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三空間目
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しおりを挟むやっと部屋に戻れたことへの安堵感はあるが、それよりも貞操の危機の焦燥感のほうが強い。
だってさっきまでのあれは絶対に“そういう意味”が込められている。俺のようなデブが勘違いも甚だしいかもしれないが、身の危険を感じて止まない。
「(……それに、)」
あの時瞑っていた目をチラリと開けて見えたのは…。
…欲に飢えた肉食獣のような獰猛な目。
声だけでは分からなかったが、俺の瞳に映った神田さんの目と口は笑っていなかった。あの表情は真剣そのもので…。
「………っ」
あの時の神田さんを思い出すと今でも震え上がってしまいそうだ。まるで頭から丸ごと食われてしまいそうなそんな感じ。
そういえばこういう話を聞いたことがある。
刑務所など異性が居ない場所で過ごしていると、今まで興味もなかったというのに同性愛に目覚めてしまうと。如何せん身体は正直なのだ。溜まった欲は一人では解放しきれない。
そうなるとその欲を放つ相手は…自然と同性相手になってしまう。
刑務所とは違えど、境遇は此処も似たり寄ったりじゃないか。
同性二人。狭い空間に閉じ込められて。食事中も寝るときもずっと一緒。
……もしかしたら。
俺と神田さんも、その内……。
「……って、いやいやいや!」
有り得ない。有り得ないから。
そんなことが起きるものか。起きてたまるものか!
大体神田さんがもし同性相手でもセックス出来るとして、俺なんかで勃起するとは思えない。さっきのだって俺の思い違いや見間違いに決まっている。
そんな。ねえ?
だってほら。天下の神田皇紀だよ?
「…有り得ないっつーの…」
「何が有り得ないんだ?」
「……!?」
独り言のつもりでボソリと呟いた言葉を拾われておもわず肩が上がるほど驚いてしまった。
もちろん神田さんが居ることは知っている。当たり前だ。だがまだトイレに居るつもりだったのでびっくりした。
「…何を驚いてんだお前は?」
「いや、その…、すみません」
「謝んな。うぜぇから」
「………」
……やっぱり絶対に有り得ないな。
こんな酷いことを言う人とどうこうなるわけがない。
これ以上墓穴を掘らないように、これ以上怒られないように黙っていよう。それが神田さんを苛々させない一番の手であり、そして自分の身を守る一番の方法でもある。
そう決心して沈黙を保とうと決め込んだのだが、神田さんの言葉はそれだけでは終わらなかった。
付け加えるように「それに…」と続けられた言葉に、これ以上何を言われるんだろうと非常に冷や冷やしながら俺は耳を傾けた。
「本当に謝罪すべきなのはそれじゃねーだろうが」
「……え?」
「チッ。忘れてんのか、ボケ」
「え、っ、…え?」
そんな汚い言葉を使うほど怒ってるんですか?どの件について怒っているんですか?
…全然分からないんだけど。
元々からっぽの頭は焦りの所為で、余計にまともな思考に繋がりそうにない。
「……えっ、と」
思い出せそうにないのでとりあえず。
「美形なお方は怒りで顔を歪められても格好良いですね。」とおべっかでも使ってみたら許してもらえるだろうか…?
…いや、多分無理だろう。
「そんな事は言われなくても知ってるんだよ。死ね、デブ」と暴言を吐かれた挙句、殴られて蹴られるのがオチだ。
……ん?
殴られて、
蹴られる……?
「……あ…、」
そうだ。そうだった。
思い出した。
……俺、神田さんの腹を結構強く蹴ったんだった。
そしてそれと同時に、「てめえ後で覚えてろよ」と、耳元で囁かれた言葉も思い出して、俺はサーッと一気に血の気が引く音を感じた。
「お、お腹…、」
「あ?思い出したのか?」
「…は、はい。ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけねーだろ」
「で、ですよね…」
でもあれは正当防衛だったわけで。根本的なことを言えば、神田さんがあのような破廉恥極まりないことをしてこなければ俺も蹴ることなどなかったはずだ。
「………」
だが怒った状態の神田さんにそんなことを告げる勇気は俺にはない。むしろ勇気を出してその事を神田さんに告げても何も変わらないだろう。
むしろ火に油を注ぐだけだ。状況が悪化するのが目に見えて分かる。
「その、ごめんなさい。」
「許さねえ」
頭を下げて精神誠意込めて謝っているのに許してもらえないんだったらどうすればいいんだ。
土下座でもしたら許してもらえるのかな。
土下座の一つや二つでこの件を許してもらえるのならば安いくらいだ。折角部屋に戻って来れたのならば、せめて平穏に過ごしたいのが本音。
今更プライドとか何もない俺は、正座の体勢を取った後、両手を地に付けて頭を深々と下げた。
「もう、二度と逆らいませんから…、許してくださいっ」
男が男にこうして土下座までして誠意を見せているわけだ。
いくら鬼畜で意地悪な神田さんでも、これでもう許してくれるだろう。
「駄目だ」
そう思っていたのだが、神田さんからは何とも無情な一言だけが返ってきた。
…どうやら俺は神田さんの認識を大いに誤っていたようだ。俺が思っていた以上にこの人は「人としての情け」というものを持ち合わせていないらしい。
「じゃ、じゃあ…どうしたらいいって言うんですか?」
さすがの俺もキレた。いや、それでは語弊があるな。
「キレ掛けた」というのが一番正しいだろう。
大体俺は最初から悪くねーもん。悪いのは神田さんじゃんか。
でもそれを言わない俺は超立派な大人。目の前で眉間に皺を寄せて一方的な不満をぶつけてくる年上の人物よりも、よっぽど良識があるはずだ。
「お、俺、お金は…そんなに、ないですよ…?」
「そんな物いらん。癒せ」
「…は?」
金品を巻き上げるのが目的でいちゃもんを付けられているのかと思っていた。だがそうではないらしい。
「癒せ」?何それ?
そんなことどうやったら出来るの?
ファンタジーの世界の住人じゃないよ俺?
RPGの世界ならば手をかざして光のオーラで回復出来たり、技名を唱えて傷を癒したり出来るだろうけれど。残念な事に、現実世界で生きている俺にはそんな高等技術は身に付いていない。
というかそんなことが出来る生き物がこの世界に居るのならば是非とも教えて欲しい。迷惑を掛けない程度に握手をしてもらって、サインを書いてもらいたいくらいだ。
「どうした?出来ねえのか?」
「……っ、」
出来るか!ばかっ!
神田さん程の有名人だろうと、光のオーラを出して傷を癒すことなんて出来ないだろ。それなら一般人以下の存在の醜いデブの俺がそんなことが出来るわけがない。
それを神田さんに訴えたいが、勇気がない俺はとことんチキンでビビリなのだろう。
あー。もう。仕方ない。
馬鹿にされようが知らん。イチかバチだ。
「……あ?」
「し、失礼、します」
俺は正座をした状態のまま、床に付けていた手を上げて、神田さんの腹にソっと触れた。
…………そして。
「い、…痛いの、痛いの…飛んでけー…?」
お決まりのこの言葉を使いながら手を払ったのだが、恥ずかしくて最後の方は聞き取れないくらい小声の上に、疑問形になってしまった。だがそこは見逃して欲しい。
高校二年生にもなってさすがにこれは恥し過ぎる。
いっそ逃げ出したいくらいだ。
「………」
熟した林檎以上に赤くなっているであろう顔を見られたくなくて俯いたのだが、神田さんからの反応が返って来なくて、余計恥ずかしい上に惨めな気持ちにもなってきた。
「気持ち悪い」とか「身の程を知れ」とか「死ね」とか何でも言いから早く反応をしてくれ。
そう思っていると頭上から唸るような神田さんの声が聞こえてきた。
「…か、っ」
「……?」
か?蚊?
「可愛いことしてんじゃねぇ、ボケッ!」
「ッ、いだ…ッ!?」
急に頭部に振り下ろされた拳骨に、危機回避出来るわけもなく、俺は床の上で身悶えた。
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