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松穂

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第1部

水奈瀬蓮、探し求めた災厄の種は

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「悪かったな、待たせて」
「いえ、俺も出るの遅くなっちゃったんで、そんなに待ってないですよ。急ぎましょう」
 港区の湾岸にある『SIGMA SPORTS』本社近くまで迎えに来たスポーティタイプのミニバンは、蓮が助手席に素早く乗り込むと同時に発車した。

 一夜明けた翌日、時刻は二十一時少し前。
 何とかして早めに終わらせたい気持ちを逆撫でるかのように打ち合わせは延びて、それでも半ば打ち切るようにして切り上げたのが二十時半だった。
 迎えに来た青柳伸悟が、本社の目と鼻の先に車を付けてくれたのが幸いだ。
 事前に調べたのか、伸悟は一般道ではなく、都心環状線に入り首都高からなんと東名にのった。通算で十数分程度の短縮にしかならないだろうが、それでも気休めにはなる。
 首都高を抜けたあたりからスムーズに流れだしたその勢いに乗って、ミニバンは追い越し車線をひた走った。

「……蓮さん。……伊沢は、どうやって葵ちゃんの居どころを突きとめたんですかね」
「ああ、それな。……たぶん、あり得ない偶然が重なったんだろうな。まさに悪運と言ってもいい」
 問いたげな視線をちらりと向けた伸悟に、蓮は少し笑う。今となってはもう笑うしかない、もはや “因縁” と言ってもいいだろう。

 七月上旬に行われたクロカワフーズ新規事業店舗のレセプションパーティー。――会場となった多目的劇場ホール施設に、偶然、二人は居合わせた。
 言葉を交わしたのか、お互い遠目で見かけただけなのか……それはわからないが、少なくとも葵は、あの男の姿を見かけても、決して自分から声をかけたりしないだろう。
 一方、あの男は葵を探していたようなそぶりだったという。彼の方には、葵とコンタクトを取ろうとする意志があった、ということだ。
 その後、伊沢がどのような意図のもと、どのように動いたのかは定かではないが、別会場でレセプションパーティーを主催していた会社、クロカワフーズの名を知り、そこから傘下の店を調べるのは簡単だったはずだ。調べれば、『アーコレード』という洋食レストランの一店舗が、 “慧徳学園前” に在ることもすぐにわかる。
 “慧徳学園前” ――伊沢尚樹が葵と出会った、かの場所、かの店。そして現在、まったく同じ場所にある『アーコレード』という店。
 折しも運悪く、伊沢はここ最近、かつて自分が担当していた地域の顧客に挨拶回りをしていたという。ということは、慧徳学園前周辺の住宅街にも足を運んでいた可能性は大きい。
 そこへ来て、こないだの警察沙汰騒動。『アーコレード』という洋食レストランの若い女店長が何やら事件に巻き込まれた、という下世話な噂。
 店のスタッフも驚くほどその騒動は近隣で話題となったらしく、葵も怪我を負った女店長としてずいぶん話のネタになったそうだ。
 もしそれが、その界隈を回っている最中の伊沢の耳に届けば……葵の存在はもはや隠しようがない。
 ――結局、こうなることは時間の問題だったのか、と自嘲したくもなる。

「マジすか。そんなに騒ぎになってたなんて……ったく萩のヤツ。……でも、まさか偶然会っちゃうって……マンションでも葵ちゃんのアパートでも店でもなく、ヘルプで行った仕事先でって、何か……やり切れませんね」
 知り得た事実と憶測を交えた蓮の説明に、伸悟はうんざりとした溜息をつく。蓮はわずかに口端を上げた。
「俺たちの密やかな手回しは、一切徒労に終わったというわけだな」
「まだ終わったわけじゃないですよ。これ以上、葵ちゃんに関わらせないためにも、俺たちで止めましょう」
「……そうだな」
 蓮は静かに答えて、視線をサイドウィンドウに移した。

 ――このまま、一生、葵自身に向き合わせないつもりなのか……?

 迷う余地はない。やはり、会わせたくはない。会わせるわけにはいかない。

 ――四年前の葵の苦しみは、二度と繰り返してはならない。


* * * * *


 運び込んだ病院で、葵は無事に処置された。
 蓮よりも年嵩のその担当女医は、葵の妊娠から流産にわたる経緯と術後の経過について、動揺が治まらない蓮に対し、宥めるように丁寧な説明を施してくれた。

 ――曰く、稽留流産となった原因は母体にはないこと、進行流産となってしまったが、手術によって子宮内残留物は綺麗に除去できたこと、これから将来の妊娠は問題なく望めるであろうということ。しかしながら、こういったケースの患者が受けた精神的なショックは、周りが思うより遥かに大きいことが多いので、充分な時間をかけたケアが必要であること――

 混乱極めた頭で何とかそれらの説明を呑み込んでも、到底現実のものとして実感はできない。
 蓮は半ば茫然としたまま、とりあえずの諸手続きを行い、一日入院が必要な妹を夜間完全看護の病院に残し、疲弊しきった萩と共に帰宅するしかなかった。
 ――が、災厄はさらなる惨苦を科す。
 その女医の懸念は、葵の退院後、目に見える形となって蓮の眼前に突きつけられた。

 不眠、食欲減退、慢性的な倦怠感と抑うつ状態。
 術後の身体的経過は良好だ、と診断されたにもかかわらず、葵の身体はそれに反してどんどん悪くなっていく。
 日ごとに痩せていき、突発的発作的な手指の震えに悩まされ、日常生活にも支障をきたすほど、状態は悪くなる一方であった。
 その原因があろうことか “赤ん坊” の姿――テレビ番組やCMで目にしただけでも――であると気づいた時、蓮はもはや非常事態の域であると確信した。
 だが、結果としてどうしようもなかった。――葵の身体は “病院” に拒絶反応を示したからだ。
 産婦人科の女医を介して同じ病院内の心療内科を紹介してもらったのだが、病院の正面玄関より先に進むことさえできず、結局診てもらうことはできなかった。
「大丈夫だから」と、まったく大丈夫でない顔で薄弱な笑顔を見せる妹。
 夏が終わり短大の新学期が始まって、葵は辛うじて通学はしていたようだが、大学に行きつく前に気分が悪くなり、そのまま帰ってきてしまうことも少なくなかった。
 忙しい蓮に代わり、葵の傍にいてやれるのは高校生の萩しかおらず、姉の痛苦を目の当たりにした萩はしばしば、夜遅く帰った蓮に泣きついてくる。
 母の疾患の時以上に、鬱屈した日々が過ぎていった。

 そんなある日、萩が打ち明けた話に蓮は耳を疑った。
「……蓮兄……オレさ……オレ、見たんだ……葵の背中に……ナンかすっげー、でかいあざ……あれって、もしかしたら、その……無理矢理、ヤられた、とか……」

 詳しく問いただせば、まだ葵の妊娠が発覚する前、風呂場ではち合わせた時に、大きな打ち痣をちらりと目にしたという。慌てて言い訳する姉の様子に引っかかりながらも、気のない素振りで目を逸らしたと萩は言うが、今更ながらに思い出し、考えるほどに嫌な予感を募らせていったのだろう。
 萩のこの告白が、蓮のこれからの行動をはっきりと浮かび上がらせた。

 ――その男、必ず、この手で探し出す。

 妹をこんなふうにした男――日常生活もままならないほど妹は病んでしまったというのに、その姿を一度も見せず、正体はまったく不明の男。
 蓮の中で溜まりに溜まったストレス、遣る瀬無さと憤りがはっきりとした輪郭を成し、そのベクトルは全て “見知らぬ男” へと向かった。
 もはや、妹に聞くことはできない。問うても絶対に口を割らないことはわかっている。問い詰めてこれ以上苦しい思いをさせたくはない。
 ならば、こちらから見つけ出すまでだ。
 見つけ出して、その男がしでかしたこの結末を眼前に突きつけてやらねば気が済まない。場合によっては法的手段に訴えてもいい。どんな手を使ってでも、このまま有耶無耶にはさせてなるものか。すべては葵のために。
 ――そう、己の正当性を、何度も胸の内で繰り返した。

 多少のリスクを承知で、萩にも探索の意志を伝えた。
 弟自身も何かしたくてウズウズしていたようだが、経過は全て話すと約束し、絶対動くなと言い聞かせた。まだ高校生の弟を連れ回すよりも自分一人の方が動きやすい。何より、細心の注意を払わねばならない極秘の探索調査を、この直情型性質の弟に邪魔されるのは避けたかった。
 いきり立つ萩を、葵の側にいてやって欲しいからと説得して、どうにか思いとどまらせることができたのは、ある意味奇跡だったかもしれない。

 そうして、蓮の探索追跡が始まった。
 最初は、まったく思うように進まなかったと言っていい。仕事は変わりなく繁忙を極めて、数少ない休みやほんの少しの暇を使って動くしかない。所詮、素人の人探しだと痛感せざるを得なかった。
 まずは、妹の友人関係を中心に探ってみようと考えて当たってみたが、思いの外、この作業には困難が伴った。
 地元方面の友人は最近葵と会っていない者が多く、短大の友人に至っては、蓮自身が妹の交友関係をよく知らない。しかも、あまり深く追及すればその態度に不審を抱かれ、葵の妊娠や流産が露見してしまう可能性もある。
 それでも大学へ行き、体調を崩した妹の代わりにちょっとした事務手続きをしに来た、といった風を装って、慎重に同じクラスの女学生を当たってみたが、まるで有益な情報は得られなかった。
 妹の性格を鑑みれば、これは仕方ないことなのかもしれない、と思った。
 葵は今までまるで男っ気がなく、恋愛沙汰とは無縁な中高校生時代を送っており、一般的な女子特有の恋愛観念が欠落している部分がある。
 男兄弟に囲まれ、周りにいた友人も親戚も断然男が多かった故に、彼氏ができたと喜び、色気づいて周りに吹聴するような性格には育たなかったのだ。
 それに加えて、短大へ通う葵は忙しかった。学業の傍ら、アルバイトと家事全般をこなし、短大の女友達とゆっくり恋愛話で盛り上がる時間などなかったに違いない。
 全くと言っていいほど浮上しない交際相手の影を追いながら、濃度を増していく仄暗い疑念を――不倫、不貞、愛人……妹に限ってまさか――、何度も繰り返し振り払った。

 そんな中、葵と一番近しい友人である青柳麻実にも、直接話を聞きに行った。
 幼い頃から家族ぐるみで仲が良く、この年になっても麻実と葵は他の誰より交遊があったことは知っている。彼女になら恋人の存在を、その僅かな片鱗でも明かしているのではないか……そう考え、蓮は少なからず期待していたのだが、それも打ち砕かれた。
 麻実は知っていたが、既に葵によって口止めされていたのだ。
 葵が付き合っていた男の正体も、さらには二人が別れたことも、麻実は知っているようだったが、頑としてその口を割らなかった。
 舌打ちしたい心情を抑え込みつつも、蓮には、麻実を強く問い詰めることができない理由があった。
 話をした感じから、麻実は、葵と恋人の破局は知っていても、妊娠や流産に関しては知らされていないとわかった。もしここで強引に、恋人であった男の正体を訊き出せば、それがもとで葵の変事に麻実が気づいてしまうかもしれない。末っ子気質と言うべきか、麻実も萩とどこか似た直情型の性格があり、葵の妊娠と流産を知れば、何をしでかすかわからない部分がある。葵を心配するがあまり、万が一にも何かの拍子に麻実の母実可子に漏れて、そこから母朋美へ伝わってしまったら――
 すべて事情を打ち明けて、知っていることを明かしてもらう手立てを取らなかった所以はそこだ。
 青柳家と水奈瀬家は今でも母親同士で交流がある。母に一連の災厄が伝わることだけは、何が何でも避けなければならない。
 以前葵には、母に知られることもいとわないという態度を取ったが、もちろんそれは、彼女の口から真実を吐かせたいがためのハッタリだ。蓮だって母には極力――否、絶対に知らせるつもりはない。それは三兄妹弟きょうだい共通の強い意志である。
 よって、蓮は内心焦りと苛立ちに歯噛みしながらも、表向きはあっさりと青柳麻実との対面を終えるしかなかった。

 そうこうするうちに、葵が内定していた就職先に自ら連絡して、内定取り消しを申し出てしまったことを知った。皮肉なことに、管理栄養士を目指す葵が内定をもらっていたのは、都内の保育園だった。
 保育園……幼児……赤ん坊……このままでは精神的に無理だと判断したのだろう。
 ちゃんと他の就職先を見つけて働くから、と弱々しく微笑む妹に、蓮はかける言葉を見つけられなかった。
 妹の将来はことごとく踏みにじられ、その元凶を暴き出すための探索の糸さえも途切れてしまい、蓮は完全に行き詰ったとして、頭を抱える日が続いた。

 だが、そんなある日、とうとう転機が訪れた。
 葵のバイト先である『敦房』の濱野哲矢氏から連絡があったのだ。自宅電話にかけてきたのを、たまたま蓮が取った。
 夏休み途中から――あの悪夢の一夜から――葵はアルバイトを休んでいる。
 本人は辞めさせていただきたい、と願い出たそうなのだが、濱野氏はそれを保留にしてくれているらしい。それ以来連絡もしていない葵を心配して、自宅へと連絡をしてきてくれたのだ。
 濱野夫妻は、葵の妊娠から流産に至る経緯をすべて知っていた。
 葵の体調が思わしくなく、最初に彼女の異変を感じ取ったのは濱野氏で、そこから妊娠を疑ったのは美津子夫人だったという。夫妻は、どうしていいかわからず途方に暮れた葵を、まずは産婦人科へ行くように説得してくれたのだそうだ。
 電話の向こうから濱野氏は、もっと早く気づけなかったことを悔やみ、こうして病んでしまった葵に対して、何の役にも立てないことを詫びてくれた。
 たかが自店で雇用している学生アルバイトにここまで親身になってくれるとは、と驚きつつも感謝の意を述べ、後日、『敦房』を訪問することを伝えた。
 ――季節は既に移り、いつの間にか秋らしい風が吹きはじめていた。

 『敦房』で出迎えてくれたのは、人の良さそうな、口ひげをはやしたオーナー濱野哲矢と、小柄ながらも凛とした、品のある佇まいの濱野美津子夫人だった。
 二人は、蓮が思う以上に葵を可愛がってくれていたようで、葵も濱野夫妻には全面の信頼を置いていたようだ。夫妻は、父母不在の水奈瀬家の事情についても、ある程度は知っていた。
 葵の現状や店での様子などを話した後、蓮は率直に、つき合っていた男に心当たりはないか訊いてみた。
 しかし、濱野夫妻も葵の恋人について詳しいことは知らなかった。辛うじてわかったのは、その相手が社会人であり、今年の夏前頃から、葵と上手くいっていないような気がした、ということくらいか。
 ただ、それ以前に関しては、決して好ましくない不健全なつき合いではないと、夫妻は感じていたらしい。
 葵は彼氏の話になると、恥ずかしがって多くを語ることはなかったらしいが、その表情に翳(かげ)りはなく、そのうち店に連れてくることも約束してくれていたという。
 大学の勉強やアルバイトはしっかりと全力を尽くす子だったので、その恋人となかなか会う時間はなかったようだが、それなりにつき合いを楽しんでいるように見えたと、夫妻は口を揃えて言った。
 そして、美津子夫人はさらに重要なことを思い出してくれた。

「――確定はできないんだけど……葵ちゃんがお付き合いを始めたのって去年の夏の終わり頃だと思うの。その年の夏前くらいに、ここによく来るようになったお客様がいて……若いサラリーマン風の青年よ。……葵ちゃんと楽しそうに話をしていたのを覚えてる。……葵ちゃんは誰とでも仲良く会話するから、その人が特別、というわけでもなかったんだけど、その彼は、葵ちゃんのことをずいぶん気に掛けていたように見えたわ。……その人は一か月くらいして……確か夏が終わる頃に、ぱったり来なくなってしまって。……でも、その頃からだと思うの。葵ちゃんに恋人ができたような雰囲気が出てきたのって……」
「去年の、夏の終わり……ですか。どんな男だったか、覚えていますか?」
「顔は、覚えてる。商売柄、何度か来店してくれるお客様の顔は覚えてしまうから。でも……それ以上は。……ああ、この辺りの住宅街を回るお仕事かもしれないわ。例えば、銀行の営業さんとか、保険会社の人とか……デパートの外商とか。このあたりは高級住宅街だし、そこを回ってうちで昼食をとったり休憩してくれたりする外回りのサラリーマンは、とても多いの。その青年も、そんな雰囲気があったわ」
「そう、ですか……」
 すると、黙って話を聞いていた濱野哲矢氏が、静かに口を開いた。
「水奈瀬さん。……僕もね、この話を聞いた時、とても驚いた。……望まぬ妊娠らしい、と家内から聞いた時は、本当にその相手を殴り倒してやりたいとさえ思ったよ。だからこそ、訊くんだけれどね……、葵ちゃんがつき合っていた人物を探し出して、どうする気だい? 葵ちゃんは……その、妊娠したとわかった時、ものすごく怖れていた。……君に……それからお母様に、知られることをね。たぶん心配させたくなかったんだよ。……今、こうして君が探っていることを、彼女は……」
「大丈夫です。葵には何も言いませんし、責めるつもりもまったくありません。この先自分が何を知ることになっても、葵を悲しませることだけは、しません」

 気遣わしげな濱野氏の言葉に、蓮は静かに笑って見せた。
 濱野哲矢はそれ以上何も言わなかったが、その瞳にはすべてを見透かすような、そしてそれを黙って見守るような、不思議な光があったように思う。
 そうして、また再び葵ちゃんが会いに来てくれるのを待っているから、と言ってくれた夫妻の言葉に深く頭を下げ感謝を述べて、蓮は『敦房』を後にした。
 核心をついた情報ではなかったが、完全に行き詰った蓮にとっては、大きな足掛かりをもらえた気分であった。

 ところが、その日の収穫はこれだけでなかった。
 『敦房』を辞して私鉄線の駅へと足を向けたところで、学生服姿の少年に声をかけられたのだ。――それが、矢沢遼平であった。
 色白でどこか物憂げな雰囲気を漂わせた少年は、蓮に名乗った後「俺、知ってます」と言う。
 あまりにも唐突だったので、蓮は露骨に不審さを露わにしたが、訥々とつとつと語る彼の話は、蓮の形相をさらに険しくさせた。
 濱野哲矢の甥で、葵とともに『敦房』でアルバイトをしているというこの少年、なんと先ほどの蓮と濱野夫妻の会話をこっそり立ち聞きしてしまったという。つまり、葵の秘密が知れてしまったということだ。
 分別のある濱野夫妻とは違い、この少年はまだ高校生。よもや、葵の災厄が世に漏れるような事態になりはしないかと、蓮は敵意にも似た警戒心をむき出しにしたのだが、矢沢遼平は怯むことなく「葵がつき合っていた男と一緒にいるところを、二回ほど見かけたことがあります」と断言した。
 名前は知りません……でも顔はわかります……俺も、そいつを探し出すのを手伝いたい……
 口ごもりながらも切羽詰まったように、必死に迫ってくる彼の様子を見て蓮は、 “この少年、もしかしたら……” という確信めいた予感を抱いた。
 そして、蓮は警戒を解いた。
 おそらく秘密は洩れない、、、、、、、。そしてこの少年は有益だ、、、。――それを拒むのは愚の骨頂である。
 諸々の事情を絶対に口外しないという条件のもと、彼の協力を遠慮なく借りることにして、連絡先を交換し合った。

 そして、事態はさらなる急展開をみせる。
 蓮のもとに青柳伸悟から連絡が入ったのは、それから二日後のことだ。

 伸悟とは、数年前から転職の相談などで時おり会ってはいたが、ここ最近はご無沙汰であった。
 希望通り『SIGMA SPORTS』へ転職が叶った彼は、現在配属先の『御蔵屋百貨店』内のショップで意気揚々と勤務しているらしく、また飲みに行きましょうよ、と屈託なく誘ってきた。
 それに苦笑いしながら、また後日都合がついたらな、と返事を濁し、通話を切ろうとしたところで、伸悟の躊躇ためらうような声が耳に届いた。

『……蓮さん……、もうずいぶん前なんですけど、俺、葵ちゃんを見かけたことがあるんです。なんか深刻な顔をしてたから気になったんですけど、その時は声をかけそびれちゃって。でも、つい先日ですね、ちょっと引っ掛かる話を耳にして、このまま放っておけなくって。……あの、葵ちゃん、元気にしてますか?』

 蓮の直感が、鋭く反応した。
「――詳しく……話してくれるか?」
 蓮の声音に、伸悟は何かを感じ取ったのであろう。電話口の向こうは一瞬静まり返ったものの、すぐに説明がなされた。

『……七月の終わり頃かな……『御蔵屋うち』のメインインフォ……えーと、一階の総合インフォメーションで見かけたんです。そこにいる受付嬢と何やら話をしていたようなんですけど、なんか妙に葵ちゃんの顔色が悪く見えて。……声をかけようとしたら、葵ちゃんはそのまま正面エントランスを出て行ってしまって、すぐに後を追ったんですけど、人だかりで見失っちゃて。……ずっと、それが気になってたんです。……それで俺、お節介なの承知でちょっと調べたんですよ。そしたら、このまま見過ごせないような噂が入ってきて……だから蓮さんに聞いてみようかと、電話したんです』
「見過ごせない、噂……?」
『……葵ちゃん、……不倫とか、してないですよね……?』
「……は? ……何だ、それは……」
『葵ちゃんが話をしていた受付嬢、なんですけど……彼女、婚約者がいるんです。で、その受付嬢が、あちこちに触れまわっていたんですよ。 “私の婚約者に無理矢理付きまとっている女がいる、その女がここまで押しかけて来た” って。どうもそれって、葵ちゃんのことっぽくて。もちろん俺は、葵ちゃんがそんなことするわけないってわかってます。でも、もしかしたらマズイことに巻き込まれているんじゃないか、って心配で。……その受付嬢、ちょっと癖のある女なんですよ。『御蔵屋』の取締役の娘で当然コネ入社、その婚約者っていうのも銀座店の外商サービスにいる男で……』

 ――脳裏で瞬時に濱野夫人の言葉が閃いた。
『――例えば、銀行の営業さんとか、保険会社の人とか……デパートの外商、、、、、、、とか――』
 ……まさか、これが本当なら。

 絶句する蓮の耳に、信じられない話はなおも続いて入ってくる。
『……って言っても、その受付嬢もその婚約者殿も、もう銀座うちにはいないんですけどね。婚約者の男は名古屋本店に異動になって、七月に入った頃には向こうに行ったみたいです。受付嬢も七月いっぱいで寿退社してますね。何でも妊娠しているらしく、そのまま実家のある名古屋に戻ったってことなんですけど……でも、その妊娠話もどうやら嘘だったらしくて……』

 伸悟の声は、今やわんわんと不快な音響へと変化し、蓮の頭蓋骨を打ち付けるようだった。
「……伸悟、頼みがある……」
 ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど上ずっていた。
 まさに連鎖的というか、芋づる式というか。
 一時は四方八方壁に囲まれたかに見えた蓮の探索は、ここへ来て一気に解明の一路が開けた。
 いまや采配の女神は、蓮に微笑むどころか、手を引きその扉の前まで導いてくれていた。

 それからほどなくして、伸悟は蓮の要請通り、どこからか一つの画像を調達してきた。
 何人かが集まった、おそらく飲み会か何かの集合写真。携帯に収まったその画像を送ってもらい、蓮はすぐさま矢沢遼平に確認させた。
 答えなど聞かなくても確信があった。それでも、一つでも多くの証言を集めたかった。
 矢沢遼平が、画像の一点を指差し強い眼差しで頷いたのと同時に、蓮の次なる行動計画が発動した。

 ――その男がいる、名古屋へ向かう。


* * * * *


 二人が乗るミニバンが慧徳学園前駅の前を通り過ぎ、『アーコレード』の店前に着けようとしたところで、そのフロントライトが夜の道に人影を浮かびあがらせた。
 店脇の植え込みがある暗がりの一角で、何やら揉み合う人間たち――蓮は車が停車するや否や飛び出す。

「――萩っ! やめろっ!」
 その声にぱっと振り向いた三人の人物。
 拳を振り上げ今まさに殴りかからんとする萩と、萩を背後から抑えようとする矢沢遼平、そして、萩に胸倉を掴みかかられている細身の男――伊沢尚樹。

「蓮兄っ! こいつだっ! やっぱし来やがったっ!」
 とりあえず離れたものの、萩は今にも噛みつきそうな顔で相手の男、伊沢尚樹を睨みつけている。蓮は身体ごと萩と伊沢の間に割って入って、その目を彼に向けた。
 頬を手の甲で押さえているのは、もうすでに萩が手を出したということか。

「――伊沢尚樹、だな。何の用があってここに?」
 舌打ちしたい気分を堪えて、静かに冷たく問えば、伊沢は一瞬怯む様子を見せつつ、それでも気丈に言い放った。
「葵ちゃんに……彼女に話があってきました。お願いです……話をさせて下さい」
「――っざけんなっ! 今更何の話だってんだよっ! テメェと話すことなんざこっちにはねーんだよ! とっとと帰れ!」
「萩、お前はちょっと黙って――」
「ほ、ほんの少しでいいんです……! 彼女と話を――」
「っるせーんだよっ!」
「……萩っ!」
 蓮を押しのけ再度伊沢に掴みかかろうとする萩を、蓮も遼平も押しとどめようとするが、肝心の伊沢が逃れようとしないせいか、もみくちゃの様相を成す。

「ちょ……っと、待てって……っ! 萩、落ち着けっ!」
「――蓮さんっ? お、おいっ! 萩っ! やめろって!」
 車を駐車して降りてきた伸悟もその乱闘に加わった時、別の声音が、低く鋭くその場を貫いた。
「――店前で迷惑なんだが」

 振り返れば、そこに佇む長身の人物。街灯の明かりに照らされたその姿は、白シャツに黒ベスト、真っ黒なロングサロン……こんな時なのに、蓮は彼から放たれる強いオーラとその風格に、一瞬魅せられた。
「――黒河」
 彼はゆっくりとこちらに近づき、何とも形容しがたい無機質な眼差しで一同を眺めた。
「……ここ周辺は土地柄、警察の巡回強化地区になっている。騒ぐなら他でやってもらいたい」
「悪かった。すぐに――」 
 蓮の言葉を遮るように、伊沢尚樹が突如、黒河侑司に向かった。
「あ、あのっ! ここで、水奈瀬葵という女性が働いているはずなんです! 今日はまだいますか? どうしても会いたいんです!」
「おいっ! てめぇっ! まだ、んなこと言いやがって――」
 再び混乱に陥りそうな場を、鋭く強い声音が制した。
「――申し訳ないが」
 侑司は、ひたと伊沢を見据える。
「それに答える義務はない。この状況を見る限り、正当な面会要請とは考えにくいようだが」
「な、何もやましいことはありません! ただ話がしたいだけなんだ!」
「だからっ! こっちには話なんてねーんだよっ!」
「た、頼むっ! これで最後なんだ……せめて連絡先だけでも教えてください! お願いしますっ!」
「……っ! いい加減にしろ、てめぇ……っ!」
「もう……っ! 萩っ! やめろってっ!」

 萩は懲りもせずまた伊沢に掴みかかり、伸悟や遼平に抑えられた。
 蓮と一瞬、目線を交わした侑司は、その視線を暴れる萩たちに移す。……僅かにうんざりした様子が見えたのは気のせいか。

「……とにかく、ここで騒ぐのはやめてもらいたい。……場所を貸そう。店の中でやってくれ」
 そう言って、侑司はさっさと背を向け、シェード越しに淡い光が漏れている店の中へ入っていった。
「――え? 中に葵ちゃん、いるんじゃ……?」
 伸悟の慌てた声に、遼平がぼそりと小さく答える。
「今日は、もう上がってます。……友達と会うって」
「あ……そっか、よかった。……って、えーと、君……矢沢くん、だっけ?」
「麻実さんと飲むってさ。マジでラッキーだぜ」
「え? 麻実と?」
 次いで萩がつけ加えた言葉に、伸悟は表情を曇らせる。
「……何だろう、今ものすごく、いやーな予感が……」
 呟いた伸悟の言葉は、蓮の耳をすり抜けた。
 侑司の後を追って店へ入ろうとする伊沢尚樹の、そのまとう雰囲気に気を取られた。

 以前、会った時に見た姿――薄弱で打ちのめされ、不甲斐なさしか見えなかった男――とは違う。
 どういうわけか、今、強い意志がそこに感じられて、蓮は眉をひそめた。




 
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