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松穂

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第1部

天使、懐に舞い込む

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 二人を見送った後、どこか白けたような静寂がロビーを包む。
 侑司を追って行った彼女の、いかにも女性らしい華やかなワンピースが、やけに眩しく見えた。品良く清楚で可愛らしい花柄にひらりとしたシルエット。彼女にとても良く似合っていた。
 一方、自分の姿を見下ろせば……百歩譲っても女性らしい格好ではないな、と思う。細身のスキニージーンズにフレンチスリーブのパーカー。設営作業後シャワー室で汗を流して、着替えはしたのだが。
 はふ、と息を吐いて、葵がベンチから立ち上がった時。

「テーンチョ」
 突然、声がかかって、葵は飛び上りそうになった。
「池谷くん……!」
 ロビー奥の休憩所からひょっこり出てきたのは、池谷夏輝。手には自販機コーナーで買ったらしいスポーツドリンクとお茶のペットボトルがある。
「……ビックリしたー……どうしたの、こんな所で」
「亜美のペースがちょっと早くてさ。今のうちにソフトドリンク用意しとこーと思って」
 池谷はひょいとペットボトルを上げてみせる。
「え、上にソフトドリンクもあったでしょ? わざわざお金出して買うことないのに……」
「それは、アレ、大人の事情、ってやつじゃん?」
「はい……?」
 はてなマークを頭上に掲げる葵に、池谷はフンと鼻で笑い「上、戻るんだろ? 行こーぜ」と顎をしゃくる。綺麗な顔してこの小生意気な態度。だが慣れている葵は「はいはい」と素直に彼を追った。


「――なあ、さっきの女……誰?」
 第二エレベーターから降りてきた数人を見送り次いで乗り込めば、ふと池谷が尋ねてきた。
「ん? さっきの、って?」
「ひらひらの服着て、黒河マネージャーを追っかけて行った女」
「ああ、グランド・シングラー赤坂の木戸さんね……って、……池谷くん、見てたの?」
「見たくて見たわけじゃねーし。たまたま見えただけ」
「ふーん、そう……」
 二人揃ってエレベーター内の階表示を見上げながら、葵はヒヤリとする。
 池谷はいつから、あの休憩所にいたんだろう……もしかして、葵と侑司がベンチで話しているのも見ていた……?
 仮に見ていたとしても、あそこからでは二人の声は聞こえなかっただろうと思う。が、話していた内容が内容なだけに、何となく胸の奥がざわつく。

「なーんか、いかにもイイとこのお嬢さん、って感じだな。あーいうタイプってクロカワフーズでやっていけんの?」
「そんな失礼なこと言わないのー。木戸さん、英語ペラペラなんだって。ホテル店舗には欠かせない人材でしょ?」
「へぇー。……テンチョー、気になる?」
「……何が?」
 色気ダダ漏れの流し目でニヤリと笑うだけで、池谷はそれ以上何も言わない。
 その意味ありげな沈黙に嫌な感じを覚えつつ、エレベーターから降りて会場に足を踏み入れた途端、「あ、いたぁー!」という甲高い声に押されて、葵は数センチ仰け反った。
 ――隣の池谷からは、チッと舌打ちの音が。

「もー、池谷くーん、どこ行ってたのー!」
「急にいなくなっちゃってぇー! 探したんだからー!」
 瞬く間に、池谷は数人の若い女の子たちに取り囲まれ、葵はさらに数センチよろめいた。
 女の子たちは全員、目に眩しいカラフルな色合いの浴衣姿である。おそらく『アーコレード』渋谷店と恵比寿店のアルバイトの子たちであろう。葵も一人二人、見覚えがある。
 なるほどね、と葵は納得した。
 池谷夏輝という青年、性格こそ少々ヒネたところがあるが、その外見はいかにもモテそうな美形である。ああやって女の子たちに目をつけられるのは避けられないだろう。アルコールに酔い、解放された雰囲気の中なら尚更だ。

「……だから下まで逃げてきたのかも」
 葵は独りごちて、その場からそっと離れた。池谷には申し訳ないが、若い女の子たちの楽しみを奪うような野暮な真似はしたくない。
 可憐な金魚たちに囲まれて恨めし気な眼を寄こす池谷に、葵はひらひらと小さく手を振った。
 ――自分で何とかして下さいねー。


* * * * *


「えへへへ……てんちょぉ~、きょおはたのしかったですねぇ~」
「あ、亜美ちゃん……? ちょーっと一回、お水飲もうか?」
「いやだなぁ~てんちょぉ~、ヘンなとこさわらないでくださいよぉ~」
「え、うそ、ごめん、さ、さわっ……さわった?」
「亜美、お前いい加減しろ」
「イケさん、きらぁい。いつもおこってばぁっかり」
「テメー」
「――池、吉田がオチた」
「はぁ? ったくどいつもこいつも……」
「シノさんはすきぃ~、やさし~ぃもぉん。てんちょぉもすきぃ~、だぁいすきぃ~」
「はいはい、わかったから……ぐ、重い……」

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、納涼会はそろそろお開きの時間である。
 あちこちで酔っ払いの叫声が上がり、潰れた(潰された)人間もちらほら。屋台はもう火を落としドリンクも追加補充は終わったようだが、会場内ではまだ、ダラダラと飲んでいる人が多い。
 開宴したのが早かったので、お開きの時間と言っても終電にはまだ充分間があり、片付け担当のメンバーもこんな雰囲気の中、なかなか腰を上げようとしないのだ。
 明日からはどの店舗も通常営業、なのにこんな状態で大丈夫かな、と葵は心配になるが、大久保はカラカラと笑って「毎年こんなもんだよー。飲むならとことん、って人多いから」という。今日片付けきれなくても、後日、ここ本店の国武チーフが若手を引きつれて、残った分を片付けてくれるらしい。
 そんな話をしていた葵たちのテーブルに、亜美が乱入してきた。
 頬は赤く目はたっぷりと潤んでおり、呂律も若干回っていない……完全に酔っぱらっている。
 亜美はすぐ近くのテーブルで学生アルバイトたちと仲良く飲んでいたのだが、そのグループも今やてんでんばらばら、何人か帰った者もいるようで、どうやら話し相手を求めて葵たちのもとにたどり着いたらしい。
 すぐに後から池谷が来てくれたが、亜美は葵にしな垂れかかり、かなり情熱的な抱擁をしかけてくるので、葵は椅子ごとひっくり返りそうだった。

「店長、僕たち、お先に失礼しますね。吉田も寝ちゃったし、亜美もこんな状態なんで」
 苦笑いするしっかり者のクマさんこと篠崎は、亜美と違って自分のアルコール許容量をちゃんと守れる人間だ。池谷は元々、酔っぱらったところなど見せたこともないし、この二人がいてよかった……と、葵は心底ホッとする。

「私も下まで一緒に行くね。タクシー呼ぶからみんなで乗って帰って。亜美ちゃんもこれじゃあ電車は大変だよ」
「すみません。じゃあ、ちょっと僕、家に電話してきます。吉田も起こさなきゃ」
「うん、お願いね。ほら、亜美ちゃん、みんなで一緒に帰ろう? 今日はもうおしまい。ね?」
「えぇ~、やですぅ~、たのしかったのにぃ~……こぉんなに、たのしかったのにぃ……」
「亜美ちゃん?」
「……いっしょに……きたかったなぁ……」
 俯いて、小さく蚊の鳴くような声で呟いた亜美。
 葵はすぐに察して、オロオロとその背を撫でた。飲んではしゃいで笑っていても、亜美の心の片隅にはいつも忘れられない存在がいるのだ。
 こないだの警察沙汰大騒動以来、亜美はふっ切れたように明るく振る舞い、憂い顔など見せたこともなかった。遼平にも物怖じすることなく接して、シフトも相変わらず良く入ってくれている。
 だが、一見今までと変わらなさそうに見えても、事情を知っている者なら誰でもわかる変化がある。亜美はあれから、仕事上の用件以外、自分から遼平に話しかけることはない。彼に対してはっきりと線を引いているのだ。
 本当にふっ切れたのか、ふっ切るための戒め、、なのか……亜美の心中は推し量ることしかできないが、こうしてふとした瞬間見せる亜美の切ない表情は、いまだ想いがあるという証拠なのではないだろうか。
 考えれば考えるほど、葵も何だか切なくなってきた。

「……あ、亜美ちゃん……泣かな――」
「――ああぁっ! ないっ、ないっ、なあぁいぃーーっっ!」
「……え?」
 突然、素っ頓狂な大声が上がり、葵の中に生まれた切なさはあっという間に吹き飛んだ。
 唖然と固まる葵の前で、亜美は「ぽーち、ぽーち、ぽーち!」と繰り返しながら、バッグを漁っている。

「てんちょぉーっ! ぽーちっ、わすれてきちゃったみたいですぅーっ! あーん、おきにいりだったのにぃーーっ! ぜぇーんぶはいってるのにぃー! どーしよぉー!」
「ちょっと、亜美ちゃん、そんなにポイポイ投げたら……」
「あ~……おちちゃったぁ~……うんしょ……ぅぐ……なんか、きもちわるい……」
「ええっ! ちょっとっ、大丈夫っ?」

 要するに、化粧道具が入ったポーチを、どこかに置き忘れたらしい。
 バッグの中のものを全部出すのはいいが、テーブルの下にボトボト落ちている。しかも、それを拾おうとして屈みこめば、気分が悪いとうずくまる始末。

「……マジかよ、亜美」
 吉田の様子を見て戻ってきた池谷は、亜美の様子にうんざりだ。
「池谷くん、ちょっと彼女見てて。亜美ちゃんの忘れ物、捜してくるね」
「はぁ? なに、忘れ物って」
「化粧ポーチだって。トイレに忘れたのかも」
「くっそ、バカ亜美……おい! お前まで寝るなよっ!」
 テーブルにくてんと突っ伏した亜美を叱りとばす池谷。口は悪いが、ああ見えて無責任ではない。ちゃんと介抱してくれるだろう。
 葵は二人をその場に残し、女子トイレに向かって急いでテーブルや人の間をすり抜けた。
 周りを見れば亜美みたいな酔っ払いと、池谷や篠崎のような介抱人があちこちにいる。先ほどまで葵と一緒に飲んでいた仲間もいつの間にかバラバラになってしまったようだ。牧野女史は夫である麻布店の牧野チーフがいるテーブルに呼ばれて行ってしまったし、諸岡や大久保、その他のメンバーもどこへ行ったやら、姿は見えなかった。

 ――黒河さん……どこだろう。……木戸さんと、まだお話ししてるのかな……
 思わず探してしまいそうになる自分を軌道修正して、葵は屋上のトイレへと足を速める。
 一緒にいる二人を、見てはいけないような気がした。


「女子トイレにはなし……だとすると、シャワー室、か……」
 屋上の女子トイレには見当たらず、念のため一階のトイレ二か所とも探したのだが、それらしきポーチはなかった。葵はうーんと頭をひねる。
 ここの設営作業後、亜美も葵と一緒にシャワーを借りたので、トイレにないとなれば四階のシャワー室しか考えられないのだが、今は非常ドアに鍵がかかっていてビル内へは入れない。
 今日は諦めて明日、本店の人にお願いするか、それとも今、中に入らせてもらえるよう頼んでみるか。とすると、本店の柏木支配人……いや、鶴岡マネージャーの方がいいのか……いやいや、今日は彼を見かけなかった、ということは、来ていないのかもしれない。ならば、他のマネージャー、杉浦さんか黒河さんか……
 うんうん頭をひねりながら、一階から上がってきたエレベーターを降りて、ひとまず会場内へ戻ろうとした、その時だった。
 ――視界の端を、小さなピンクが、かすった。
 あれ?と、葵は足を止めて数歩戻り、エレベーターの機械室となっているそのコンクリートの建物と鉄柵の間、幅一メートルほどの通路を覗き込む。
 ――ひゅ、っと息を呑んだ。

 幼い――おそらく一歳くらいだろうか――女の子が、鉄製の柵の下に頭を突っ込んでいる。その小さな頭が、コンクリートと鉄柵の間に挟まっているのだ。
 屋上一帯を囲んである鉄の柵は、床面から三十センチほど上がったコンクリートの土台に作り付けてあり、高さは充分で子供が乗り越えられるものではない。が、その下部は少し開いている。
 土台と柵の間は、大人なら絶対に潜り抜けられない幅だが、目線が低く小さい子供なら何かの拍子に頭を出してみたくなるかもしれない幅だった。

 ――ど、どうしよう……どこの子だろう……頭、抜けないのかな……下に落ちないよね……? 誰か呼んだ方が……でも、その間にあの子がつんのめっちゃったりしたら……
 ほんの一瞬、色んな考えが脳内を駆け巡ったが、すぐさま意を決して前へ進み出た。
 女の子の方へ、そっと、足音を忍ばせて。

 その子は、頭と右腕を柵の下から外へ出していた。
 ピンク色の上下繋がった甚平を着ていて、こちらに突き出したお尻はおむつでふっくり膨れている。ぷくぷくとした右腕を前につきだし、時々振り回すので、その度に小さな身体が前方へ飛び出てしまいそうだ。
 ――小さくて愛らしい、幼児、、の姿。

 一瞬、葵の身体に、何かが這い上がってきそうな感覚がぞわりと走った。
 思い切り、頭を振る。
 今にも遠くから聞こえてきそうな、その “声” の気配を、無理矢理外へ押しやった。

 葵はゴクンと喉を鳴らし、驚かさないように、静かに女の子の背後にしゃがみ込むと、そっと小さな背中に手を添えて、「……何してるのー?」と優しく尋ねてみる。
 女の子は、動かしていた手を止めてこちらを振り返ろうとした。が、窮屈な姿勢で首はさほど回らず、すぐに前へ戻してしまう。そして、もう一度突きだした右腕をブンブンと振り回している。
 泣いてはいない。痛がっている様子もない。
 見たところ、頭が抜けなくてもがいているのではなさそうだが、このままでは危ないことに変わりない。

「……あのね、ちょっと、危ないから……こっちにお顔、戻そうか……ね? そぉーっと、ゆっくり……そう……お顔、見せて?」
 囁きながら、女の子の頭が柵にぶつからないよう手を添えて、ゆっくりゆっくり促す……特にその子は嫌がる様子もなく、葵の誘導に従ってくれるようだ。
 そうして、葵は全身冷や汗まみれになりながらも、何とか柵の下から女の子を引き抜くことができた。

「あー……よかった……ビックリしちゃった。もう、ここから頭を出しちゃダメだよ? 下に落っこちちゃう」
 ちょうど頭上にある壁面照明の明かりを頼りに、葵は女の子に怪我がないか注意深く見まわしたが、顔も首もむき出しの腕にも傷は見当たらなかった。
 膝をついて向き合って、女の子の胸元や腕を軽く払ってあげると、丸っこい瞳がきょとん、と葵を見返す。
 ふっくりとした頬に小さな鼻と口、澄んだ瞳はぱっちりとしていて、細い絹糸のような髪が汗で額に張り付いている。本当に可愛らしい女の子だ。
 小さな幼児用サンダルを履いているが、まだ歩き始めて間もないような危うさがあった。

 こんな小さな子、間近で見たのはいつぶりだろう……
 ずっと避けてきた。目を合わさないように、声を聞かないように、なるべく距離を取って、可能ならその場から立ち去って。ずっとずっと、逃げてきた。
 “声” が聞こえそうで――怖くて、怖くて。
 けれど、今、耳を澄ませても、怖れた音は何も聞こえない。目の前の女の子は何も喋らず、じっと葵を見上げているだけだ。

 ――こんなに、小さくて、頼りないんだ……
 葵の手先が、そろそろと女の子の頬に伸びようとした。――と、今まで黙っていた女の子が、突然、喋った。

「あーまん」

 ――……あー、まん……?
 伸びかけた手を止めてパチパチと瞬きする葵に、女の子はもう一度、可愛らしい声ではっきりと言う。
「あーまん」
 そして、女の子はくるっと向きを変えて、先ほどの鉄柵にしがみついた。
「あーまん」

 女の子は下を見ている。葵は立ち上がってその背後から下を覗き込んだ。
「――あ」
 屋上の鉄柵の外はそのままビルの壁面なのではなく、五、六十センチ幅ほどのコンクリートの張り出し部分がある。その片隅に転がっている物体がいた。
 茶と赤、黄色……丸っこい頭を持ちマントをつけたそのぬいぐるみは、某国民的菓子パン型ヒーローだ。
「そっか、落ちちゃったんだね……それを拾おうとして」
 ようやく女の子の意図が呑みこめて、葵はホッと肩の力を抜いた。
 “あーまん” が、どういった経緯で鉄柵の外側に落ちたのか……そこはいささか不可解な点だが、女の子が鉄柵の下に頭を突っ込んでいた理由はこれで納得した。
「うーん、これは……私がこの隙間から腕を伸ばしても届かないだろうなぁ……だったら……」
 鉄柵外のコンクリートの張り出しはこちら側の床面より一メートルほど低く、柵の内側からでは、どう見繕ってもぬいぐるみまで手が届かない。柵を乗り越えて張り出しに直接降りるのが一番手っ取り早そうだ。鉄柵の高さは葵の胸元ほど。それはまぁ、さほど難なくできそうなのだが。
 葵は再びしゃがみ込んで女の子と向き合った。
「……ここで、待っててくれる? 動かないで、じってしてて?」
 この子から離れて大丈夫だろうか、誰か呼んできた方がいいだろうか。きょとんとした顔はわかっているのかいないのか。
 しかし、ただここでずっと “あーまん” を見下ろしているわけにもいかない。さっと行けばすぐに取ってこれるだろう。そう踏んで葵は立ち上がり、フラットシューズを脱いで裸足になった。
 ――と。
「――水奈瀬?」
 聞きなれた、耳に心地よい低い声。
 振り返れば、怪訝そうな顔の侑司が足早に、機械室の脇をこちらに向かってくる。
「黒河さん! ちょうどよかった!」
 葵がホッとして声を上げた時、侑司の背後から姿を現した木戸穂菜美。今まで一緒にいたのだろうか。
「――こんな所で何を――」
「あ、黒河マネージャー……この子――、」

 駆けつけてきた二人の視線が、足元の女の子に下がったところで、葵は努めて元気な声を出した。
「黒河さん、木戸さん、この子ちょっと見ていて下さい。私、パパッと行ってきちゃいますから」
「なにを……」
 事態が呑みこめていないだろう二人をその場に残し、葵は手すりに両手をかけて、鉄棒の要領でぐんと上体を持ち上げた。「水奈瀬……っ、」と驚く声を背後に、片足を手すりにかけてもう片方も……そしてピョンと手すりから飛び降りて着地。……よかった、スキニージーンズ履いていて。
 転がったままのぬいぐるみを拾って砂塵を払い、柵の向こうを振り返れば、侑司の足元にぴったりとくっついてこちらを見ている女の子。よく見ると、その小さな手が侑司のスラックスの裾を掴んでいるではないか。
 ――大きな大人と、小さな子供。
 その対比が何だか可笑しくて、葵はくすっと笑ってしまう。
「木戸さん、これお願いしまーす」
 慌てて屈んで手を伸ばした木戸に、柵の下部から “あーまん” を手渡し、もう一度鉄柵に手をかけた。


「――はい、 “あーまん” だよ。もう、落とさないでね?」
 戻った葵は、唖然としたままの木戸からぬいぐるみを受け取り、しゃがんで女の子に向き合い手渡した。
 しかし、女の子はぬいぐるみをじっと見つめたまま、うんともすんとも言わない。
「……あれ? うれしくなかった? んー、ほらほら」
 無反応な女の子に、葵はどうすればいいかわからず、ぬいぐるみの手を持って女の子の頬をちょいちょい、とつついてみる。
 ――すると。
「うきゃ」と、小さく歓声を上げた女の子は、抱きついてきたのだ――葵に。
 胸元に飛び込んできた小さな柔らかい身体。くりくりと押しつけるように、その顔を葵の胸に埋めて、んんー、と唸っている。
 突然のことに、葵の身体はピキンと固まり動けない。

「く、黒河さん……」
 途方に暮れた葵がおずおずと見上げれば、侑司はその眼を細めてこちらを見ている。
「懐かれたな」
「そ、そうなんですか……?」

 小さな小さな、壊してしまいそうな柔らかな身体。
 肩も背中も手も指もみんな、小さくて柔らかくて、頼りない。そして、何だか甘くて優しいいい匂いがする。
 葵は、宙に浮いたままの手をそろそろと動かし、そっと小さな頭を撫でてみた。
 生きている温かさが、じんと手のひらに伝わった。

 ――その時。
 機械室の向こうから、「まなかーっ! まなかーっ!」という叫び声が聞こえた。

 ―― “まなか” ……? どこかで聞いたような……?




  
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