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松穂

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第2部

その麗人、演技派?

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「お待たせいたしました。キノコのチャウダーでございます。……熱いので気をつけてお召し上がりください。……こちらがオニオングラタンスープでございます。粉チーズはお好みでどうぞ」
 テーブルの上に注意深く、それぞれの熱いスープを置くと、立花婦人は「まぁ、美味しそう」と微笑み、サングラスの彼女は、気怠そうな仕草で黙ってスープカップの蓋を開けた。
 ――が、ふわんと上がる湯気にサングラスが曇る。
「……」
 一瞬固まった彼女はすぐに、ち、っと舌打ちして湯気をしっしと手で追い払う。
 何故かサングラスを外そうとしない彼女は、曇る視界もそのまま、開き直ったように銀製の蓋がついたガラスのチーズポットを開けて、慣れた手つきでパッパと粉チーズを飴色のスープの中に投入している。
 立花婦人は、彼女のそんな様子に呆れたような目を向けたが、何も言わずスープスプーンを手に取った。

 ――やっぱり、知ってる、、、、
 テーブルを離れた葵は、カウンター奥へ入りながら、そっと振り返ってみた。
 優雅にスープを口元に運ぶ立花婦人の向かいで、スープスプーンに唇をつけた途端、アツッと肩を震わせてまた唇を寄せる彼女。まるで猫みたいだ。
 そんな彼女がオーダーしたオニオングラタンスープは、相当な時間と手間がかかるスープである。
 玉ねぎの薄切りを、気の遠くなるような時間炒め続けて飴色にして、甘みとコクを存分に引き出す。そこへブイヨンを加え、じっくりゆっくり丹念に煮込むのだ。
 さすがに、オーダーが入ってから玉ねぎを炒め始めるわけではなく、事前の仕込みでしっかり時間をかけるのだが、それでもバゲットを浮かせてオーブンで焼くという手間が入るため、他のスープより多少時間がかかる。
 オーダーを受けた時、ふと気づいた。――おそらく、彼女はうちの、、、オニオングラタンスープを知っている。
「オニグラは時間がかかるんだから」と言っていたし、粉チーズのトッピングもずいぶん慣れた様子だった。一般的なオニオングラタンスープは、チーズをのせてからオーブンに入れるレシピが多いと聞く。『アーコレード』(『櫻華亭』も同じ)の “後のせチーズ” タイプは珍しいのに、戸惑った様子はなかった。――ということは。
 彼女はこのスープを、一度は頼んだことがあるのかもしれない。……他の『アーコレード』かもしくは、『櫻華亭』で。
 ―― “オニグラ” って略した言い方も、慣れてたしね。

 その後、メインのハンバーグステーキと洋風御膳を運んだ時も、サングラスの女性はツンとした態度を葵に見せつけた。が、ひとたび葵がテーブルを離れると、嬉々としてハンバーグにありつく。そんな様子が視界の端でしっかりと確認できた。 
 そうこうするうちに、ちらほらと他の客が入りだし、店の中が賑わい出す。
 後入りの篠崎も出勤してきて、葵と池谷、篠崎の三人は、いつも通りのディナータイムを粛々と動き回った。
 時折、1番テーブルの様子をそれとなくうかがえば、かのツンツンレディはなかなかの食べっぷりだ。どう見ても「あんまりお腹が空いていない」ようには見えない。少なくとも、出された料理に不満を抱いているようには見えなかった。
 品良い老婦人とサングラスの派手目な女性、異色な組み合わせの二人……にもかかわらず、そのテーブルは他と同様、穏やかで和やかな店の雰囲気に包まれ同化していた。


「――ああ、ちょっと苦しい。でも、美味しかったわ。全部残さず食べられたのなんて初めて」
 洋風御膳に添えられるほうじ茶を飲んで、立花婦人は満足そうに微笑む。
「お祖母ちゃんがそこまで食べたの、初めて見たかもね」
 もちろんこちらも完全完食の連れは、幾分かツンツンとしたとげが和らいだ感じだ。食後のドリンクをサーヴしながら、二人の会話をそれとなく聞きながら、葵の口元もつい綻ぶ。
 そこへ、失礼いたします、と背後から篠崎がやってきた。
「こちら、料理長からです」
 そう言って、二人の前に恭しく配膳された二枚のデザート皿。小さくカットされたチーズケーキにフランボワーズのムース、アングレーズソースとミントの葉が添えられている。
 え?と、皿を見つめる二人に、葵はにっこり笑って説明した。
「佐々木チーフに立花さんの足のことを話したら、そりゃめでたいことだ、って。快気祝いと元気づけにサービスだそうです。ぜひ召し上がってください。もしお腹がいっぱいでしたら、残されても構いませんので」

 佐々木チーフをはじめ、厨房の人間は滅多なことではフロアに顔を出すことがなく、当然、常連客といっても面識はない。
 だが、葵も他のフロアスタッフも、いつも来てくれるお客様の情報(個人情報や誹謗中傷ネタではなく、あくまでもオーダーに関する情報である)はなるべくこまめに、厨房メンバーへも伝えるようにしていた。顔や姿を目にすることができない分、なるべく悪い心象を持たないように。
 いつもタンシチューを頼む○○さんは歯が少し悪い、だとか、毎月給料日の夜に来る△△さんは保険会社の営業をしていて、ここでの食事は一か月頑張った自分へのご褒美らしい、とか。
 些細なことだが、少しでもそういった情報を伝えておけば、例えばタン肉をあらかじめカットしてください、というリクエストにも快く応じてくれるし、仕事帰りでラストオーダーギリギリに駆け込んできても、嫌な顔せず腕を振るってくれる。
 立花さんに関しても、足が悪いことと高齢のためどうしても全部食べ切ることができないことは、厨房メンバー全員が知っている。だから、毎回食べ残しを包むことになっても、文句ひとつ言うことはない。
 もちろん、客の要望すべてに応えることなどできないのだけれど、できることは快く応じてあげよう……これは、佐々木チーフも是認してくれていることであり、元を辿れば、かつてお世話になった『敦房』で刷り込まれたサービス精神でもあった。

 可愛らしくデコレートされた(もちろん佐々木作)白いデザート皿を、立花婦人は感極まったように眺めて、ほぅと息を吐いた。
「嬉しいこと言ってくれるのねぇ……。そういえば……ずいぶん通わせてもらったけれど、まだ料理長さんにはご挨拶もしていないんだわ。来るたびに、我がままを言ってお手を煩わせているのに」
「そんなこと気になさらないでください。最近お見えにならなかったから、チーフも気にしていたんです。だから今日、久しぶりに来て下さって、すごく喜んでいました」
「そう……では、ありがたく頂くわ。お礼を言っておいてね、葵ちゃん」

 嬉しそうに微笑んだ立花婦人に、ハイと頷き、葵は篠崎と共に一礼してテーブルを離れようとした。すると、黙って二人のやり取りを聞いていた婦人の孫(たぶん)が、不意にクスリと笑う。
「……お祖母ちゃん、よくわかったわ」
「そうでしょう? 貴女の取越し苦労なのよ」
 さっきまでの態度が別人のように、クスクスと笑い転げるサングラスの女性は、その顔をしっかりと葵に向けた。
「ありがとう。料理、すごく美味しかったわ。これ、遠慮なく頂くわね」
 厚くも薄くもない紅い口元が、友好的に笑んでいる。
 葵は「い、いえ、とんでもございません。ごゆっくりどうぞ」と、若干慌てて頭を下げた。
 ――……合格、したのかな?

 コロッと、というか、呆気なくというか、ツンツン態度を引っ込めた女性に、ほんの少し困惑を感じないでもないが、「美味しかった」という最上の言葉をいただけたことは嬉しかった。

 ――シノっ! ちょっと、シノっ!
 カウンターの脇から池谷がコソコソと篠崎を呼んでいる。
 バックに戻りながら、葵はコラッ!と目で叱った。

 ディナータイムはこれからが山場なのだ。気を緩めるなかれ。


* * * * *


 1番テーブルの二人が立ち上がったのは、それから三十分ほど経った頃だ。
 若いレディの腕を頼りながら、老婦人は杖をついてゆっくり歩く。ちょうど手の空いた葵がレジに入り会計をした。
 財布を取り出したのは、若い方だった。滅多に見ることのない黒光りするカードを差し出され、葵は恭しく両手でお預かりする。

「ここはいい店ね。居心地もいいし、料理もすごく美味しかった……お世辞じゃなく、本当に美味しかったわ。ごめんなさい、不躾な態度で気を悪くさせてしまって」
「いいえ、とんでもございません。ご満足いただけて良かったです」
 嬉しいお言葉に内心ガッツポーズだ。
 手早くクレジット会計を進める葵の手元を、彼女は見るともなしに眺めながら言った。
「お祖母ちゃんがこの店に入れ込んでいるって聞いたもんだから心配になったの。よくしてくれるのも、絶対お祖母ちゃんの正体を知っててやってるんじゃないかって。でも、今日実際に来てみてよくわかったわ。あなたたち、本当に知らないのね」
「ちーちゃん、」
 彼女の背後から立花婦人が咎めるように声をかけると、この “ちーちゃん” はひょいと肩をすくめた。
「まあ、いいわ。お祖母ちゃんがこの店に来づらくなっても困るしね。私のことに気づかれなかったのはちょっと複雑だけど……ああ、あそこのバイトくんは、気づいてたかな」
 と、フロアの方へ向けた視線の先には池谷がいた。
 レジ台からの視線に気づいたのか、池谷はふとこちらを向いてギョッとしたように一瞬肩を揺らしたが、さすがはクールビューティー池谷、すぐに慇懃な一礼をしてバックヤードへ入っていった。
 一方の葵は、ちょっと意味が分からない。
 ――正体? 気づくって、何に……?
 ぱちくりと瞬いた葵を見て、彼女はあはは、と実に聞き心地のよい声で笑う。
 そして、おもむろに大振りレンズを取り去って、その素顔を現した。
 想像以上の美人顔登場に、葵は思わず目を見張る。

「面白い人ね、あなたって。……あ、ねぇ! 携帯ナンバーとアドレス教えて? ああ、店の番号とか仕事用の携帯なんて、野暮な真似しないでよ? 大丈夫、本当はこういうのダメって知ってるし、あなたの石頭上司には内緒にしておくから。ね?」
「……あ、はい……いや、あの、……え?」

 ――うわ、ホントに綺麗な人……あれ、でもこの人どっかで……
 と、口を半開きにしてつい見とれてしまった葵は、彼女の言葉も半分耳を素通りさせながら、気がつけば自分の番号とアドレスを走り書きしたメモを渡してしまっていた。彼女が発する不思議なオーラに圧倒されてしまったらしい。
 そばにいる立花婦人も、「まったくこの子は言い出したら聞かないんだから……」と苦笑している。
 ここで敢えて言っておくが、普段は絶対にしないことだ。今まで何度か、来店した客にそういった個人情報を聞かれることは(異性同性問わず)あったが、葵が教えたことはない。
 クロカワフーズでは、客と親しくなることに否を唱えてはいないが、あくまでも節度をもって、としている。レストランの従業員と客の関係は、主従ではないが同等でもない。軽い気持ちから出た不必要な馴れ合いが、大きなトラブルにつながることもある。
 葵自身、さほど厳格な考えに固持しているわけではないが、やはり勤務時間中に仕事場でこういったやり取りをするのは慎むべきことかなと思っていた。
 だがしかし……教えてしまったものは取り消せない。……超絶美人パワー、恐るべし。

「ありがとう。必ず連絡するから」
 気位の高い猫のような瞳をキュッと細めて、彼女はメモ紙をハンドバッグにしまった。
 そして取り出した端末でどこかへ電話する。どうやら、彼女の迎えの車はすでに表で待機しているらしく、立花婦人もそれに同乗させて自宅まで送るようだ。
 仲良く連れだって店を後にする二人を丁重に見送ったあと、葵は魔法が解けたような心地でフロアに戻った。
 しかし葵の脳裏には、先ほど目にした麗人の顔が、何となく引っ掛かったままだった。


 その引っ掛かりがスルスルっとほどけたのは、本日最後の客が支払いを済ませて店を出た後である。
 ディナータイムの間中、どこか様子のおかしかった池谷が、いそいそと葵に近づいてきた。
「……なぁ、テンチョー、マジで気づいてねーの?」
「へ?」
 いささか間抜けな返しをしてしまった葵に、池谷は「だろうな……」と心底呆れたような目を向けた。
「今日来た、立花さんの連れ。――橘ちひろだよ。女優の」
「……あ? あ……ああぁぁっ!」
 そうかそうだそうだったんだ……葵の中でようやく合致した。
 どこかで見た気がしたあの美人さん。化粧が濃く髪型も違っていたので本当に気づかなかった。
 “ちーちゃん” ……なるほど、女優の橘ちひろ――!

 葵がテレビで彼女を見た一番の最近は、たしか数週間前、朝のワイドショーか何かだったと思う。内容は忘れたが。
 前回出演のドラマ(未だ、話題になったソレを葵は見ていない)において、清楚で一途な女性の役だった彼女は、あんなに化粧が濃くなく、髪も長く黒かった。一転、今日の彼女は茶髪でショート、目を惹く華やかなメイク……ずいぶん雰囲気が変わるものだ。
 ということは、あの濃い化粧とツンツン仕様は演技だったということか。

 一人呆然とお口あんぐりの葵に、篠崎が笑った。
「僕も気づかなかったですよ。イケにこっそり教えてもらっても、ずいぶんイメージ違うし、ホントかなって思いましたもん」
「反応うっすいんだもんな。なーんか、俺だけがミーハーみたいじゃね?」
 残ったコーヒーやら氷やらを片づけていく池谷は、ちょっと憮然とした顔だ。
 この事実は、すぐに厨房メンバーにも伝わった。(葵の叫びを耳にした厨房メンバーが何だ何だと訝しみ、篠崎が事情を説明した)
 佐々木と遼平は「へぇ、女優がねぇ」という淡白な反応だったが、吉田は「マジっすかっ? 何で教えてくれなかったんですかっ!」と一人大興奮し、その反応に池谷は満更でもない様子であった。
 何はともあれ、芸能人がこの店に来るなんて初めてのことだ。後片付けをしながら、皆がひとしきりその話題で盛り上がってしまうのは一般ピーポーの性だろう。
 葵としては、他の客に気づかれず騒ぎにならずに済んでよかった、というのが一番の感想だ。
 気づかれて騒がれた方が、芸能人冥利に尽きるのかもしれないが、静かにゆっくりと食事を楽しんでもらえたことが、何よりホッとできることだった。

「なぁ、水奈瀬。その橘ちひろってのは、立花さんのお孫さんってぇ、言ってたんだな?」
 ふと、日報チェックの手を止めた佐々木が、葵に向いた。
 葵も、ダスター漂白の手を止めて返事をする。
「はい、確かに、橘ちひろさんが立花さんのことを “お祖母ちゃん” って呼んでましたよ。まさか、あの立花さんに女優しているお孫さんがいるなんて私も知らなかったんですけれど、 “たちばな” って名字は一緒ですしね。……あれ、でも立花さんは “立つ花” だったはず……あの “橘ちひろ“ は、 “木偏” の “橘” ですよね……うーん、芸名、ですかね? ……佐々木さん?」
 葵の話を聞いているのかいないのか、佐々木は腕を組みじっと考え込んでいる。が、すぐに我に返って、ボールペンを持ち直した。
「あ、いや、……俺の考えすぎか」
「え?」
 聞き返した葵には応えず、佐々木はさっさと事務室に入ってしまった。
 厨房は三人いたせいか、今日の片付けはいつも以上に素早い。床流しもブラシ掛けもすでに終わっている。
 おっとっと、こちらも早く終わらせねば――と、バケツに向き直った葵は、一つ思い出した。
 ―― “お祖母ちゃんの正体” って、何だろう……


 後片付けとデータ入力、事務処理をほんの少し手がけて、ようやく葵は着替えるために更衣室へ入った。他のメンバーは皆すでに帰宅している。
 バッグの中からブーンというバイブ音がしたのは、着替え終わって更衣室を出た時だ。
 まさかさっそく? と一瞬考えてしまったのは、数時間前に来店された有名女優様の件があったからだ。慌てて携帯電話を取り出し、開いた画面にはしかし、 “公衆電話” とある。
 あれ?と思いながら、とりあえず通話ボタンを押して耳に当てると、すでにツーツー、という切れた音。
 ?マークを浮かべたまま携帯画面を再び見た葵は、ギョッと固まった。

 ――え? 何これ……着信、28件?

 着信マークの横に(28)。恐る恐る履歴を開くと、そのすべてが “公衆電話” から。
 ……一体、誰?

 寒気立つ葵の手の中で、再び携帯が、ブーンブーンと震えた。




 
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