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第1部
動き出す弟、水奈瀬萩
しおりを挟む遡ること数時間――七月第二週の水曜日、午前八時半過ぎ。
西新宿の高層ビル街を抜けたとある場所に、水奈瀬萩はいた。
「へぇ……案外、うちの学校と近いんだな」
目の前にドドンとそびえ立つ『帝都調理師専門学校』――十階建てのオフィスビルのような現代的建造物は、外観とは違いその歴史は国内で最も古く、多くの著名な料理人を輩出してきた名門調理師専門学校である。
正面玄関から少し離れた場所で周囲を確認し、五分程度なら路駐もOKだろうとバイクを停める。朝からしとしとと降り続く霧雨の中を軽く走り抜け、何の躊躇いも遠慮もなくその正面玄関から中に入り込んだ。
――ゴージャスな見た目もアレだが、中身も大したもんだぜ。
萩はキョロキョロと興味深げに、洗練された一階フロアを眺めまわす。およそ専門学校とは思えないエントランスのハイグレード感は、萩の通うリハビリ専門学校にはない、 “格” の違いを感じさせた。
受付らしい窓口で面会を要望すれば、対応してくれた中年の女性は意外にもすんなりと了承してくれた。愛想よくお礼を言って、萩はロビーの壁にある掲示板を眺めつつ大人しく待つ。いくつかの掲示物に興味深く目を通していると、ほどなくして白いコックコートを着た青年が奥の廊下から歩いてくるのが見えた。
色白の肌に細めの体躯、背は175、6くらいだろうか。顔立ちはあまり野郎臭くなく、くっきり二重の瞳と引き結ばれた薄めの唇、どちらかというと童顔可愛い系だ。
直接対面こそしたことはないが、萩は、以前姉の店で見かけたことのあるその人物に間違いないと確信した。
「どーも。初めまして。 “矢沢遼平” くん。授業始まってんのに悪いね」
胡散臭そうな怪訝な顔を隠しもしないその青年に、萩は屈託なく近寄る。
細そうに見えたが、コックコートの袖を捲りあげた遼平の前腕は意外にもがっしりしていることに気づいた。
「オレ、水奈瀬萩。水奈瀬葵の弟。突然押し掛けて悪いんだけどさ、ちょっと相談したいことあんだよね。時間取ってもらえるとうれしいんだけど」
不躾とも厚かましいとも取れる遠慮のない物言いは萩の特性だが、それを不快に思わせない絶妙な愛敬を混ぜることができるのも、萩の無意識の特技である。
とはいっても、万人に通用するわけではなく、眼前の矢沢遼平もあからさまに眉根を寄せて警戒心を露わにした。
しかし、「葵のことで」という一言をつけ加えると、遼平は「……わかった」と頷き、今日の授業終了後、バイトに行く前少しの時間なら、という返事をもらった。
――まずは、相棒、ゲット。
萩は心中ニヤリと笑んだ。
* * * * *
――それから十時間後。
「――あ? 蓮兄、早いじゃん。今日イベントがあったんじゃないの?」
濡れた髪もそのまま、首にタオルを引っかけただけの上半身裸で萩がキッチン下を漁っていると、兄の蓮が帰宅した。
珍しく、まだ夜の七時前といった時刻である。
「……ああ、昼過ぎに雨で切り上げ」
「へぇ、決断早いね。でも正解だよ。夕方頃、すっげー降ったもんなー。中道の高架下とか浸水して通行止めになっててさ、オレ、帰ってくるのにチョー遠回りしたもん。……なぁ、この辺に “ささみの燻製” 余ってなかったっけ」
「……ささみ? それより先に頭拭け。見苦しい」
「そこは、風邪引くゾ、じゃねーの?」
「お前が引くかよ」
手厳しいお言葉を身に受けながら、萩は密かにほっと胸をなでおろす。……怒ってねーみたいだな。
自分勝手な行動で青柳伸悟に迷惑をかけ、兄にお小言をもらったのは十日ほど前のことだ。
子ども扱いされているようで我慢ならず、完全逆切れという、むしろガキっぽいザマを見せてしまい、その後少々後ろめたい思いもしていた。だが、忙しすぎる兄とは再び話をする間もなかった。
あれから久しぶりに兄と顔を合わせたが、特に怒りの兆候はなさそうだ。萩の直情的な性分は充分すぎるほど熟知している兄なので、萩がついぶつけてしまった心の叫びも軽くあしらわれてしまったのかもしれない。
至って真剣に喚き散らした本人としては、まったく気にされていないというのも面白くないのだが、九つ離れた社会人の兄に向かって同等に扱えと訴えるのは無理がある。まぁそれも仕方ねーかと肩をすくめる余裕も、今はある。
――今日の萩は、一味違うのである。
萩がこっそり様子を窺い見る間に、蓮は手に持った荷物をどこか上の空でダイニングテーブルの脇へ置き、冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。そしてプルタブを開けながらダイニングチェアに、これまたボーっとした様子で腰を下ろし、そのまま口をつけゴクゴクと煽った。
萩はキッチンのシンク下にしゃがみ込んだまま、ポカーンと兄を見上げる。
「珍しー。グラス使わねーの?」
「……ああ、そうか……忘れてた」
半ば放心したように、蓮は手に持ったビール缶に視線を落とす。
――何だ何だ? 忙しすぎてボケたか。
「ナニ、どうしたの。蓮兄こそ風邪でも引いたんじゃねーの? 忙しすぎんだよな、蓮兄んとこ。スポーツメーカーってみんなそんな感じ?」
首を傾げつつも、萩はキッチン下戸棚奥の探索を再開する。
――あっれー、母さんが送ってきた “ささみの燻製” の詰め合わせ、まだ何本か残ってたと思ったんだけど。
デカい図体を丸めてゴソゴソ漁っていると、あからさまな蓮の溜息が落ちた。
「……お前、こないだ全部、食ってなかった?」
「えぇっ、オレ? 全部?」
「散乱した小袋と空き箱を、かき集めて捨てた記憶がある」
「マジか……オレ、食っちゃったか……あれの柚子胡椒味、チョー旨かったんだけど」
「自分が食ったものくらい覚えておけよ……ちなみに、俺は黒胡椒味一本しか食ってないからな」
ほんの少し恨めし気に聞こえる兄の呟きを、萩は「ちっきしょー、ツマミがねぇじゃんよー」とぼやくことで誤魔化した。
しかし兄を誤魔化しても、物足りない空腹感は誤魔化されない。これからレポートを手掛けなきゃならないのだ。そのエネルギー源として、ビールとちょっとばかしのナニかを腹に収めたいところなのだが。
夕方あたりから激しさを増した、あまりの土砂降り加減に、どこかによって食料調達する余裕もなく全身ずぶ濡れの状態で帰宅した。ついさっき、シャワーを浴びてやっと人心地ついたのに、この雨の中再び出掛けるのはかなり面倒臭い。
「買い置きしていたカップ麺は一昨日、全部食っちまったしな……っ、――ってぇっ! ……っくっそ、何だよこの角ジャマだなー」
カウンター上の食器棚の角に頭を打ち付けた。エサを探し求める熊のごとくキッチン内をウロウロすれば、当然そうなる。食う物がないという非常事態、萩は冬眠前の熊以上に必死なのである。
すると、「ああ、そうだ」と何かに気づいたらしい蓮が、テーブルの下に置いてあった荷物を探り始めた。差し出されたのは白いビニール袋に入った何か。
「腹減ってんなら、食っていいぞ」
「ナニこれ……ぉあっ! 『香苑』の点心じゃんっ! 何だよ早く言えよー、やったぜツマミゲット」
途端に声を弾ませた萩に、蓮はイタイものを見る顔をした。……フン、ほっとけ。
『香苑』とは、この近所にある小さな中華料理店だが、安い割には美味い。最近はあまり行かなくなったものの、以前はよく利用していたのだ。母が宮崎に移住した当時、蓮や葵が忙しくて夕飯準備に手が回らなかった時など、兄や姉の許可の元、担々麺や五目チャーハンなどの出前を取ったものだ。
この点心パックは出前だけでなく持ち帰り客にも重宝される一品で、一パックに小籠包、海老蒸し餃子、ふかひれ餃子が二個ずつ入っているのだ。三兄妹弟の中では特に葵がよく好んで食べていたのを思い出す。
萩はパックごとレンジに入れて温めボタンを押した。そして、キッチンに置いてあった飲み途中の缶ビールを一気に飲み干すと、もう一本冷蔵庫から取り出す。
「お前テスト期間なんだろ? 酒もバイトもほどほどにしとけよ?」
「はっはー、余裕だし。あ、それよりさ、オレ、来週から葵んちに泊まり込むから」
「――は?」
――ピロリンピロリンピロリロリン。
蓮の間抜けな声と、電子レンジの温め終了メロディが重なった。
弾むように駆け寄って電子レンジからパックを取り出せば、行儀よく並んだ六個の点心が、ホヤホヤと湯気を立てて待っている。
「あぢっ……あっため過ぎたかな……ま、いっか。……だからさ、どうせ今週末にはレポート終わるし、あとはテストがちょろっと残ってるだけだから、葵のアパートからガッコ行くわ。んで、夏休みはほぼあっちにいる予定」
単身者用のアパートはちょっとばかし狭いのが難点だが、あそこはロフトがあるので窮屈感は少ない。それに、葵も萩も日中は仕事にバイトだ。部屋にいる時間は少ないので大丈夫だろう。
萩は箸で掴んだ小籠包を丸ごと一個口に放り込んだ。
じゅっと舌が火傷するような熱いスープがぷりっとした皮を破り出てきて、萩は口の上で転がしながら咀嚼する。
――小籠包、ウマい!
「……何かやるとは思っていたが……」
「ん? はひ?」
大きく嘆息しうんざりしたように頭を抱えている蓮を見つつ、萩は熱い点心と冷たいビールを休みなく口に運ぶ。
蓮もおざなりな感じで缶ビールに口をつけつつ、萩を半眼で見つめる。
「……それで? 大方、危険人物の顔もしっかり認識できたことだし、SP気どりで葵の送り迎えを請け負うって算段か? 来るかどうかもわからない奇襲に備えて?」
そういう言い方をされると、まさにその通りな萩にしては少々ぐっと詰まる。
ただ、最後の “来るかどうかもわからない” という部分だけは反論したい。己の勘を信じるが故だ。
萩は頬張った点心を飲みこみ、手に持った箸と不敵な眼差しを同時に、蓮へ向けた。
「絶対に来るね。オレの勘は外れない。あいつは葵とヨリを戻したいんだ……面と向かう度胸がねーからってネチネチ姑息な手段取りやがって……でももうそれも終わりだ。そのうち電話も着信拒否にするらしいしな。繋がらない電話に焦れて、あいつは絶対葵に接触してくる……そん時はオレが奴を返り討ちにしてくれるわ!」
ドンッと缶ビールをテーブルに叩きつけたつもりだったが、ほぼ空だったそれは、カコンッ、といささか間抜けな音を立てる。
それはさて置き、さすがは我が兄。萩がわざとらしく忍ばせたいくつかのキーワードに、冷ややかな眼をキラリと鋭く光らせた。
「ちょっと待て。……何だ、その姑息な手段とか、着信拒否とか」
「……へぇ、蓮兄、やっぱり知らなかったんだな~」
得意げに顎を上げて横目で兄を流し見る。
いつもこの兄から聞かされることばかりで、自分で何かを仕入れてひけらかすことがなかった萩だ。なのでここはもう少し焦らして、この兄に対しては滅多に味わえない、 “優越感” とやらに浸りたい。
萩は、もう一本だけな、と自分の中だけで許可を出し、冷蔵庫から缶ビールを出して再び兄と向き合った。
「今日、遼平と会って話したんだ」
「遼、平……?」
「矢沢遼平。蓮兄も知ってるだろ? 葵の店で働いてるオレと同い年のやつ」
「……店に行ったのか?」
「いや? 学校まで会いに行った。前に葵から『帝調』に通ってるって聞いてたからさ、今朝、学校まで行ってアポ取って、んで夕方会ったの。西新宿のマックで。……ああ、『帝調』ってオレの学校から結構近いんだよなー、蓮兄知ってた?」
「……で、その話の内容は?」
「聞きたい?」
「とっとと話せ」
眇めた眼にほんの少し上がった顎……ちぇ、この顔する蓮兄、こぇんだよなー。
「……わかったよ、話せばいーんだろ……ったく、いつも蓮兄に焦らされるオレの気持ちもわかれってんだ……で、何だっけ? ……あ、そうそう、葵の店に最近、無言電話が入るんだと」
「無言、電話……?」
「そう、むごーんでんわ。もう、かれこれ一か月くらい前から……って言ってたか。今のところは週に三、四回程度らしいけど、これ以上増えるんなら、店の電話で着信拒否の設定をするって話が出てんだって。遼平の話では、誰が出てもすぐに切れちまって、男か女かもわからないってことだけどさ、オレの勘では絶対にあいつの仕業だと……――蓮兄? 聞いてんの?」
「あ? ……ああ、聞いてる……」
顔はこちらに向けているが、視線がどこか遠く虚ろになっている兄の様子に、萩は怪訝な声を出す。
「んだよ、反応薄いな。いいか? あの男が未練たらしく葵の店に電話して来てんだよ、間違いない。葵はあの後、携帯も変えたし他に連絡手段はないだろ? だから今、葵が勤めている店にかけてくるしかないんだよ。……ったく、完全にストーカーだぜ、あの野郎……もし葵に接触してきたら今度こそ、オレがボッコボコにして警察に突き出してやる……! ……蓮兄? 何だよ、やっぱ聞いてねーじゃん!」
せっかく手に入った貴重な情報を知らせてやったというのに、蓮はついにあらぬ方向を見つめて何やら一人考え込んでいる。
萩は何だか肩すかしをくらった気分で、がつがつと残りの点心を口に押し込み、缶ビールを流しこんだ。
思ったより兄が食いついてこないのは面白くないが、萩はこれこそ求めていた “情報” だ!と確信した。今日の夕方、この話を矢沢遼平から聞いた時、絶対にあの男の仕業だ、と思ったのだ。
あの男が東京に戻ってきて早四ヶ月以上が経っている。奴はとうとう、葵の居どころを突き止めてしまったのだ、と。
そもそも萩が今日、矢沢遼平に会いに行ったのは、葵の身辺警護に関する協力者を得るためであった。
十日前、萩は『御蔵屋百貨店』にて、ついに目当ての人物とすれ違い、その顔をしっかりと記憶した。これで葵をストーカー野郎の魔の手から守ってやれる、と意気込んでSP計画を練ったのだ。
だが、いざボディガードを気取っても、葵には仕事があり萩にも学校やバイトがある。夏休みに入ればいくらかは暇になるが、それでも四六時中姉と一緒にいるわけにはいかない。
もしあの男が、例えば日中、葵の店に現れたとしたら……?
萩にはどうにもできない。その事実さえ知ることができない。
曲がりなりにも、デパートマンであるあの男にだって仕事があるのだろうから、日中よりも夜に接触してくる可能性の方が高いが、万全を期すに越したことはない。
自分の目が行き届かない時間、葵の身辺に気を配ってくれる、口の堅い信用のできるヤツがいれば……
そこで萩がパッと思いついた人間――それが、矢沢遼平だった。
矢沢遼平という人物は、葵の店でコックをしているアルバイト青年で、年は萩と同じ二十一歳。なんと、葵が短大生の頃アルバイトをしていた『敦房』でも一緒に働いていたというのだから、それだけ葵との付き合いは長い。
萩は、今日まで遼平と直接対面したことはなかったが、実はまったく知らない人間ではない。
四年前、兄の蓮が葵の仇を取るべく “極秘追跡調査” を続けていた時、この矢沢遼平にもほんの少しだけ手を貸してもらったという経緯がある。
事情が事情なだけに、兄も萩も、伸悟以外の第三者を介入させるのは不本意だったのだが、遼平はなんと、あの男の顔だけは、知っているという “キーマン” であった。
萩は兄から、『矢沢遼平という青年の証言が得られれば、伸悟の調査結果の確固たる裏付けになる。だから彼にも協力してもらうことにした。……ただし、深く詮索をしない、という条件付きだ。矢沢遼平には、重要なことは何も、明かしていない』と聞かされている。
当時は、見も知らぬ男を巻き込んでこれ以上厄介なことになったらどーすんだよ、とヤキモキした萩だったが、今現在に至るまで、彼が厄介事の種になったような話は聞いていない。むしろ、姉の葵は、同じ店で働く矢沢遼平のことを時々話題に出し、弟のように可愛がっている節さえある。邪険にされがちな実の弟が言うのだから間違いない。
かくして萩の直感は、矢沢遼平なら大丈夫だ、と告げていた。
今日の夕方、ファーストフード店で遼平と会った萩は、前置き無しですぐさま本題に入り「葵の、昔の男が戻ってきた」と告げた。それだけで、矢沢遼平は驚いたように目を見開き、次いで苦悶にその表情を歪ませたのだ。コイツも葵を傷つけたあの男に対して、自分と同じように許せない感情を持っているんだなと、単純な萩は、素直に納得した。
葵と接触する恐れがあり、どうしてもそれを阻止したい、という自分の強い決意にも共鳴してくれた。そんな遼平を、意外と正義感のあるやつなんだなと、単細胞な萩は、素直に感心する。
デリケートな事情が絡むため、どうあっても “SP計画” は内密に進めたい。矢沢遼平なら、あれこれ嗅ぎ回ることもなく、あちこちに吹聴することなく、黙って着実に任務を遂行してくれるだろう。
思い詰めたような表情の遼平を見つつ、ポテトの残骸をまとめて口の中に押し込みながら、やっぱしオレの勘は正しかったなと、デリカシーのない萩は、一人満足感に浸ったのである。
ちなみに、無言電話の件を聞いたのはその時だ。遼平は、あの男かどうかはわからないけれど、と言っていたが、タイミングよく手に入った有力な情報に、萩のモチベーションが俄然燃え上がったのは当然至極のことだと言えよう。
萩は最後の海老蒸し餃子を口に放りこむと、空になったパックを耳障りな音とともに潰し、シンク脇のゴミ箱に突っ込んだ。
「あー……ウマかった。……だからさ、来週からしばらく葵のアパートに泊まるっつーことでよろしく。遼平も時間の都合がつく限り協力してくれるってさ。これで葵が一人っきりになることもなくなるし、とりあえずストーカー予防にはなるだろ。……あ、蓮兄は遼平に会ったことあるんだよなー。オレ、初めて話したけど、結構いいやつなのな。……あんまりしゃべんねーけど」
矢沢遼平は、萩が十を話すに対し一か二だけ返す程度の寡黙っぷりだったが、その瞳は印象的だった。真っ直ぐ相手を見ることのできるその澄んだ双眸を、萩は嫌いではないと思った。
信用しても大丈夫だと、萩の論理的根拠ゼロな本能が告げていた。
――ただ、一つだけ気になることが、あるといえばあんだよな……ま、大したことじゃないけど……いや、大したことなんかな……
三本目の缶ビールも空にして、萩はちらりと眼前で思考中の兄を窺い見る。
――あいつ…… “葵” って呼んだんだよな、葵のこと。…… “水奈瀬さん” でも “店長” でもなく…… “葵” ……だからナンなんだって話だけどさ……
姉は子供の頃から何かと下の名前で呼ばれやすい傾向にあるらしく、あまり “水奈瀬さん” と呼ばれることはなかったようだ。
そういう萩も、 “姉ちゃん” とか “姉貴” とは呼んだことがない。特に理由はなくいつの間にかそうなっていたし、別に誰からも(親からも)咎められたことはなかった。
蓮のことは “蓮兄” としっかり敬称(?)をつけているのだが、これは懇意にしている青柳家の影響らしい。しかし “葵姉” は呼びづらいので、幼い頃の自分がそう呼ばなかっただけかもしれない。
かくいう萩も、 “水奈瀬” ではなく “萩” と呼ばれることが格段に多い。年上年下関係なく。だからまぁ、姉が名前で呼ばれていても、そんなもんかな、としか言いようがないのだが……
――何となく、引っかかる。
「なぁ、蓮兄……もしかしてさ、遼平って……」
問いかけた言葉は、ふと顔を上げ焦点をしっかり合わせてきた蓮の鋭い視線で遮られた。
「――萩、さっきお前……葵の店にかかってくる無言電話は、一か月くらい前から、って言ったよな?」
「あ? ……ああ、そーだよ? 六月の初め頃からって、遼平は言ってたけど……それがどーかした?」
「他に何もないのか? ……不審な人物が店を訪ねて来たり、うろついていたり……」
「いや、遼平はそんなこと言ってなかったぞ? 無言電話だけで今のところ他に被害はない、って言ってたし。ナンで?」
「……違う……」
「は? ナニが?」
小さく呟いた蓮は、萩の不可解な顔に構わず、再び空を見据える。
ナンなんだよまったく……萩は鼻を鳴らしながら、空になったアルミ缶も派手な音を立てて潰した。
……ま、いっか。兄の論理的思考はどうあがいても萩が感知できる代物ではない。自分のようなタイプは、考えて考えて考え抜いた挙句に行動しても、九割九分残念な結果に終わるのがオチだ。……だったら。
――本能の命ずるまま、己の勘が告げるままに、動くのみ。
「よっしゃ、腹も膨れたことだし……んじゃオレ、レポート仕上げっから」
立ち上がった萩に、蓮は「……ああ」と上の空で返し、「飲んだのにレポートか?」と付け加える。
そこはしっかりツッコむんだな、と鼻にシワを寄せ、萩は自室へ向かった。
そして三十分後――
スマホをどこかに置き忘れたことに気づき萩がダイニングに戻ると、蓮は既にリビングへ移り、こちらに背を向けたソファに座っていた。何やらボソボソ声が聞こえる。
なんだ電話中か、とすぐに悟って、ダイニングテーブルのど真ん中に置きっぱなしになっている端末を手にし、戻ろうと踵を返した時、それは耳に届いた。
「……ああ、早々に悪い。……どうも気になることがあってな。……いや、そのことは妹から聞いたよ……ああ、そこまで酷くはなかったようだ。大丈夫だろう……」
――誰だ? 伸悟さんか? ……いや、伸悟さんと話す時は、葵のことを “妹” って、言わねーよな? ……ヒドくはなかった……って、ナンだよ。
「……実はちょっと訊きたいことがある。……ああ……できれば直接会って話したい。……妹のいないところで。……わかった……空いてる日は……ああ……まぁな……そういうお前だって、休みらしい休みもないんだろう?」
――なんだ……? 誰だ……? 葵のいないところで……? 誰に、何を訊こうってんだ……?
気になってついその場に立ちつくしていたが、蓮はそんな萩に気づいたらしい。こちらに一瞥をくれた後すぐに「じゃあまた連絡する」と言って通話を終えた。
「誰、今の」
思わず咎める声を上げると、蓮は何も答えず小さく頭を振った。
そしてソファから立ち上がり、ダイニングに置きっぱなしになっている荷物を手にまとめる。部屋に戻るその去り際、突っ立っていた萩の肩を一つ、叩いた。
「……萩。葵のアパートに行くのは反対しない。……が、軽はずみな行動はするなよ? 葵に余計な心配をかけるような真似は、絶対にするな。わかったな?」
「……しねぇよ……」
小さな子供に言い聞かせるように、もう一度ポンと肩を叩き、蓮はダイニングのドアから出て行った。
……するわけねーだろ……と、静かに閉まったドアに向かって舌打ちする。
――準備万端、意気揚々な自分が、ナンだか幼稚に思えて、面白くない。
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