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第1部
葵の半休(お届けもの編)
しおりを挟む【From】麻実ちゃん
【Sub】ごめんねぇーー!!
===================
こないだはごちそーさま!(ニコ顔のネコ)
カニコロ、ホントに美味しかった♪
あのクリィミィさがタマラン!!
ワインもサイコー!!(赤面したクマ)
また食べに行くからねっ!
ところで。
今朝、片倉さんから聞いたんだけど!
あやつめー、アタシの眼を盗んで葵に
ちょっかい出しやがったんだって?!
(怒り顔のウサギ×三匹)
ちゃんと、メッ!って叱っておいたから!
葵、お仕事は無理しちゃダメよ。
適度に頑張れ~
(旗振る黒い生物)(動くハート)
========END========
ラッシュ時を少し過ぎたJR線の車内の中で、葵は青柳麻実からのメールを受信した。
可愛いデコ文字をあしらった麻実らしい文面に、思わず吹き出しそうになりつつも、口元を引き締め携帯を操作して、ただ名刺をもらっただけだから心配は無用であること、麻実が来てくれて嬉しかったこと、そして大してワインは飲んでないでしょ、という突っ込みも交えつつ、簡単に返信した。
* * * * *
怒涛のGW休暇が明けた次の週開け月曜日の今日、葵は午前中に半休をもらい、午後からの出勤となった。
そこで、『アーコレード』恵比寿店の店長にお届け物がてら、目星をつけてあった恵比寿周辺の洋食屋でランチでもしようかと、私鉄とJRを乗り継いで恵比寿に向かっている最中である。
電車から降り人溢れる改札へ向かう途中、先ほど突っ込んだばかりの携帯がバッグ越しに着信を知らせたので、葵は人混みを避けて取り出した。
――画面の名前は “青柳麻実” 。
「もしもし」
『葵ー! 今へーキ?』
「麻実ちゃん、どしたの? 今さっきメール返したよ?」
『うん、見た……どーもしないんだけどさ、元気かな、と思って』
「えー何それ。変なの。こないだ会ったばっかりでしょ」
ふふ、と笑いながら軽くぶつかってしまった人に頭を下げた。手にある紙袋には二冊の大判本が入っている。なかなか重たいので、電話しながらの移動は一苦労だ。
『そーだけど。……ねぇ、葵? ……葵は今、好きな人、いないの?』
らしくない、いつになく神妙な声音で問うてくる麻実の言葉に、葵の足は止まった。
咄嗟に言葉が出ない葵に、麻実は気遣わしげに続ける。
『……今朝さ、片倉さんが葵のこと聞いてきたから、まさかと思ったんだけどね、結構マジらしくてさ。軽いように見えるけど悪い人じゃないんだよ? それでもアタシは葵の気持ちを大事にしたいから、その、強引なことはしないでって言ったんだけど……でも、もし葵にその気が少しでもあるなら……その、……葵?』
「……あ、うん、聞いてる。ありがと麻実ちゃん。でも、私今ホントにそれどころじゃなくて。片倉さん……だっけ? 仕事が忙しくて大変なので……って感じで伝えといてくれるかな。ごめんね」
『そっか……うん、わかったよ……あ、そーだ! 昨日なんだけどね、偶然、れ――……ん? ……何? ……ちょっと待って、わかったってば……』
「――麻実ちゃん?」
どうやら同僚に呼ばれたらしい麻実は、葵との通話もそのままに、声高にあれやこれやとやり取りしている。……麻実らしい。
『葵ー! ゴメン、トラブったらしい』
「フフフ、いいよ。仕事頑張ってね」
『また電話するからーっ!』
悲壮な叫びを残して、慌ただしく通話が切られる。
葵は携帯をバッグの中に落として二冊の本が入った重い紙袋を持ち直し、一呼吸整えてからまた歩き出した。
――『好きな人、いないの?』
麻実がこんなことを尋ねてくるのは珍しい。ここ数年の間では初めてのことではないだろうか。もしかしたら、葵の気づかないところで、彼女なりに気を使ってくれていたのかもしれない。
末っ子の割には面倒見が良く、近所の遊び仲間の中でも姉御肌だった麻実だ。自由奔放で大雑把な性格だが、意外と人情の機微に鋭い所もある。
加えて、小さい頃からそれこそ本当の姉妹以上に慕い合ってきた仲だ。葵が恋愛から遠ざかっていること、いや、故意に避けていることに気づいていてもおかしくはない。
葵が短大生の時に付き合っていた人のことを、麻実は知っているし、別れてしまったことも知っている。そして別れた後、葵が心身共にやられてしまったことも知っているし、それ以降誰とも付き合おうとしないことも知っている。
――でも。
麻実も知らないことが、ある。
もう四年近くも前のことだ……今更話すことでもなく、できれば胸の奥底に封印したままにしておきたい。信用していないわけじゃない。できるなら吐露してしまいたい気持ちもある。
しかし、すべては今更なのだ。
麻実が知れば、きっと葵のために憤慨し、知らなかった自分を責めるだろう……
「ごめんね、麻実ちゃん……」
掠れた声で漏れ出た呟きは、人混み合う駅前の雑踏に中に消えていった。
* * * * *
『アーコレード』恵比寿店は、駅前の商業施設が集まる区域から離れた、落ち着きのある住宅区域に店を構えている。
恵比寿店は、外装内装ともに慧徳学園前店と少々雰囲気を異にしており、同じウッディ調でまとめてあっても色味は深く、慧徳がアンティーク風だとするなら、恵比寿はモダンな印象だ。
立地の関係上、自然光が多く望めない代わりに照明にはこだわっていて、昼でも落ち着いたムードある空間が、若年層から壮年層まで幅広く好評を博しているようだ。
しかも、ダイニングスペースは慧徳学園前店の三倍は広く、『アーコレード』渋谷店に負けずとも劣らない売り上げを維持し続けている――社内でも期待度高い黒字店舗なのである。
葵は、何度か来たことのある従業員用入り口から入り、事務所となっている奥のドアをそろりと開けた。
「お疲れさまでー、……す……」
慧徳よりも広い割には雑多としているその事務室の片隅のデスクに、恵比寿店店長、諸岡良晃の姿を認める。――と同時に、目に入った見覚えのある広い背中。
諸岡と一緒に振り返ったその人――黒河侑司は、僅かに目を見開いて葵に視線を返した。
「おー、お疲れー。どーしたの?」
手に持ったバインダーをデスクに置いて、諸岡は嬉しそうな表情で葵を迎えた。
侑司と対照的な “笑い目” の諸岡は、葵の前に、慧徳学園前店の店長を担った人だ。
葵よりも三年先輩の彼は、細身でなで肩の体躯にいつも微笑んでいるような表情なのでつい気を許してしまうが、実はなかなかの策士であることを葵は知っている。
諸岡が慧徳学園前店の店長をしていたのはオープンから約一年間だけだったが、実はちょうどその時期、恵比寿でも人員不足が深刻だったため、彼は慧徳と恵比寿を行ったり来たりする日々であった。
当時、葵は自分のことに精いっぱいで、彼の苦労を慮ることまで気が回らなかった。今思えば、休み返上で二つの店を行き来するのは想像以上に大変であっただろう。
しかし、諸岡は泣きごと恨みごと一つ言わず、また新人の葵に偉ぶることも当たることもなく、杉浦とともに店舗管理と経営に関するノウハウを丁寧に教えてくれた。
かなり急ピッチで叩きこまれたのは、今思えば、葵のスキルアップ次第で恵比寿に戻る、ということにでもなっていたのかもしれない。
かくして、葵が店長に上がり、諸岡が恵比寿の店長に昇格となった今も、たまに慧徳へ顔を出してくれたり、月会議で都合が合えば一緒に昼食を取ったり、と、『アーコレード』渋谷店の牧野や『櫻華亭』麻布店の大久保同様に、葵の良き相談相手となっているのだった。
葵はニコニコしている諸岡に、持ってきた紙袋を差し出した。
「お届けものです。これ、納品先がうちと間違っていたらしくて」
中身は《ワイン名鑑》と《銘酒事典》、二冊の大判本だ。一年に一回発刊される洋酒のカタログ本で、国内メジャーどころの企業が出すワインやリカーなどが、ほぼ全て掲載されている。その年のワインの出来や、世界ワイナリー情報なども載っているため、強制ではないが店舗ごとに取り寄せることが推奨されている。
「えー、間違い? 何だろ」と、首を傾げる諸岡に紙袋ごと差し出しながらも、葵の意識は何となく、部屋奥のデスクにいる黒河侑司に向かっていた。
彼は結局、あの怒涛のGWの中日以降、慧徳学園前店に来ることがなく、こうして顔を合わせるのもその日以来だ。
「あれー、水奈瀬ー、杉さんからこれ、慧徳にあげるヤツって言われなかった?」
「えっ! そうなんですか?」
ガサゴソと紙袋の中を覗いた諸岡が呆れたような声で言ったので、葵の浮遊していた意識はグイと戻された。
「今年のやつ、うちでダブって発注しちゃったんだよね。そしたら杉さんが、じゃあ慧徳にあげてよ、って言うから転送したんだよ。そっちはまだ発注してないでしょ?」
「あ、はい……うちは来月するつもりだったので。でもおかしいな……これが届いた時、杉浦さんに電話で確認したんですけど、『それ恵比寿のだから後で返しておいてー』って言ってたんです。だからてっきり、うちに間違ってきたものだとばっかり」
葵が説明すると、諸岡は「忙しすぎてワケわからなくなってんじゃない? あの人」とニコニコしながら呆れた。
「……確かに、わからなくなってるな」という低い呟きに振り返ると、デスクの侑司がパソコン画面と手元の書類を見比べている。
「ほら、これだ。日付と見積額が全く違うから変だと思ったんだよ」
差し出された書類を受け取った諸岡は、パソコン画面と見比べてすぐに「あ! 数が違う! これ渋谷のじゃん!」と叫んだ。
「え……ここに渋谷の発注書があって入力もされているってことは……まさか渋谷にうちの分が……」
「可能性大、だな」
「……ヤバいですよ……うちは納品日まだ先だからいいけど、渋谷は間に合いますかね? 数もうちより多いんですよ?」
「確認してみるが……発注分の納品数が無理なら、最悪何日か分はスタッフ総出で包装しなきゃならないな。……どっちにしろギリギリだ」
そう言いながら、侑司は胸元から携帯端末を取り出し素早く操作して耳に当てた。
「あーあー、杉さんにしては珍しい凡ミスだな……牧野さん火ぃ噴いて怒りますよ……」
諸岡はぼやきながら、デスクに戻って後日発注分を確認し始める。
するとその脇で、携帯を耳に当てたまま侑司が「……一度丸焦げになればいい」と小さく呟いたので、背後で聞いていた葵は思わず吹き出してしまった。
「……ん? 何?」
諸岡には聞こえなかったようで、細い糸目のままきょとんと首を傾げる。
「い、いえ……」
葵は軽く咳き込んで笑いを押しこみ、電話が通じたらしい侑司は、素知らぬ顔で相手と話し出した。
侑司の、普段よりほんの少し柔らかい低い声に、何となく気を取られていると、諸岡がホッとした様子で戻ってくる。
「よし……あとの分は問題ないみたいだ……マジで焦った……」
「それって……今度するイベントの記念品ですよね? 渋谷七周年、恵比寿五周年の」
「そうそう、今度の記念フェアのやつ。うちも渋谷もノベルティは結局焼き菓子にしたんだけどさ、その数がメチャメチャ多くて。で、包装だけは外注しようってことになったんだよね」
「え、包装だけ外注とか、できるんですか?」
「うん、できるよ。うちで作った焼き菓子を引き取りに来てくれて、個包装されたものが戻ってくるの。お金かかるけど、店でする余裕ないからね」
「それはすごく便利ですね」
慧徳店の三周年記念で配ったノベルティ(記念品)も、店オリジナルの焼き菓子で、全部スタッフ総出で小箱に詰め包装した。恵比寿店や渋谷店に比べればはるかに少ない数だったが、それでも相当大変だったのを思い出す。
「俺も今年初めてその業者を知ったんだ。で、杉さんが発注書をFAXしてくれたのはいいんだけど……引き継ぎでバタバタしていた時だったから」
でもまさか発注ミスとはね、と、苦笑する諸岡に、葵も眉尻を下げた。
「うちはいいんだよ、まだ先だから。ヤバいのは渋谷の方。場合によっては……スタッフ全員ハリツケかも。杉さん怨まれるだろうね」
「でも……杉浦さん、かなり大変そうですよ?……こないだの電話でも死にそうな声出してましたし……」
「いよいよ『紫櫻庵』のオープン準備が大詰めだからね……でも杉さんなら大丈夫だよ。あの人、上手ーく抜きどころを知っているから」
諸岡の言う意味が痛いほどよくわかる葵は、またもや笑ってしまう。
確かに、杉浦の調子の良さと要領の良さはしっかり見てきた。昨年末の繁忙期には、ランチタイムの忙しい時間帯にもかかわらず、裏の事務所で堂々と仮眠をとっていた人だ。その代わり、夜のディナーはかなりの稼ぎ頭になってくれたのだが。
「……ああ、そうそう、名鑑の話だったね。……ということなので、その二冊は慧徳の分。支払いはこっち持ちでいいよ。……っていうか、重たいやつわざわざ持って来て大変だったのに、ごめんね。こっちから配送する?」
そう言う諸岡の優しい言葉に、葵は「とんでもない」と首を振った。
「大丈夫です。私、力だけはありますから」
にっこり笑って紙袋を受け取る葵に、諸岡は「そうだったね」と尤もらしく頷いた。
「じゃあ、うちでランチして行く? 好きなのご馳走するよ?」
「あ、いえ、今日は行ってみようと思うお店があって。去年の暮れに新しくオープンした洋食屋さんで、代官山近くにあるらしいんですよ。……知ってますか?」
葵がその洋食屋の名前を告げると、諸岡は細い眼をさらに細めて頷いた。
「ああー、知ってる。でも、大したことないらしいよ、高い割に」
「ええっ? ホントですか」
「俺は行ったことないけど、こないだバイトの子が行ってきたって報告してきたんだよ。ドミソースも缶っぽい味がするって言ってたし、意味もなく高級食材を入れてるみたいだし……立地柄仕方ないのかもしれないけどね。ネットの書き込みサイトでもイマイチな評価が多いみたいだな。ま、それら全部に信憑性があるかどうかは別だけど、ね」
「そうですか……」
少なからずも膨らませていた期待感は、急速に萎んでいった。
まぁ確かに、誰かに美味しいと聞いたわけではなく、雑誌の “NEW OPEN!” という小欄に載っていたのを見ただけだし、 “洋食レストラン” という看板につい惹かれたことも否めないが。
――本日のランチ、他を当たるかな……。
ガックリ項垂れる葵を見て、諸岡は「余計なことだった?」と相変わらずニコニコ。
「だからうちで食べていけばいいのに」
「うー……どうしようかな……」
葵が迷っていると、「店長、予約のお客様が表にいらっしゃってるんですけど……」と、アルバイトらしき女の子が事務所にひょっこり顔を出した。どうやら大人数のパーティー予約打ち合わせらしく、諸岡とアルバイトの女の子はフロアに出ていってしまった。
恵比寿店はこういった貸切宴会予約も珍しくなく、予約が取れればまとまった売上が望めるので、なかなか大口の店内予約が取れない慧徳学園店から見れば羨ましい限りだ。
いいなぁ……と思いつつ、後ろ姿を見送って何気なく振り返った時、いつの間に電話を終えたのか、こちらを見ていた侑司と視線がばちっと合ってしまい、思わず葵は身体をほんの三センチほど身を引いてしまった。
「じ、じゃあ、私は……そろそろ……」
急にドキドキしてきた、何故だろう。やはり今日はさっさと退散しよう、と、手にした荷物を持ち直した時――、
「水奈瀬」
「は、はい?」
「裏口出て右の、大通りに出る手前のコンビニで待ってろ」
バサバサとデスク上の書類をさばきながら、すでにパソコンに向き合っている侑司をポカンと見つめていると、侑司は顔だけこちらに向け「十分で行くから」と言う。
「は、い……」
葵はつい、反射的に返事をしてしまった。
――私、また、何かやらかしたっけ……?
侑司の一挙一動に、どうも己の行いを自己省察してしまう癖のついた葵であった。
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