口付けたるは実らざる恋

柊 明日

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1章 覚悟のとき

22話 お薬

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「聖也くん、降りれますか」

 見慣れた建物の前に止まったタクシーの中、相も変わらず車窓を眺める聖也くんへ控えめに声をかける。彼はしばし間を置いた後小さく頷き、財布を取り出した。

「あ、僕もう払ってあります」

 そんな彼の手を掴み、慌てて阻止してそう告げる。
 彼は喜ぶでもなく僕を見て「後で返す」と僕の肩を叩き、自ら車を降りた。

 この感情の分かりにくさは昔からだけれど、でも。なんだか少し気がかりで。とはいえどうしようも無いから、僕もまたそんな彼に続いて運転手さんにお礼を述べてから車を降りようと足を下ろす。

 聖也くんはそんな僕に手を差し伸べて手を握り、顔を覗き込んだ。

「大丈夫?」

 そんなの、と思う。聖也くんの方がよっぽど、大丈夫じゃ無さそうだと思う。握られた手は熱いし、瞳はどこか熱を持った潤み方をしている。
 だから。

「聖也くんよりは」

 そう答えて握られた手を頼りに立ち上がると、今度は僕が彼の手を引いた。背後で聖也くんがふっと笑う。さっきまであんな顔していたくせに。

 本当に、彼が分からなかった。



 そうして少し彼の足元が覚束無いことを口実に手を握ったままに部屋へと向かい、もはや当たり前かのように彼の部屋へと上がり込む。

 玄関には、リビングからにゃーとお出迎えする小春の声が響いていた。

「ただいま、小春」

 彼の握った熱い手がすり抜ける。そして、聖也くんはぶんぶんと足を振って靴を脱ぎすてリビングの扉を開けた。刹那、小春が聖也くん目掛けて飛びつき、頬を舐める。それを受け止めた聖也くんは、「風邪移るから」と彼女を引きはがすが、その表情はどことなく嬉しそうだった。
 やっぱり。僕より小春の方がよっぽど、聖也くんの笑顔を引き出せると思う。
 そう思うとなんだか自分が不甲斐なくて。僕ははぁ、と息をつき彼の脱いだ靴と自分の靴を並べ、彼の隣を通り過ぎた。

「聖也くん、ベッド入っててください。僕ご飯作りますから」
「んー、お腹空いてない」

 彼はそんなことを言いながらも僕の言うことに従い、小春を抱いたままに寝室へと向かった。
 僕だって本当は、お腹なんて空いていないしこのまま聖也くんを眺めていたい。でも。彼氏として、少しでも聖也くんを支えなくてはとその一心で、僕はキッチンへと向かうのだった。




 そうして完成したのは、卵の入った薄味のおかゆ。昔、僕が体調を崩した時にお母さんが作ってくれたもののモノマネだ。
 僕はそれを手に、彼の寝室へ足を運ぶ。そこはしんと静まり返っていて、部屋へ差し込む強い日差しがなんだか異様に思える空間だった。

「聖也くん」

 と、一応彼の名を呼ぶ。しかし、案の定彼からの返答はなく、代わりににゃーと、小春が布団から顔を出して返事をくれた。

「小春じゃないよ」と、ぷっと笑う。

 しかし、小春は布団を出て珍しく僕の方へ寄ってくると、再び僕を見上げてにゃーと鳴いた。なんだかまるで、彼を治してあげてくれとお願いされているような気がする。
 僕は傍のテーブルへ持ってきたおかゆを置いて、彼女の頭を毛並みに沿って優しく撫でた。

「僕じゃ聖也くんを直してあげることはできないんだよ」

 言っていて悔しくなるけれど、それが事実だ。
 彼女は、ただ不思議そうに僕を見上げて再び鳴き声を上げて布団の中へと潜り直すのだった。

 僕も彼の布団に入って眠り直してしまおうかと、一瞬考える。しかし。そういえば、と。僕は踵を返して何となく音を立てないようにゆっくりと扉を閉めた後、静かにリビングへ向かった。



 中央のテーブルには、先程処方された薬が無造作に置かれていた。
 思わずゴクンと、喉がなる。
 何となく、いけない気がした。でも。だからといってこのよく分からない感情のやり場が分からなくて。
 僕はそれを手に取った。

 それはスカスカで軽いくせに、僕にはやたらと重く感じられた。

 中の、何の変哲もない紙切れを1枚手に取り、ゆっくりと引き抜いていく。
 そこには、みなが一度はお目にかかったことのあるような解熱剤、胃腸薬、頭痛止め、などなど。それぞれ作用と副作用、使用容量が記載されている。
 そして。僕は、それらの中でも端に記載された聞き馴染みのない名前の薬へ目を向ける。『トレフルブラン』と。そう表記されたその薬こそ、聖也くんの病気、アムネシア症候群に効くものに違いなかった。
 薬を貰うような進展があったなら、話してくれればいいのにと思う。どうにも僕は頼られていないらしい。

 少々の落胆を感じながら、副作用へと目を通す。そこには、確かにお医者さんの言う通り凄まじい数の症状が羅列されていた。
 頭痛、吐き気、嘔吐、熱発、腹痛、下痢、倦怠感、発疹、食欲不振などなど。なるほど、と。これはお医者さんがオススメしない理由も頷ける。しかし、とも僕は思う。
 副作用はあくまでも副作用なのだから、必ずしも出るとは限らないはずだ。もちろん、作用もしかりだが。
 
 僕ははぁ、とため息だかほっとした息だか分からない息をひとつ。紙切れを袋に戻して、テーブルに置き直した。

 にゃー、と、足元で小春が鳴いた。突然の声にビクッと体が跳ね上がる。
 彼女は、僕の足に擦り寄って尾を立てた。珍しく甘えるその様子が可愛らしくて、ついしゃがみこんで背中へ触れようとし、ふと思い出す。

「……小春、お腹すいたの?」

 そういえば、聖也くんのご飯は作ったが小春のがまだだった。彼女はそうだとでも言うようににゃーと声を上げ、額を僕の足へ擦り付ける。
 現金な猫だ。

「ごめんね、今あげるからね」

 僕はぷっと吹き出しながら、そう言って彼女のご飯を取りに行くのだった。
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