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魔眼使いの第二王子に溺愛された、元アサシンの女の苦悩

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 目下、隆盛を極め、向かうところ敵なしの「帝国」。ゆえに侵略をくり返し、ゆえに時に意欲的な反感を買う。ネッサは帝国に反旗を翻す小国において、暗殺者の職にあった。ネッサを鍛えたのは老人だ――ケリーという。ケリーは暗殺部隊を預かる身であり、現役時代はその途方もない実力とえげつないやり口から「闇夜のケリー」と称され、他国からそれはもう恐れられた。晩年を迎え育成の任に就いたわけだけど、ケリーは厳しかった。天才を嫌い、凡才を恐れた。何物にも代えがたいのは努力だと定義するような古いタイプの人物だった。凡才の極み、努力のヒト。その最たるニンゲンがネッサだったらしい。事あるごとに「水になれ」と説かれたことは忘れようもない。水。優しく流れることもできるし、強く打ちつけることもできる。

 水になれ、ネッサ。
 ほんとうに、何度そう告げられたことか。

*****

 ネッサは常に何かを憎んでいた。一番憎々しく思っていたのはつくづく冴えない家庭環境だ。母にネッサを孕ませ、孕ませただけで、父は失踪した。たったそれだけのことだったのに、男なんて他にいくらでもいるのに、言ってみれば穢れを知らなかったらしい母は精神を病み、まるで恍惚を患ってしまったかのように、徐々にではなく一瞬で、えらくおかしくなってしまった。男性を見るとパニックに陥ってしまう。だから外に出ることなどできず――だからネッサが養っている。べつにそれは苦ではないけれど、母の弱さは時に辛辣さをもってネッサに問いかける。「もうほうっておけばいいのではないか?」と。

 でも、そう簡単に割り切れてしまうようであれば、それは親子と呼ばないだろう。


*****

 仕事を仰せつかった。帝国臣民の心の拠り所でもある第二皇子をれとのお達しだ。やれやれ、ようやくか、と――。くだんの男――スパイクは、「帝国」の軍事部門のトップだ。彼をれば、横柄な帝国を中心とした殺伐とした支配のバランスは崩れる――とは誰もが考える。だからこそ、ネッサなのだ。あらゆる経験を積み、数々の実績を残したネッサだからこそ、いざ切り札として投入されるのだ。奴隷による一撃が最も恐ろしい。その旨、その胸に刻んでやる。せいぜい思い知れ――。


*****

 決行の日、朝から師のケリーとアルコールをあおっていた。夜は仕事だ。だから朝からなのである。行きつけの大衆的な酒場で、大将はネッサたちの職を知っている。大将に「『闇夜のネッサ』、今夜も仕事かい?」と訊ねられ、ネッサは「そうよ」と答えた上で――ネッサの口は唐突に、「帰ってこられないかもしれない」などと弱気な一語を述べた。きょとんとなった大将だ、「おまえさんに限って、それはないだろう?」と軽い調子で笑った。ああ、そうだ、そのとおりだ。ネガティブになるなんて、まるで、てんで、らしくない。

「一応、訊くさ。誰を殺すんだ?」
「それがな大将、帝国のスパイク殿下なんだよ」

 師――ケリーの返答に、大将はまた目を丸くした。「ああ、そうか」――口に出しはしなかったが、そんなふうに納得したような節があり、すると大将は何も言わず、店で一番高いウイスキーをビールジョッキにどぼどぼ注いで振る舞ってくれた。ケリーは苦笑したのだけれどネッサはありがたく頂戴、一気に飲み干した。いわゆるザルだから、味がついているだけで水とそれほど変わりがない。それでも悦を期待した。――多少、酔いに任せる格好のほうがさらりと任務に打ち込めるだろうということもある。そのへん含め、わたしはわたしだ。ネッサは軽快に、そして冷静に、事の完遂を決意した。


*****

 どう攻略しようかと考えたわけだけど、正面から飛び込むことにした。というより、そうするしかなかった。城と言うより塔、だ。幾重にも織られた螺旋階段をくるくる上った頂上に第二皇子のスパイクはいるのだという。だから、下から順繰りに攻めるしかない。いくら凄腕だと言ったって、空を飛ぶことはできないのだから。

 かつて師――ケリーに教えられた。
 成功の確率が最も高い暗殺の手段とは何か。
 頭を捻るネッサに、彼は「片道切符だよ」と簡単に言ってくれた。

 だけどそれは事実だから、ネッサは今夜も生還を顧みない。


*****

 塔のてっぺん――部屋の前に立った。途中、おかしなことがあった。上階に進むにつれ、むしろ警備のニンゲンが少なくなったのだ。ただ、途中で悟りもした。「ああ、噂の第二皇子さまは自信過剰なんだな」と。

 両手にナイフを携えたまま、両開きの扉を背で一気に開け一気に押し入った。前を向き、その刹那、拍子抜け――否、正しくは目を疑った。第二皇子に違いない人物は大きなベッドの上で身体を起こし、優雅に顎に手をやり、殊の外、柔らかな視線をこちらに向けたからだ。話のとおり、二十代のなかば、五、六と言ったところだろう。艶やかな黒い前髪は長く、瞳の色も漆黒――恐ろしいまでの美男だ。並の女なら一目でうっとりとなるに違いない。でも、こちとら根っからのアサシンだ。ネッサなる女はヒトをあやめるために、ここにいる。

「やあ、ようこそ。絶世の美女と言ったところか。名を聞かせてもらえないだろうか」

 とんでもない軽口を叩かれてしまったので、唖然となった、頭にもくる。
 舐められている。
 だから奥歯を噛み締め、「殺す……っ」と飛びかかろうとした。

 刹那、その黒い瞳に、刺すような赤い光が宿った――ように見えた。

「スパイク・ジ・オブライエンだ。我が名において、動くなと命じる」

 途端、いっさい、身動きがとれなくなった。
 目を見開き――まるきり動けないことに驚く、びっくりする。

 魔眼。
 その意味を理解した瞬間でもあった。

 スパイクが近づいてくる。磔にされたような格好のまま身動きできないネッサの前まで来ると、皮肉るように歪んだ笑みを浮かべてみせた。癪に障る。なんて邪な笑顔だろう。

「お察しのとおり、これが私の力だ。どうだ? 少々、反則だろう?」

 ネッサは悔しくて悔しくて、もう生きていたくないから、「殺せっ」と、なかば声を荒らげた。

 この男は最低だ。邪悪に世を牛耳り、悪意で支配するために生まれたようなニンゲンだ。多くのヒトの敵だ。でも、具体的に言うと、それ以上に――。

「ああ、きみは私のことを女性の敵であるように思っていないかね?」

 そのとおりだから、心をしっかり持ち、強い目をする。
 ますます笑みを深めるから、この男はほんとうに気味が悪い。

「それは違うと謳いたい」スパイクは両手を広げ、「それは違うんだ」とくり返した。「しかし、それもまた事実なんだよ」と意味不明なことをしつこくくどくのたまった。

「おまえは『魔眼使い』なんだろう。その力は相手に絶対遵守を強いること。だから、わたしはこうして――」
「そうだ。私にあるのは、瞳に宿す赤い光を根拠としたパーフェクトなそれだ。だから、きみはこうして動けないでいるわけだ」
「だろうが」口は動くので、目一杯、ネッサは強く言ってやる。「いいから殺せ。おまえの顔は、もう見飽きた」
「おやおや、まだ出会ったばかりだというのにね。ところで」
「なんだ?」
「だから、きみは美しい」

 ……は?
 自身の目は点になったことだろうとネッサは思う。

「な、何を言っている」
「言ったろう? 絶対遵守の力だと」

 嫌な予感がした。
 だからネッサは咄嗟に「やめろぉぉぉっ!!」と絶叫した。

 スパイクは微笑んだ。

「美しいきみを伴侶としたい。請け負ってくれるね?」

 ネッサは目眩のような気持ち悪さの中――何も答えることができなかった。これが強制的に自我を歪められるということか。そんなふうな妙に説得力がある実感が、斧の力強さをもって、得られただけだった。


*****

 ネッサは不自然なほど自然にスパイクの嫁になった、なってしまった。「帝国」とはなんだ? いったい、なんなんだ? ネッサの出自――それは秘匿されているだろうが、にしたって、ぽっと出であることに違いはないのだ。そんな女を迎えて問題がないほうがおかしい。にもかかわらず、関係が始まって一週間と経たないうちに妃として公表し、民はその旨を大きな拍手をもって祝ってくれた。大いにレースがあしらわれたひどく薄い白地のドレスをまとわされ、気づけばネッサはいっとうのっぽな城のテラスからみなに向かって手を振っていた。穏やかな表情を浮かべていることが自分でもわかった。背にぞっとするものを感じないなんて嘘だった。魔眼の力を痛いほどに実感させられるとともに、そのたび、ネッサは人知れず、その情けなさに涙した。暗殺者として育てられ、殺すことを生業としてきたのに、今、他人に与えられるままに幸せを謳歌している、しようとしている、しているようにしか見えない自らの人生とはいったいどういうものなのか……。

 あるとき、はっとなった。嘘だ、はっとなることはしきりにあって、思い出すのだ。精神的にも肉体的にも不安定な母はいったい、今、どうしているのだろう。不安で不安で不安だった。脆弱の極みである母のことが心配でならなかった。


*****

 魔眼の力のせいだ、スパイクに強く物を言うことははばかられてしょうがない。だけど、どうしたってやむを得ないことなので、ネッサは彼に、おずおずとではあるけれど、「母はどうしていますか?」と訊ねた。なにせ、ろくに買い物にも出かけられないのが母だ。少しでもあいだを開けてしまうと、単純に飢えてきっと死んでしまう。正直にそう、訴えたのだった。

 すると、闇の中のベッドにおいて、ネッサの隣で裸のスパイクは「まあ、そうくるだろうね」と笑みを浮かべた。

「母はわたしがいないとダメなんです。わたしが世話をしないと、たとえば餓死してしまうんです」
「もはやその心配はないと言ったつもりだが」
「えっ」

 どういうことですか?
 ネッサはそう訊いた。

「手を回して、手を尽くしてとも言うかな? この国に住んでいただいているよ。きみの意思だとお伝えしている」

 驚いた。
 口がぱくぱくと開くばかりで、ろくに物を発せない。

「そう、なんですか……?」
「明日にでも会いに行くといい。誰もそれを阻まない」スパイクはにこりと笑んだ。「さあ、寝るとしよう。なにせ損な役回りでね。私は明日も早いんだ」

 スパイクはこちらに背を向け、「おやすみ」を言った。すぐに寝息が聞こえてきた。寝つきがいいのはもうわかったし、だったらその隙に乗じて殺してやれば……。

 ……あれ?
 あれれ?

 悪魔の力によって絶対の服従を宣告されたにもかかわらず、自分は当の本人に対して殺意を抱いている。そうである時点で、それは絶対的ではないのではないか? そこにあるものこそ、矛盾と呼ぶのではないのか? ――と、ネッサは考えるわけで……。

 あれ?
 あれれ?

 何度も持ち得た思考に違いないのだ。
 であるのに、それを実行に移さないのはなぜだろう……。


*****

 臣民に「私は無敵であり、不死身だ。誰も私には及ばない」など声高にのたまうことで、彼らを、あるいは帝国を力強く牽引するのがスパイクだ。二週間はかかるだろう。至極現実的な右派メディアのそんな報道を覆す格好で、彼は地方の反乱を三日で収め、帰還した。夜に催された早速の戦勝パーティーにもきちんと顔を出した。ネッサも付き従った。会場の、いっとう高い壇上にて手をつなぎあった夫とともに、参加者にまんべんなく手を振った。無論、穏やかに微笑みながら、だ。

 会場に母がいるのを見つけた。幾人ものおともがいてのことではあるけれど、黒い礼服姿、ちゃんと自分の足で立っている。幾度も大きく頷くことで、ネッサが右手を振るのに応える。先日、「お母さんはもう大丈夫ですからね」と笑っていたことを思い出す。「ずっとそばにいるから」と言うと、むしろ怒られてしまったのだ。「あなたはあなたの幸せを掴みなさい」って。

 なおも手を振る、皇妃にふさわしい笑みだと思う。
 ただ、涙くらいは出た――。


*****

 真夜中。大きなベッドの上で、二人。ネッサはシーツにくるまって横になり、身体を起こしたままのスパイクのことを見上げた。

「綺麗な身体……。ほんとうに、傷一つ、負わないのですね。まるでヒトの完成形」

 スパイクは横目で彼女を見やり、口元に笑みをたたえた。

「気に入らないかね?」
「そうだと言ったら?」
「きみになら、殺されてもかまわないのだがな」
「よく言えたものですね」
「そうだ、きみはそう言うだろう?」
「えっ」

 何を指摘されたのか、それが咄嗟にはわからなかったから、ネッサは目を大きくした。シーツで胸元を隠しながら、ゆっくり起き上がる。

「私の能力の万能性。そこにあるのは絶対性だと思ってはいないかね?」
「違う……のですか?」
「違う。私の能力――魔眼か? それは女性にしか効果がないんだよ」

 そんなこと、前に言ってたっけ……。スパイクは「私の力の本質を、誰も知ろうとはしない」と少し残念そうにした。「得体の知れないことについて、ヒトはみな、臆病なんだよ」とのことだった。

「私は決闘が好きでね。なにより良しとしている。勿論、その相手は男性に限るのだが。裏を返せば、そうすることでしか私は私を証明できないのさ。ネッサ、わかるだろう? 誇り高いきみになら」

 喉の奥につかえるばかりだった、いつか言おう言おうと考えていた言葉が、はっきりしたように思えた。

 確かに、あなたはカッコいい。

 なんだか途方もなく、余計な思いもなく、つまらないまでにそんなふうに感ぜられる。

「スパイク、わたしは妃だというのに、あなたはわたしの裸に触れようとしない。指一本、触れようとしない。どうしてなの? あなたにとって、生きていく中での異性との関わり合いなんて、その程度のものでしかないってこと?」

 スパイクは何もない、暗いだけの天井に目をやった。

「女性はときに、難解な問いかけをするようだ。しかし、それに答えたとして、きみは納得してくれるのかね?」
「上から目線に偉そうな口調、正直、もう、うんざり」
「それは失礼した」高らかに笑ったスパイク。「で、きみは私に何を望むのか。聞かせてもらいたいな」
「質問は一つだけよ。あなたはわたしに、ほんとうに魔眼を使ったの?」
「さあ、どうだったかな」
「答えて」

 スパイクはうっすら笑っている、すなわち、にやけづら。
 なんとも言えない妖しい流し目を寄越してくる。

 からかわれてる。

 それが我慢できなくて、ネッサは襲いかかるようにして、スパイクのことを押し倒した。さっと馬乗りになって、右の拳を振りかぶる。

「いい動きだ。勘もいい。やはりきみは優秀だよ」
「馬鹿にして……。殺しなさいよ」
「なぜだ? 愛しているというのに」
「わたしはそうではないと言ってるの」
「私の魔眼も鈍ったのかね」
「だからっ――!」

 涙があふれる、ほんとうに涙が……。

 愛してる。
 愛している。
 愛してしまっている。
 だけど、それが操られた結果なのだとしたら……。

「聞かせて、お願い……。つらいの、どうしたって……」

 スパイクが上半身を縦にした、見つめてくる。
 なぜだろう、まっすぐな視線に耐えかね、ネッサは顔を覆った。

「過去も現在も重要ではない。論ずるべきは、未来のことだ」
「未来……?」

 両手を解き、顔を晒したネッサ。
 初めてのこと。
 初めて、抱き締められた。
 その上、そっと、キスをされた。

 わけのわからない、いかんともしがたい津波のような、勢いだけは確かなどうしようもない感情が怒涛のごとく胸に押し寄せ――だから、ネッサは涙してしまう。嗚咽まで漏れた。右手で口を押さえても、止まらなかった。

「ろくにヒトに愛されたことがないから、わたしはきっと、怖いの……」
「無礼だな。それは失礼極まりないセリフだ」
「どういうこと?」
「胸に手を当て、きちんと思い返してみることだ。誰にも愛されていないニンゲンなど、この世には存在しない」

 真理を知ったネッサの身体は、疲れ果てたようにスパイクを求めた。
 正面から彼に身体を預け、あらためて抱き締めてもらった。

「きみの匂いがそばにあるなら、私の魔眼も捨てたものではないのかもしれない」

 ほんとうにキザな物言いだ。そんなふうに思うとため息が出て、わけもわからず笑えてきた。途方もなく大きなものだと感じていた穴ぼこのような心の隙間は、案外、簡単に埋まるものだったらしい。

「話は終わりだ」くだんの皇子が囁いた。「天下の帝国だというのに属人化は顕著でね。だから、私は明日も明後日も早いんだ。さて、眠ろう」

 ダメです。
 彼女は笑った。
 彼の耳元で囁いた。

「スパイクさま、お願いです、抱いてくださいませ」

 自身が放った凡庸なセリフにめまいを覚えた。
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