ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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遅すぎた訃報

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 最初彼女の手紙はミハイルの元へは渡らなかった。

 ミハイルの妻イネッサは仕事を終えた夫を迎えにいく為に、馬車で彼が経営する事業先まで向かっていた。
 いつもなら馬車を手配するだけで済ますのだが、この日はどういう訳かイネッサも馬車に乗った。
 そして到着してすぐ彼の部下から、ミハイルは留守にしているからと、彼の執務室で待つように彼女は案内をされた。
 初めは大人しくソファーに座って待っていたのだが、書類が乱雑に散らばる彼の机を目にして、几帳面なイネッサは堪らず彼の机の上を片付け始めた。

 貿易関係と、最近始めた鉄道事業ーー。
 彼はいつにも増して忙しさに取り憑かれている。
 とある日をきっかけに、特に毎年冬になると、誰の手も付けようがないほどミハイルの心は荒み、こうやって忙しさに身を任せるようになる。
 始めは数年もすれば落ち着いてくれると思い、献身的に支えていたイネッサ。
 しかし、10年以上経った今もそれは変わることはなかった。

 あの日から彼女の名を出すこともないし、傍から見れば良き夫、良き父、良き経営者であるが、イネッサにはミハイルの心の傷が見えていた。
 その傷はどんな奇跡が起こっていたとしても免れない傷であり、彼の自業自得だとも思うのだが、やはりイネッサは二人を憎まざるを得なかった。
 突如現れた、まるで光をまとったかのように美しく着飾る彼女の姿は今でもイネッサの目に焼き付いている。
 例え一時でも、彼が何もかもを捨て、神の意思に背いてまでもあの女を選ぼうとしたその覚悟が、イネッサには憎らしくも羨ましくも思うのだった。

 そんなはるか昔の事を思い出しながらイネッサが書類を片付けている時、ふと一通の手紙が目に入った。
 事業関係ではない、何か私的な手紙だと一発で見て分かった。
 差出人はーーレイラ・カプスチナ。
「レイラ……!」
 その名にハッとしたイネッサは、咄嗟にその手紙を手に取ってしまう。

 しかし運悪くミハイルが部下と話しながら部屋に近づいてくるのが分かったイネッサは、焦ってその手紙を半分に折り胸元に隠した。

「イネッサ」
 その扉が開かれるのと同時にイネッサは僅かに俯き、その焦りを悟られないよう、いつものように口を開く。
「おかえりなさい」

「わざわざ迎えにこなくていいのに」
「ーーーー」
 酷く顔色の悪いミハイルはイネッサの方に目を向けようともしない。
 彼はイネッサが何故わざわざ事業先まで夫を迎えに来るのか、それを分かっていないのだ。

「今夜は冷えるらしい。帰ろう」
 日々の忙しさで疲れたような素っ気ない声色がイネッサの心を締め付けた。
 ーー罪悪感など絶対に抱かない。
 そう決めていたはずなのに、毎年冬が来る度にイネッサは、あの日ミハイルを冷静に責め立て、彼女と別れるよう半ば脅迫のような形で彼に迫った事、そして別れた後の彼の頬の涙の跡を嫌でも思い出すのだ。



 イネッサは家に着いてすぐ手紙の封を切って中身を確認しようとしたが、人としての心を試されているような気がしてどうしても出来なかった。
 自室の鍵のかかった棚にしまい、いつか謝ってこの手紙の事を彼に言おうと思った。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 しかしイネッサはそんな事があった事をすっかり忘れ、いつの間にか季節は巡り、その手紙を隠してから2年が経とうとしていた。
 長い冬も終わりかけ暖かな空気が漂い始める頃、イネッサは娘関係の書類でたまたまその鍵のかかった棚を開ける機会があった。

 そしてその時に見つけるのだーー。
 乱雑に折られた封の切られていない一通の手紙を。

 イネッサは焦った。
 もう2年も経っているからこのまま捨ててしまおうかとさえ思った。
 冬が過ぎ、彼の心も落ち着き始めている。きっとこの手紙は不幸を呼ぶ。そんな気がしてならないのだ。
 しかしそんな感情に逃げるそばでふと気付く。

 ーーあの手紙で不幸になるのはイネッサだけだと。
 そしてあの日から幸せになったのもイネッサだけだと。




 陽の光が雪を溶かし始める暖かい日。
 妻のイネッサから相談事があるからと部屋に呼ばれていたミハイルは彼女の部屋を訪れた。
 ミハイルとイネッサの間には一人娘がいて、その娘がもうすぐ出産を控えているから、その事だろうかーーとミハイルの胸も多少高鳴っていた。

 しかし、イネッサから告げられたのは予想外の事だった。

 イネッサはミハイルの前に差出人が見えないよう一通の手紙を差し出したが、その名を見るより前にミハイルの魂には衝撃が走った。
 確かに知っている、忘れもしない懐かしくも愛おしい筆跡だったのだ。

「どういうことか……説明してくれ」
 ミハイルは怒りに震える声で静かに告げた。
 差出人の名を見せても言ってもいないのにーーとイネッサは軽く嘲笑を浮かべる。
「差出人は、レイラ・カプスチナ。苗字は違いますがきっとあのレイラからでしょう」
「何故それを君が持っている?」
「約2年前……あなたの執務室の机の上で偶然見つけました」
 イネッサの言葉にミハイルは何も返さなかった。
 イネッサはミハイルの表情を伺うが、口は真っ直ぐに閉じられていて、何を考えているのかまるで分からなかった。

「気になって手に取った際にあなたが戻ってきて、咄嗟に隠してしまいました。ーーどうしても言えなかったの。ごめんなさい」

「はーー」
 ミハイルは封の切られていない手紙を握っていないもう片方の手で額をおおった。
 イネッサは彼が涙を堪えているのだと思った。
 このままではミハイルが崩れ落ちてしまう。そう思ったイネッサは心を鬼にし、冷静に告げる。
「やましい事がないのなら、妻である私の前で封を切ってお読みください」

「何かあるわけが無いだろう」
 身に覚えが無さすぎる手紙と、忘れようと押し込んでも忘れることの出来ない懐かしい名前に震えながらも、イネッサの前でミハイルは封を切る。
 そして窓から差し込む光に助けられながら、その文字を目に通した。

 拙かったあの頃よりもずっと美しくなった文字がミハイルの胸を震わせるのと同時に、その綺麗すぎる内容に一抹の不安を覚えていく。
 そしてその感は当たっていた。
 便箋の最後に書かれていたのは彼女の母親からの言葉だったーー。

 しんと静まり返る空間の中、イネッサはただ愕然としていた。昔のように嫉妬が胸を支配していくのが分かった。
 ミハイルの瞳は潤み、静かな涙が頬を伝ってはその便せんを濡らしていた。

 ミハイルとは愛のある結婚ではなかったが、パートナーとしての信頼関係は成り立っていたはずだった。
 誰よりも彼のそばにいて支えてきた。そこには愛より強い信頼が存在していると思っていたのに、それは決して愛には勝てないのだと思った瞬間だった。

 イネッサはミハイルの涙を見た事がほとんど無かった。
 最後に見た彼の涙は10年以上前、あの女と別れた時の涙だ。
 そして再び目にしたその涙ーー。

「どのように、書いてあったのですか」
 その涙の行方を知りたくて、イネッサは思わず口を開いた。ミハイルは鼻声で答える。
「……感謝の気持ちだ」
「何に対する?」
 イネッサは苛立っていた。
 しかしそれ以上にミハイルも心の内では苛立っていた。
「……なぜ。なぜもっと早くこの手紙の事を知らせてくれなかった!」
「えーー?」
「あの時もそうだった。もう今更責めるつもりはないが。…………この手紙を見て複雑な気持ちになるのは分かる。だが……。だがもっと早く俺に伝えるべきだった」
「だからーーこうやって謝っているじゃありませんか……!」
「亡くなった」
「ーーは?」
「レイラが一昨年亡くなった。そのーー手紙だ」
 苦虫を噛み潰したように不快な気持ちをあらわにするミハイル。

 ほんの出来心だった。しかしその出来心はミハイルの胸を引き裂いてしまうほどの大きな罪だったとイネッサは気付いた。
 あの別れは誰が見ても仕方なかった。家の為にもイネッサが強く出ていなければ家庭を守る事は出来なかったのだから。
 しかしこの手紙の件は違う。
 ミハイルの言う通り、もっと早く……いえ、あの手紙を手に取った日に彼に渡すべきだったと、不覚にもイネッサは後悔した。
 そして妻の前で、他の女の為の嗚咽を静かに漏らすミハイルを見て、彼の中でもう二度と、レイラに勝つことは出来ないのだとイネッサは悟った。


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