個室が一つ確保できたわけだ。時間制限はあるものの、普通の客がゆっくり語らいながら飲食を楽しむことができる時間は十分にある。
鶴岡マネージャーは、早速蜂谷支配人に連絡を入れ、怒らせてしまった件の客に本店へご案内できる旨を伝えるよう命じた。
連絡を受けたクレーム客は、蜂谷支配人からの丁重なお詫びと本店へご招待の話を聞き、ようやく怒りの炎を鎮火することとなった。
何しろ、『櫻華亭』を少しでも知っている人間ならば、本店がいかに遠き狭き門であるかくらい周知の事実である。その客も、本店はおそらく取れないだろうな、と端から諦めたうえで、赤坂へ予約を入れたという経緯があったようだ。
無理だと思っていた『櫻華亭』本店へ、しかも、行き帰りのタクシー代も全員分完全に負担してくれるという。ヘソを曲げ続けるのは愚の骨頂だ。
こうして、その客は息子の結婚前の両家顔合わせを、由緒正しき『櫻華亭』本店で執り行うことができ、面目を保つどころか相手側からは賞賛の意を惜しみなく頂戴し、さらには食前酒のサービスやちょっとした焼き菓子の手土産まで持たされ、さすが『櫻華亭』本店だ、と心底満足し、上機嫌で帰途に就いたという。
一方の今田顧問にしても、当初の予定通り、心ゆくまで赤坂店においてFCIC関係者をもてなすことができたのだから文句はない。それどころか自分に非は全くないとばかりに、今回の失態をすべて木戸穂菜美の責任だとしたうえで、丸く収まったことに免じて彼女に向けた叱責も微々たるものだった、らしい。
――だから “コンダヌキ” なのよっ!
牧野女史はそう憤る。
今日の会議に今田顧問は出席していない。元々、そういう時だけ「私には何の権限もないからねぇ」と、顧問としての正しい立ち位置を唱え、厄介事から目をそらす人間だという。
会議に出席した全役職者たちの前で、報告書を読み上げ、謝罪し反省の意を述べて、木戸と共に頭を下げたのは蜂谷支配人だ。
報告書の中では、誰のミスとは明言されていなかった。木戸穂菜美の名も今田顧問の名も出ていない。けれど報告書が読み上げられる最中、化け物に差し出される生贄のように怯え震えていた木戸穂菜美の様子を見れば、誰でも彼女のミスだったのかと判断してしまうだろう。
彼女のあの泣きそうな顔は、ただでさえ憂鬱だった葵の心に、思いもよらないさらなる打撃を与えた。
……いつもオドオドと、自信がなさそうな彼女。本当は辞めたいの、と言っていた彼女。
葵は彼女の仕事に対する考え方や姿勢を、彼女本人の口から聞いて知ってしまっている。
それ見たことか、なんて気持ちはこれっぽっちもなかった。同情や憐憫……それも違う気がする。
ただ、途轍もなくやるせない思いが滾々と湧き出て仕方なかった。
どんより(うち一人はプンスカ)歩く三人は本社ビルのエントランスに入り、エレベーターホールへ向かう。あと十数分で午後会議が始まる時間だ。
ふと、諸岡が思いついたように切り出した。
「そういえば……黒河マネージャー、異動になっちゃいましたね」
急に振られたその名前は、葵の心臓をドキンと跳ねあがらせる。跳ね上がった心臓はそのまま硬く縮こまり、黒々とした鉛になってずしんと鳩尾に落ちた気がした。
この繁忙期突入前にしての突然の人事異動発表は、午前会議の最後、おまけの追加事項とばかりにさらっとなされたが、噂としてすでに広まっていたのか、それともクレーム発生の件があまりにも重すぎたのか、人事異動に関しての驚きや動揺はさほど感じられなかった。
もちろんすでに知っていた葵も、驚くことはなかった。……でも。
「そうねぇ、せっかく馴染んできたのに、残念だわ」
「ホントに残念ですよ。俺、あの人の数字の読み方、もっと傍で勉強したかったんですけどね」
「黒河くんの出す見積もり、とんでもないハッタリかと思えばドンピシャだものね。あれは私、出せないわー」
「牧野さん、数字に関しては慎重ですもんね」
「他がテキトー、みたいな言い方やめて」
二人のやり取りも耳を素通りし、葵の目線は知らずうちに床面へ落ちる。
元々、本部クレームの件を聞く前から、葵の心を重く沈みこませていた要因は、それだった。
確かに驚きはなかった。でも胸に痛かった。改めて正式に、彼が担当から外れることを目の前に突きつけられるのは、やはり堪えた。
色々な意味で覚悟はしていた。あれから侑司が慧徳へやってきたのは三回程度。その中で仕事上の短い会話は何回かしたけれど、全部合わせても三分に満たないだろう。彼に、葵とコミュニケーションをとる意思は皆無だった。
そして予想通り、今日葵は侑司と挨拶どころか視線さえ交わることがない。この後午後会議で顔を合わすけれど、彼が葵に対しどのように接するか、大体想像がつくというものだ。しかも来月になればそれさえもなくなる。彼との接点は完全に断たれる。わかっていても心が痛い。
想いは捨てなければならない――葵は拒絶されたのだから。
潮の匂いと風の唸りの中で、波の轟が耳の中でわんわんと騒ぐ中で、彼の低い冷たい声は葵を拒絶して――、
「――ねぇ葵ちゃん、そう思わない?」
牧野女史の声が葵の意識を引き戻した。
「……え? ……あ、そうですね。まだ一年も経ってませんからね……」
咄嗟に話の流れへ乗ったつもりだったが、乗り損ねたらしい。
牧野女史と諸岡が素早く目配せし合い、諸岡はやや気まずげに口を開いた。
「……なぁ、水奈瀬……えっと……変なことを聞くようだけど、もしかしてくろか――」
「――あ、いたいたー、ハルミさーん!」
エレベーターホールからテテッテと走り寄ってくる一匹のウサギ……否、女性。
「あら、ウサちゃん」
「よかった、探していたんです。……あ、諸岡くん水奈瀬さん! 私、まだお礼をしてなかった! 先日はお忙しい中、来てくださってありがとうございました」
諸岡、葵に向かって丁寧にぺこりと頭を下げたのは、先月結婚式を挙げたばかりの宇佐美奈々だ。小さくて細いのに、ほわほわとした雰囲気をまとっていつもニコニコしている。
結婚しても仕事は続けるらしく、慢性人員欠乏症候群であるクロカワフーズとしては諸手を挙げて歓迎したことだろう。社内の総務から経理から庶務的なことまで一手に引き受ける彼女は、もはや手放せない存在なのである。
そんな彼女に葵も諸岡も、いえいえとんでもないです、と頭を下げ返した。
「こちらこそお招きいただいてありがとうございました。とても素敵なパーティーでしたよ」
彼女に負けず劣らずのニコニコ顔で諸岡が返し、葵もコクコクと賛同する。
「宇佐美さん、すごく綺麗でした。――あ、えっと、もう “黒河” さん、なんですよね」
すると、新妻の黒河奈々はこそばゆそうに笑った。
「ふふ、宇佐美、でいいの。この会社、黒河だらけでしょう?」
だらけ、というほどはいないと思うが、彼女の言い方が可愛らしくて、葵は思わず笑ってしまった。牧野女史もそれにつられたのか、微笑ましそうに目を細める。
「そうね、ウサちゃんは結婚しても “ウサちゃん” が合ってるわ。……で? どうしたの?」
「あ、そうそう、これです。こないだ提出してもらった申告書の保険控除の欄……ココなんですけど、間違ってマス」
手に持っていた書類を広げて、奈々は牧野女史に指し示した。
「え、うそ……って、これ晃治くんの申告書じゃないっ」
「はい、さっき牧野くんの所に行ったんですけど、『ハルちゃんに聞かなきゃ俺わかんないなー』って」
「あんのヤロ……」
ピクピクっとこめかみを脈打たせる牧野女史に、葵と諸岡はちょっぴり後ずさる。しかし、奈々は全く動じることなくニコニコ屈託ない笑顔でさらりと言った。
「すみません、出来れば今日中……というか、お昼休み中に直して欲しいんです。私、午後から区役所に行かなきゃならないので……」
小柄な彼女は、牧野女史を見上げてニコニコ。
この無邪気さに、さすがの牧野女史もやられたようだ。こめかみの青筋は消え失せ、ハフと諦めたように息を吐いた。
「わかった、じゃあ経理に寄るわ」
というわけで、皆そろってエレベーターに向かう。
葵が「経理もこの時期は大変そうですね」と言えば、奈々は「そうなのーもう数字見たくないのー」とポワポワ笑う。
そんなやり取りをしていたので、牧野がちらりと諸岡を見て諸岡が心得たように頷く、という小さなやり取りには気づかなかった。
二階で牧野女史と黒河奈々を降ろし、諸岡と葵を乗せたエレベーターは再びドアを閉めた。
グーンと軽い重力を感じる中、諸岡が階表示の数字を見上げたままふと、口を開く。
「そういえばさ、水奈瀬……今日は珍しく携帯を気にしてたね。誰かのメールでも待ってるの?」
「――へ? あ、そ、そうですか? 私、気にしてました?」
「うん、さっきランチした時、帰り際にチェックしてたよね? 珍しいなと思ってさ」
諸岡さん……よく見てるな。
ほんの少し背中をひやりとさせながら、葵は「待ってるわけじゃないんですけど……」と思考を巡らせる。
すぐに三階へ着いて外に出つつ、葵はちらりと諸岡の横顔を窺った。
「……あの、諸岡さん、公衆電話からの着信を拒否するのって……、やり方わかります?」
「何それ。公衆電話からかかってくるの? もしかして、また店に?」
糸目をすっと眇めて訝しげにする諸岡は、夏前、慧徳店を悩ませた無言電話の件を思い出したのだろう。葵は慌てて首を振った。
「いえ、違うんです、店じゃなくて私の携帯なんですけど。――あ、いえ、たぶん間違いだと思うんですよね。かかってきた時すぐにこっちが出られれば『違いますよ』って言えるんですけど、出れないことが多くて。だから着信拒否しておけば、向こうもおかしいって気づいてくれるんじゃないかな、って思ったんですけど……」
早口で説明しながら、ちょっと苦しいかな、と片隅で思う。
「一応、携帯の設定画面で拒否してはみたんです。でも着信履歴を見ると、やっぱりかかってきているみたいで……これって着信拒否できていないってことですか?」
じっと葵の話を黙って聞いていた諸岡だが、とりあえず納得したように頷いて「携帯見せて」と言う。手渡せば、受け取るなりマジマジと「年季入ってるねー」……余計なお世話だ。
「いつ頃からかかってくるようになったの?」
「えーと、先月くらい、ですかね……あ、履歴はその都度、消しちゃってるんですけど」
「ふぅん……たぶん、端末設定だけだと履歴は残るんじゃないかな。着信は端末に届いているってことだね。履歴を残したくないなら、ネットワーク設定が必要だと思うよ。つまり、相手からの着信を端末に届く前にブロックする仕組み。たぶん無料で簡単に設定できるけど、公衆電話に対応してくれるかどうかは……電話会社によって異なるかもしれないな」
ぱちんと携帯を閉じて葵に差し出した諸岡は、簡単に設定方法を教えてくれた。
「なるほど……わかりました。とりあえずソレ、やってみます」
「やってあげようか? ボタン式って久しぶりだから時間かかるかも、だけど」
ニコニコさらりと小憎らしい諸岡に、葵はさっさと携帯をバッグにしまってバッグ本体のファスナーもこれ見よがしにきっちり締めた。
「結構です。すみませんね、 “タップ” できなくて」
むぅと口を尖らせつつ、もう買い替え時かなー、と内心溜息を吐く。こないだ弟にも小馬鹿にされたばかりだ。別に買い換えるのが嫌なわけじゃない、最新の携帯端末に興味が無いわけじゃない。けれどあまりにも古い古いと言われるので逆に変な意地もある。……まだ使えるわけだし。
そんなことを考えながら、廊下の突き当りを小会議室のある左に曲がろうした時――、
「――わ……っ……!」
――ゴンッ!と何が突っ込んで来たのか、吹き飛ばされる衝撃と共に持っていたバッグが宙に舞い、葵はひっくり返った。
打ちつけた尻のじんじんとした痛みに耐えつつ、痛みの既視感が脳裏をよぎる。
……なんか、こんなシチュエーション、前にもあったような……
「――ちょっと……っ、大丈夫か?!」
隣にいた諸岡が慌ててしゃがみ込む。彼は無害だったらしい。
「水奈瀬、立てるか?」
「あ、たた……――わっ、木戸さんっ! だ、大丈夫ですかっ?」
ひっくり返った葵の傍に倒れているのは、木戸穂菜美だった。
「ご、ごめんなさい……」と弱々しく呟きながら、諸岡の手を借りて身体を起こす。そんな彼女の顔を見て、葵はハッとした。
泣いたように赤く腫れた目元。長い睫毛が濡れたように伏せられて、その間から潤んだ瞳が見え隠れしている。
「あっ……木戸さん、どこか打ちました? 痛かったですか? ごめんなさい、私、気づかなくて」
「ビックリしたよ。思い切り突っ込んでくるんだもんな。急いでいるとはいえ、やみくもに走るのは危ないよ」
諸岡の言い方は暗に木戸の責任だと言わんばかりだ。葵は彼をキッと一睨みして、床面に散乱した小物を拾い集めた。
「私も悪かったんですよ、ぼーっと歩いていましたから。ほら、諸岡さんも手伝ってください!」
「あ、いいの、自分で――」
ぶつかった瞬間、彼女が持っていたバッグは飛んで中身は見事に散乱してしまったようだ。一方、葵のバッグも飛んだが中身は無事だ。ついさっきバッグのファスナーをしっかり締めたことが幸いだった。
「はい、これと、これも……壊れてなければいいんですけど」
「あ、ありがとう……」
「はい、木戸さん。手帳と……これも木戸さんの? 今どき珍しいもの持ってるね。テレフォンカード?」
差し出された手帳とともに、諸岡の手の中にある一枚の薄いカード。
……テレフォン、カード……?
ハッと息を呑むような気配がその場に走った瞬間、葵の頭に何かがサッと過った。――と同時に木戸が大きく頭を振った。
「……あ……ち、違う……! 違いますっ! それ、私のじゃないっ!」
「……え、でも」
人が変わったように叫び首を振る木戸。手帳とカードを手にしたまま戸惑う諸岡。
その時、カツ、と靴音が響いて、その場の三人はハッと振り返った。
「――何をしているんですか」
「……蜂谷、支配人」
いつからいたのだろう、赤坂の蜂谷支配人が三メートルも離れていない場所に立っていた。針金にスーツを着せたような細過ぎる体躯が真っ直ぐこちらに近づいてくる。
「木戸くん。午後会議が始まる前にその顔を直してきなさいと、言ったはずですが」
「す、すみませんっ……!」
サッと蒼褪めた木戸穂菜美、そして、じっと瞬きもせず木戸を凝視する蜂谷支配人。諸岡がさりげなく割って入った。
「……えっと、水奈瀬と木戸さんがぶつかっちゃったんですよ。彼女が勢いよく突っ込んできたんで、水奈瀬も避けきれなかったんです」
「い、いえ! 私もボーっと歩いていたんで、悪かったんです」
葵も追って口添えすると、蜂谷の視線がゆっくりとこちらに向いた。
葵を見つめたほんの数秒の間は、諸岡と葵の説明を彼の中で咀嚼していたのだろうか。
「……まもなく店舗会議が始まります。急ぐように」
なめらかな声音で静かに言うと、蜂谷はもう一度木戸に視線を注ぎ、『櫻華亭』の店舗会議が行われる大会議室へ向かって歩いて行った。
彼の姿が視界から消えた途端、蒼褪めたままの木戸は諸岡の手から手帳だけをひったくるようにして奪い、エレベーターの方へ走り去ってしまう。
彼女の背を見送り立ち尽くす葵の傍で、諸岡が手に残された一枚の小さなカードに目を落とす。そして葵を見た。
「……水奈瀬、今自分がどんな顔してるか、わかる?」
どんな顔をしているんだろう……今更だけど、お尻が痛いです……
そんな軽口も叩けないまま、葵は地面に突き刺した棒のように立ち尽くすしかない。
凍りついたまま動けない葵に、諸岡は何とも言えない微妙な顔をして、言った。
「――さっきの、公衆電話の話……もう一度詳しく聞かせてもらうよ。水奈瀬」
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-本編大まかなあらすじ-
*青木みふゆは23歳。両親も妹も失ってしまったみふゆは一人暮らしで、花屋の堀内花壇の支店と本店に勤めている。花の仕事は好きで楽しいが、本店勤務時は事務を任されている二つ年上の林香苗に妬まれ嫌がらせを受けている。嫌がらせは徐々に増え、辟易しているみふゆは転職も思案中。
林香苗は堀内花壇社長の愛人でありながら、店のお得意様の、裏社会組織も持つといわれる惣領家の当主・惣領貴之がみふゆを気に入ってかわいがっているのを妬んでいるのだ。
そして、惣領貴之の懐刀とされる若頭・仙道京司朗も海外から帰国。みふゆが貴之に取り入ろうとしているのではないかと、京司朗から疑いをかけられる。
みふゆは自分の微妙な立場に悩みつつも、惣領貴之との親交を深め養女となるが、ある日予知をきっかけに高熱を出し年齢を退行させてゆくことになる。みふゆの心は子供に戻っていってしまう。
令和5年11/11更新内容(最終回)
*199. (2)
*200. ロンド~踊る命~ -17- (1)~(6)
*エピローグ ロンド~廻る命~
本編最終回です。200話の一部を199.(2)にしたため、199.(2)から最終話シリーズになりました。
※この物語はフィクションです。実在する団体・企業・人物とはなんら関係ありません。架空の町が舞台です。
現在の関連作品
『邪眼の娘』更新 令和6年1/7
『月光に咲く花』(ショートショート)
以上2作品はみふゆの母親・水無瀬礼夏(青木礼夏)の物語。
『恋人はメリーさん』(主人公は京司朗の後輩・東雲結)
『繚乱ロンド』の元になった2作品
『花物語』に入っている『カサブランカ・ダディ(全五話)』『花冠はタンポポで(ショートショート)』
J1チームを追放されたおっさん監督は、女子マネと一緒に3部リーグで無双することにしました
寝る犬
ライト文芸
ある地方の解散された企業サッカー部。
その元選手たちと、熱狂的なファンたちが作る「俺達のサッカークラブ」
沢山の人の努力と、絆、そして少しの幸運で紡ぎだされる、夢の様な物語。
(※ベガルタ仙台のクラブの歴史にインスパイアされて書いています)
三度目の庄司
西原衣都
ライト文芸
庄司有希の家族は複雑だ。
小学校に入学する前、両親が離婚した。
中学校に入学する前、両親が再婚した。
両親は別れたりくっついたりしている。同じ相手と再婚したのだ。
名字が大西から庄司に変わるのは二回目だ。
有希が高校三年生時、両親の関係が再びあやしくなってきた。もしかしたら、また大西になって、また庄司になるかもしれない。うんざりした有希はそんな両親に抗議すべく家出を決行した。
健全な家出だ。そこでよく知ってるのに、知らない男の子と一夏を過ごすことになった。有希はその子と話すうち、この境遇をどうでもよくなってしまった。彼も同じ境遇を引き受けた子供だったから。
40歳を過ぎても女性の手を繋いだことのない男性を私が守るのですか!?
鈴木トモヒロ
ライト文芸
実際にTVに出た人を見て、小説を書こうと思いました。
60代の男性。
愛した人は、若く病で亡くなったそうだ。
それ以降、その1人の女性だけを愛して時を過ごす。
その姿に少し感動し、光を当てたかった。
純粋に1人の女性を愛し続ける男性を少なからず私は知っています。
また、結婚したくても出来なかった男性の話も聞いたことがあります。
フィクションとして
「40歳を過ぎても女性の手を繋いだことのない男性を私が守るのですか!?」を書いてみたいと思いました。
若い女性を主人公に、男性とは違う視点を想像しながら文章を書いてみたいと思います。
どんなストーリーになるかは...
わたしも楽しみなところです。
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
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幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
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2024.03.06
イラスト:雪緒さま
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