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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
応接室を後にして、来た道のりを戻っていく。
(エラに話をするのは、どのみち公爵家に戻ってからね。とりあえず手紙を書いて安心させなくちゃ)
そんなことを考えているうちに、再び長い階段までやってきた。ドレスを着ていると下り階段は、昇り以上に難易度が高い。長い上ゆるく膨らんだスカートのせいで、足元がまるで見えないのだ。
もの言いたげなジークヴァルトを前に、素知らぬふりでひとり階段を降りようとする。
「待て。オレが先に行く」
ジークヴァルトは数歩降りると、リーゼロッテを振り返った。スカートをつまみ上げて、リーゼロッテもそれに続いた。昇るとき以上に慎重に足を進めるが、ロッテンマイヤーさん直伝の足さばきをもってすれば、階段くらいなんてことはない。
しかし、ジークヴァルトは数段降りるたびに、いちいちこちらを振り返ってくる。降りては振り返り、降りては振り返り、ハラハラしてる感が伝わりまくりだ。
(かえってめっちゃ降りづらいんだけど……!)
「あの、ヴァルト様……わたくし、本当に転げ落ちたりいたしませんから」
あきれたように言うが、ジークヴァルトの眉間のしわは解けない。
「万が一ということもある」
あきれつつも、何事もなく階段を降り切った。すかさずジークヴァルトがホールドしてくる。
(まあ、しばらくは仕方ないのかも……)
あんなことがあった後では、心配性が落ち着くまでに時間がかかるだろう。自分が日常生活そつなくこなせることが分かれば、ジークヴァルトも今よりましになるに違いない。しかし、このやり取りは一生涯続くことになる。そんなこと、よもや予想もし得ないリーゼロッテだった。
「フーゲンベルク公爵」
不意に廊下で貴族と思しき年配の男に呼び止められる。
「ブラル宰相」
「騎士服でないのはお珍しいですね。こちらのご令嬢はもしや……?」
リーゼロッテを見やり、男は紹介を促すようにジークヴァルトに尋ねてきた。
「こちらは宰相を務めているブラル伯爵だ」
ジークヴァルトにそう言われ、リーゼロッテは慌てて礼をとった。
「リーゼロッテ・ダーミッシュでございます。お初に目にかかります、ブラル伯爵様」
「やはり、あなたがダーミッシュの妖精姫でしたか。いや、わたしの娘も先日、白の夜会でデビューしたもので。当日、ご挨拶ができなくて失礼しました」
失礼も何も、途中で帰ってしまったのはこちらの方だ。リーゼロッテは慌てて首を振った。
「いいえ、こちらこそご挨拶が遅れて申し訳ございません」
軽く礼をとった後、ブラル伯爵の顔を改めて見やった。たれ目だ。めっちゃたれ目だ。
(アンネマリーもたれ目気味だけど、この方はもう一度見たら忘れられないレベルだわ)
吹き出しそうになるのを何とか堪えた。人様の顔の造作にケチをつけるなど、人としてどうかしている。
「おふたりは婚約関係にあるとお聞きしましたが、それは本当のようですね」
ニコニコ顔で言われ、リーゼロッテの頬が朱に染まる。返答に困っていると、ジークヴァルトが口を開いた。
「ダーミッシュ嬢との婚約は王命だ」
「なるほど。マルグリット様にそっくりなご令嬢だと思ったら、王のご意向でしたか。わたしごときが詮索する話ではなさそうですね」
うんうんと納得したようにブラル伯爵は頷いた。ジークヴァルトの対応を見ると、ブラル伯爵は龍の託宣の存在を知らないのだろう。
「いや、それにしてもよかった。フーゲンベルク公爵にこんなに愛らしい婚約者がいると知り、わたしは安心しましたよ」
何度もうんうんと頷いているブラル伯爵は、本当に安堵している様子に見える。
「いえ、我が娘イザベラが、フーゲンベルク公爵の元へ嫁ぎたいなどと我儘を申すもので、ほとほと困っていたのですよ。何せ年を取ってから授かった娘なもので、甘やかして育てすぎてしまったようです。いや、お恥ずかしい限り」
たれ目をさらにたれさせている伯爵は、本当に娘のことが可愛くて仕方ないのだろう。
「ですが、公爵のお相手が妖精姫と知れば、イザベラも納得せざるを得ないでしょう。いや、本当によかったよかった」
再びうんうんと頷いたあと、ブラル伯爵はジークヴァルトを仰ぎ見た。
「ああ、それと執務のことで、公爵に火急のご相談が……」
そう言いながらリーゼロッテをちらりと見やる。仕事の話をしたいので、席を外してほしいということだろう。
「ジークヴァルト様、わたくし先にひとりで……」
「ダメだ、却下だ。絶対にオレのそばを離れるなと言っただろう」
間髪入れないその返しに、ブラル伯爵が驚いた顔をした。
「あの、でしたら、少し離れたところで待っておりますわ」
つかまれている手を離そうとすると、ジークヴァルトがぎゅっと握り返してくる。
「ダメだ。ダーミッシュ嬢はここにいろ」
「ですが……」
ブラル伯爵も困った顔をしている。執務に関することを部外者に話したくないのだろう。一国の宰相が急ぎというなら、いらない手間をかけさせるのはどうかと思う。
「あの、ヴァルト様……責任をもってお仕事なさっている殿方を、わたくし、とても尊敬いたしますわ」
そう言いながら小首をかしげる。あどけない子供のまなざしを意識して、きらきらと期待に満ちた視線を向けた。
ジークヴァルトは一瞬眉間にしわを寄せてから、「そうか」と言って顔をそらした。
その手が緩んだ隙に、リーゼロッテは廊下の端に移動した。ここなら異形もいないし、往来の邪魔にもならないだろう。ジークヴァルトの目の届く位置にいるし、ふたりの会話も聞こえない距離だ。
「絶対にそれ以上離れるなよ」
くぎを刺すように言うジークヴァルトに、リーゼロッテは「もちろんですわ」と微笑み返した。
しばらくふたりの会話を遠巻きに眺めていた。端々で聞きなれない単語が耳に入ってくるが、専門用語過ぎてリーゼロッテにはまるで理解できない。時折、ジークヴァルトが心配そうにこちらを振り返る。そのたびにリーゼロッテはにこりと笑みを返した。
(ジークヴァルト様って、案外表情豊かよね。それに、すごくわかりやすい性格だわ)
はじめは無表情に見えたその顔も、今では何を考えているのか容易に想像がつく。子供だと侮られているうちに、どうにか主導権を握ってしまいたい。
そんなことを考えているうちに、話に熱中しだしたのかジークヴァルトがこちらを振り返ることがなくなった。それがわかるとリーゼロッテは、王城の廊下をきょろきょろと見回した。
少し離れた柱の陰に、異形の影が垣間見える。その異形からはぼそぼそと何かを話すような波動が感じられた。しかし、それはリーゼロッテに訴えているというより、ひとり内にこもってぶつぶつとつぶやいているようだった。
(ジョンも初めはあんな感じだったっけ)
めそめそと泣くジョンの声は、聞き取りづらいものだった。何度も通ううちに、少しずつこころがほどけていって、ジョンはリーゼロッテに意識を向けるようになった。少しずつ、少しずつ、ジョンが心を取り戻していく様を、リーゼロッテはそのそばでずっと見守ってきた。
(ジョン……)
切ない気持ちに捕らわれたまま、リーゼロッテはしばらくの間、柱の陰の異形の者をぼんやりと眺めやっていた。
ふいにぶつりと音がして、しゃらりと何かが首元をすり抜けた。驚いて足元を見やると、胸に下げていたはずの守り石が床を転がっている。
(いけない! 守り石が……!)
あれがないと異形を追い払うこともままならない。かがみこんだリーゼロッテは、あわてて守り石へとその手を伸ばした。
つかみかけた守り石がぴょんと跳ね、リーゼロッテの手を逃れていった。それをまた追いかけてつかみ取ろうとすると、磁石が反発するがごとく、守り石はどんどん先に転がっていく。
(え? 何? ちょっと待って!)
つかんでもつかんでもこの手は空を切ってしまう。チェーンを引きずりながら転がっていくその先に階段を認めて、リーゼロッテはほっと息をついた。階段下まで跳ね出た守り石は、しかしカエルのごとくぴょんぴょん跳ねて、段差をそのまま昇っていく。
(え? 嘘? なんで!?)
重力を無視した跳躍に、リーゼロッテは夢中になってその後ろを追いかけた。スカートをつまみ上げ、必死にその後をついていく。階段を昇り切ったすぐ先の床に、守り石がぽつんと落ちている。それを認めたリーゼロッテは、淑女のたしなみも忘れてそこへと駆け寄った。
素早い動きですくい上げ、青い守り石を胸元でぎゅっと握りしめる。
(よかった……)
ほっとしつつもどうしてこんなことになったのかと、今さらながらに疑問が湧いてくる。しかし、今はそれどころではないと、すぐに気づいた。随分とジークヴァルトから離れてしまっている。
(まずいわ! 早く戻らなきゃ)
ジークヴァルトが話に夢中になったままでいればいいのだが。自分があの場にいないことが知れたら、ジークヴァルトの過保護加減がさらに悪化するのは目に見えている。
応接室を後にして、来た道のりを戻っていく。
(エラに話をするのは、どのみち公爵家に戻ってからね。とりあえず手紙を書いて安心させなくちゃ)
そんなことを考えているうちに、再び長い階段までやってきた。ドレスを着ていると下り階段は、昇り以上に難易度が高い。長い上ゆるく膨らんだスカートのせいで、足元がまるで見えないのだ。
もの言いたげなジークヴァルトを前に、素知らぬふりでひとり階段を降りようとする。
「待て。オレが先に行く」
ジークヴァルトは数歩降りると、リーゼロッテを振り返った。スカートをつまみ上げて、リーゼロッテもそれに続いた。昇るとき以上に慎重に足を進めるが、ロッテンマイヤーさん直伝の足さばきをもってすれば、階段くらいなんてことはない。
しかし、ジークヴァルトは数段降りるたびに、いちいちこちらを振り返ってくる。降りては振り返り、降りては振り返り、ハラハラしてる感が伝わりまくりだ。
(かえってめっちゃ降りづらいんだけど……!)
「あの、ヴァルト様……わたくし、本当に転げ落ちたりいたしませんから」
あきれたように言うが、ジークヴァルトの眉間のしわは解けない。
「万が一ということもある」
あきれつつも、何事もなく階段を降り切った。すかさずジークヴァルトがホールドしてくる。
(まあ、しばらくは仕方ないのかも……)
あんなことがあった後では、心配性が落ち着くまでに時間がかかるだろう。自分が日常生活そつなくこなせることが分かれば、ジークヴァルトも今よりましになるに違いない。しかし、このやり取りは一生涯続くことになる。そんなこと、よもや予想もし得ないリーゼロッテだった。
「フーゲンベルク公爵」
不意に廊下で貴族と思しき年配の男に呼び止められる。
「ブラル宰相」
「騎士服でないのはお珍しいですね。こちらのご令嬢はもしや……?」
リーゼロッテを見やり、男は紹介を促すようにジークヴァルトに尋ねてきた。
「こちらは宰相を務めているブラル伯爵だ」
ジークヴァルトにそう言われ、リーゼロッテは慌てて礼をとった。
「リーゼロッテ・ダーミッシュでございます。お初に目にかかります、ブラル伯爵様」
「やはり、あなたがダーミッシュの妖精姫でしたか。いや、わたしの娘も先日、白の夜会でデビューしたもので。当日、ご挨拶ができなくて失礼しました」
失礼も何も、途中で帰ってしまったのはこちらの方だ。リーゼロッテは慌てて首を振った。
「いいえ、こちらこそご挨拶が遅れて申し訳ございません」
軽く礼をとった後、ブラル伯爵の顔を改めて見やった。たれ目だ。めっちゃたれ目だ。
(アンネマリーもたれ目気味だけど、この方はもう一度見たら忘れられないレベルだわ)
吹き出しそうになるのを何とか堪えた。人様の顔の造作にケチをつけるなど、人としてどうかしている。
「おふたりは婚約関係にあるとお聞きしましたが、それは本当のようですね」
ニコニコ顔で言われ、リーゼロッテの頬が朱に染まる。返答に困っていると、ジークヴァルトが口を開いた。
「ダーミッシュ嬢との婚約は王命だ」
「なるほど。マルグリット様にそっくりなご令嬢だと思ったら、王のご意向でしたか。わたしごときが詮索する話ではなさそうですね」
うんうんと納得したようにブラル伯爵は頷いた。ジークヴァルトの対応を見ると、ブラル伯爵は龍の託宣の存在を知らないのだろう。
「いや、それにしてもよかった。フーゲンベルク公爵にこんなに愛らしい婚約者がいると知り、わたしは安心しましたよ」
何度もうんうんと頷いているブラル伯爵は、本当に安堵している様子に見える。
「いえ、我が娘イザベラが、フーゲンベルク公爵の元へ嫁ぎたいなどと我儘を申すもので、ほとほと困っていたのですよ。何せ年を取ってから授かった娘なもので、甘やかして育てすぎてしまったようです。いや、お恥ずかしい限り」
たれ目をさらにたれさせている伯爵は、本当に娘のことが可愛くて仕方ないのだろう。
「ですが、公爵のお相手が妖精姫と知れば、イザベラも納得せざるを得ないでしょう。いや、本当によかったよかった」
再びうんうんと頷いたあと、ブラル伯爵はジークヴァルトを仰ぎ見た。
「ああ、それと執務のことで、公爵に火急のご相談が……」
そう言いながらリーゼロッテをちらりと見やる。仕事の話をしたいので、席を外してほしいということだろう。
「ジークヴァルト様、わたくし先にひとりで……」
「ダメだ、却下だ。絶対にオレのそばを離れるなと言っただろう」
間髪入れないその返しに、ブラル伯爵が驚いた顔をした。
「あの、でしたら、少し離れたところで待っておりますわ」
つかまれている手を離そうとすると、ジークヴァルトがぎゅっと握り返してくる。
「ダメだ。ダーミッシュ嬢はここにいろ」
「ですが……」
ブラル伯爵も困った顔をしている。執務に関することを部外者に話したくないのだろう。一国の宰相が急ぎというなら、いらない手間をかけさせるのはどうかと思う。
「あの、ヴァルト様……責任をもってお仕事なさっている殿方を、わたくし、とても尊敬いたしますわ」
そう言いながら小首をかしげる。あどけない子供のまなざしを意識して、きらきらと期待に満ちた視線を向けた。
ジークヴァルトは一瞬眉間にしわを寄せてから、「そうか」と言って顔をそらした。
その手が緩んだ隙に、リーゼロッテは廊下の端に移動した。ここなら異形もいないし、往来の邪魔にもならないだろう。ジークヴァルトの目の届く位置にいるし、ふたりの会話も聞こえない距離だ。
「絶対にそれ以上離れるなよ」
くぎを刺すように言うジークヴァルトに、リーゼロッテは「もちろんですわ」と微笑み返した。
しばらくふたりの会話を遠巻きに眺めていた。端々で聞きなれない単語が耳に入ってくるが、専門用語過ぎてリーゼロッテにはまるで理解できない。時折、ジークヴァルトが心配そうにこちらを振り返る。そのたびにリーゼロッテはにこりと笑みを返した。
(ジークヴァルト様って、案外表情豊かよね。それに、すごくわかりやすい性格だわ)
はじめは無表情に見えたその顔も、今では何を考えているのか容易に想像がつく。子供だと侮られているうちに、どうにか主導権を握ってしまいたい。
そんなことを考えているうちに、話に熱中しだしたのかジークヴァルトがこちらを振り返ることがなくなった。それがわかるとリーゼロッテは、王城の廊下をきょろきょろと見回した。
少し離れた柱の陰に、異形の影が垣間見える。その異形からはぼそぼそと何かを話すような波動が感じられた。しかし、それはリーゼロッテに訴えているというより、ひとり内にこもってぶつぶつとつぶやいているようだった。
(ジョンも初めはあんな感じだったっけ)
めそめそと泣くジョンの声は、聞き取りづらいものだった。何度も通ううちに、少しずつこころがほどけていって、ジョンはリーゼロッテに意識を向けるようになった。少しずつ、少しずつ、ジョンが心を取り戻していく様を、リーゼロッテはそのそばでずっと見守ってきた。
(ジョン……)
切ない気持ちに捕らわれたまま、リーゼロッテはしばらくの間、柱の陰の異形の者をぼんやりと眺めやっていた。
ふいにぶつりと音がして、しゃらりと何かが首元をすり抜けた。驚いて足元を見やると、胸に下げていたはずの守り石が床を転がっている。
(いけない! 守り石が……!)
あれがないと異形を追い払うこともままならない。かがみこんだリーゼロッテは、あわてて守り石へとその手を伸ばした。
つかみかけた守り石がぴょんと跳ね、リーゼロッテの手を逃れていった。それをまた追いかけてつかみ取ろうとすると、磁石が反発するがごとく、守り石はどんどん先に転がっていく。
(え? 何? ちょっと待って!)
つかんでもつかんでもこの手は空を切ってしまう。チェーンを引きずりながら転がっていくその先に階段を認めて、リーゼロッテはほっと息をついた。階段下まで跳ね出た守り石は、しかしカエルのごとくぴょんぴょん跳ねて、段差をそのまま昇っていく。
(え? 嘘? なんで!?)
重力を無視した跳躍に、リーゼロッテは夢中になってその後ろを追いかけた。スカートをつまみ上げ、必死にその後をついていく。階段を昇り切ったすぐ先の床に、守り石がぽつんと落ちている。それを認めたリーゼロッテは、淑女のたしなみも忘れてそこへと駆け寄った。
素早い動きですくい上げ、青い守り石を胸元でぎゅっと握りしめる。
(よかった……)
ほっとしつつもどうしてこんなことになったのかと、今さらながらに疑問が湧いてくる。しかし、今はそれどころではないと、すぐに気づいた。随分とジークヴァルトから離れてしまっている。
(まずいわ! 早く戻らなきゃ)
ジークヴァルトが話に夢中になったままでいればいいのだが。自分があの場にいないことが知れたら、ジークヴァルトの過保護加減がさらに悪化するのは目に見えている。
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