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しおりを挟む翌朝、アーファ様は朝食の席に現れなかった。酒が残っていて頭痛がひどいらしい。
律儀にも侍従を介して丁寧に謝罪を伝えられた。
アーファ様の乳母だった年長の侍女が「まったく、ぼっちゃんは後先を考えずに!」と憤りながら、二日酔いに効く薬水を煎じて運んでいる。
(何歳になっても子供扱いになってしまうのよね……)
実家にいる私の乳母もあんな感じだった。私の結婚式で人一倍泣いていた姿が、深く印象に残っている。
両親や兄、血の繋がらない乳母も、私の幸せな結婚生活を望んでいるだろう。逆にアーファ様にもそう望む人たちがいるはずだ。
(私から求めた結婚なのに好きだった理由も分からなくなるなんて、不誠実だと責められてもおかしくないわ……)
きちんと彼に向き合えば、恋した理由が思い出せるだろうか。
◇
昨日の朝に考えていた作業へ出かけるため、私は準備を整えることにした。
朝食を終えてから、共に出かける護衛に馬の支度を頼み、厨房へと赴く。
ヒュドル邸内は厨房を含め、あらゆる場所が清潔に保たれている。備品もきちんと磨かれていて古さを感じさせない。
貴族の女主人は屋敷の管理を担うものだが、アーファ様のお母様が亡くなってからも、仕事のレベルを落とさないでいてくれるのはさすがだ。
(アーファ様の管理がいいのかしら……それとも、人柄?)
彼はまだ屋敷内の仕事を私には伝えてこない。
信用がないのか、気遣われているのか、環境に慣れてからと考えているのか。
(離縁を迫る嫁にあれこれ任せられないわよね)
自問しながら心の中で笑う。
厨房に着き、護衛の分も合わせた二人分の昼食を頼むと、料理人たちは張り切った様子で動き始めた。
それからは自室に戻り着替えを済ませ、地図や資料をまとめたメモ書きを鞄に詰め込んでいく。
手伝いの侍女と共に、必要な道具を屋敷内を歩き回って集め、その途中でアーファ様の自室に寄った。
目的地へ立ち入るための許可を得るためだ。
部屋の扉を数回叩いてみたが応答はない。扉には鍵がかかっていた。
「どこに行ったのかしら……」
二日酔いで寝込んでいると思ったが、もう働いているのだろうか。
執務室に向かう途中、前方からアーファ様の乳母だった侍女が歩いてきた。
「アーファ様の体調はどう?」
「少しずつ頭痛も落ち着いてきたようです」
「そう、それはよかったわ。昨夜もたくさんお酒をお召しになっていたのよ。アーファ様はお酒がお好きなのね」
そう伝えると、彼女は驚いたように目を見張り、そして目尻に皺を刻んで微笑んだ。
「普段、旦那様はあまり飲酒をなさいません。こんなにも美しい方を妻に迎えられたのですから、きっと緊張なさっているのでしょう」
どうやら夜の関わりに緊張し、晩酌が進んでいると思っているようだ。
何となく気まずくて言葉に詰まる。
「旦那様は幼い頃から内向的な方なので、気の利いたことを言えないかもしれませんが、とても優しくて頑張り屋さんなのですよ」
「それは――、何となく伝わっているわ」
彼女も私たちの仲が良くないことは知っているだろう。
今がいい機会だと言わんばかりに、アーファ様の良い点を教えようとしている気がする。
「アーファ様を探しているのだけど、どこにいるのか知っているかしら? お部屋にはいないみたいなの」
「それでしたら、おそらく犬舎にいらっしゃいます」
「犬舎?」
「はい。ぜひ行ってあげてくださいませ」
含みを持たせるような言い方をしながら、屈託のない笑みを向けられる。
私は苦笑を返しつつ彼女と別れ、言葉の通り犬舎へ向かった。
◇
犬舎に着くと、なぜか使用人たちが遠巻きにしていることに気がついた。
「……? アーファ様がいらっしゃるから、距離を置いているのかしら?」
よく分からないけれど、共に付いている侍女に外で待つように伝え、私は犬舎の扉を小さく叩いた。
「アーファ様、いらっしゃいますか?」
しばらく待つが応答はない。
もたもたしている時間が勿体ないので、構わずに扉を開けて、わずかな隙間から中へ入った。
前回の記憶が確かなら犬たちが犬舎内を走っているかもしれない。扉を後ろ手で閉め、足下に犬がいないことを確認してから顔を上げる。
そして、絶句した。
アーファ様が犬舎の壁際で子犬を抱えて座り込んでいる。その周りを子犬が縦横無尽に走り回り、毛布の上には母犬が疲れたように寝そべっていた。
「あ、あのう……アーファ様?」
もう一度名前を呼ぶと、暴れる子犬に顔を埋めていた夫がぴくりと身体を揺らした。しかし顔を上げようとはしない。
「…………ペレーネですか?」
「はい。ペレーネです」
やりとりに既視感を覚えたが、昨夜のことを思い出して納得する。
「アーファ様。体調はいかがですか?」
何気なく訊ねたつもりなのに、アーファ様は返事をしない。それどころか、彼の耳は赤く染まっていく。
どうやら深酒をしても記憶は残る人らしい。昨夜のことを思い出して恥ずかしくなったのだろう。
「お元気ならよかったです」
(どのような方でも酒による醜態を見られるのは恥ずかしいわよね。でも、醜態というほどでもなかったけど……)
きょろきょろと辺りを見回すと、以前いた使用人の姿がない。ここにいるのは元気いっぱいの子犬たちと母犬。
――そして、子犬を抱えて座る夫。
「アーファ様は何をしていらっしゃるのですか?」
「……」
またしても返事がない。
彼の顔を背中で受けとめている子犬は、遊んでもらっていると思っているのか、四肢をばたつかせて尻尾はぴょこぴょこ振れている。
アーファ様の上着の裾は床につき、その先端を別の子犬が戯れて噛んでいる。子犬は必死に噛んでいるようで、形相は獣そのものだ。
「アーファ様、上着を噛まれています。穴が空いてしまうかもしれません」
「……気になりません」
「そうですか」
よく分からないが、犬に頬ずりしたい気分なのかもしれない。邪魔をする気はないので私は本題を口にした。
「今から先日ご案内していただいた坑道へ出かけたいのですが、許可をいただけますか?」
「好きに出かけてください」
「承知いたしました。ありがとうございます」
想像していたよりも、あっさり許してくれた。もっと理由などを細かく聞いてくると思ったのに。
「それでは失礼いたします」
私は犬舎を出て、待機していた侍女と共に門扉へと向かう。
これからの予定を頭の中で反芻しながら、忘れている物がないか考えていると、後方から焦った声が名を呼んだ。
「ペレーネ! 待ってください!」
振り返ると、アーファ様が慌てて犬舎から飛び出してきた。同時に彼の足下を子犬たちが駆けていく。
「ああ!? で、出ては駄目だ!」
嬉々とした子犬たちが、私とは逆方向へ駆けていく。
「……大変そうね。忘れ物はなさそうだから、私はこのまま出発するわ」
隣にいた侍女にそう話しかけると、彼女は頷いた。
仕事の速い護衛は、渡しておいた荷物をそれぞれの馬に積み終え、すぐに出かけられるように門も開けてくれている。
「奥様。昼食が届いたので積んでおきました。そろそろ、出発なさいますか?」
「ええ。待たせてしまってごめんなさい」
護衛に謝り、用意されていた馬に跨がる。
空を見上げると雲一つ無い快晴だ。
足の側面で軽く馬の腹を叩くと、馬はゆったりとした動きで歩き始める。
門の外に出て目的の方角を見据えてから、再び足を動かして合図を送る。馬はそれに応え、勢いよく走り出した。
頬で風を切る感触。草や土の匂いを感じたくて、私は大きく息を吸った。
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