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番外編

嵐の夜

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  「本当に大丈夫?」
  朝から何度か聞かれる質問に、苦笑して答える。
  「大丈夫だよ、大人しくしてれば大丈夫。早く行かないと電車止まったら大変だよ?」
  そうだけど、とお母さんは渋りながらもテレビを見る。

  ―――朝には快晴の地域でも、お昼から午後にかけて雨が降り、夕方には関東全域に及ぶと思われます。また、風も強く、波も高くなる予報です―――

  テレビの向こうでは、交通機関にも影響が出るとか川の近くには近づかないようにとか厳しい表情で注意を呼び掛けている。
  「ほら、天気予報だってどんどん悪くなってるし。私は大丈夫だから」
  「でも………」 
  さっきと同じようなやり取りをしていると軽い足音が近づいて、顔を蒸気させたお姉ちゃんが顔を覗かせた。
  「あぁ、いた。お母さん。もう、行くわよ?早くしないと新幹線に乗り遅れちゃう」
  「でも茜」と渋るお母さんに、お姉ちゃんはにっこりと艶やかに微笑んだ。
  「大丈夫。結香、大丈夫よね?」
  「うん。休んでれば大丈夫だよ」
  お姉ちゃんは私の膝掛けを少し整えながら、顔を覗きこんだ。
  「交通機関にどれくらい影響出るか解らないけど、明日出来るだけ早く帰るからね?」
  「大丈夫。気をつけてね」
  顔の筋肉を一生懸命動かして笑顔を作るとお姉ちゃんは、見送りはいいからゆっくり休んでおきなさい、と私がお腹に当てた手の甲を優しく擦ってお母さんを連れて居間を出ていった。少し物音がしてから、「行ってくるねー」と三人分の声がしてドアの閉まる音がして、途端に静かになった。
  テレビはまだ点いているけど、その音が全然耳に入ってこない。でも完全な無音になってしまうのが怖くて、旅行番組をぼんやりと眺めたり目を瞑ったりしていた。

  家に一人でも、大丈夫。
  怖いのは思い込みだし、そんなこと思っちゃいけない。
  子どもじゃないんだから。
  大人と名乗れはしないけど、子どもじゃないんだから、留守番くらい大丈夫。

  目を瞑る度に感じる悪寒を、身体を何度も擦って誤魔化しながら静かに目を閉じた。


  前髪や額に何かが触れる感触がして、ぼんやりと目を開けた。
  目の前に大きな影がいて、私は何回か瞬きをした。
  「―――ぃか?だいじょうぶか?」
  大好きな声が聞こえて、へにゃっと顔が弛んだ。
  影は少し離れて私をじっと見た。
  「眠っていたのか?身体が少し冷たいようだが、大丈夫か?」
  さっきよりはっきりと聞こえる声に、パチパチと目を瞬いてその姿を見つめた。
  「せ、せんぱい?」
  かすれた声で呟いた呼びかけを拾って、うん?と先輩は優しく微笑んだ。
  「起きたか?起こすのは悪いと思ったんだが、寝るなら蒲団で寝た方がいいかと思ったんだ」
  「いえ………ありがとうございます………先輩、どうしてここに………鍵は?」
  預かった、と見せてくれたのはお姉ちゃんが使ってる鍵。
  「バイト先まで届けに来てくれたんだ。どうしても行かなくちゃいけないから結香を留守番させるけど、この天候だから様子みてやってほしいって」
  先輩がシフトに入ってるって知らなかったお姉ちゃんは、まず先輩の家に電話をしたらしい。事情を先に聞いたお母さんが準備をしてくれて、お姉ちゃんと別れた先輩は家に戻ったその足でそのままここへ来たらしい。
  「ご、ごめんなさい………」
  知らぬうちに迷惑をかけてしまったと申し訳なくて俯く。

  ウチは今日から一泊二日で親戚の家に行くことになっていた。
  でも、タイミング悪く昨日から私の生理が始まってしまい、しかも、どんどん台風が近づいてきている。
  昨日のうちに断りの電話をいれようか―――そんな話もあったけど、親戚で顔を合わせて話したいこともあったし、私抜きで行ってもらうことにしたのだ。
  高校生だもん。留守番くらい大丈夫だと言って。
  先輩には事前に言ってあったから、私のことは気にせずアルバイトしていたはずなのに―――

  迷惑かけちゃった。
  なんでこんなときに生理になっちゃうんだろう?春は生理で欠席や早退にならずにこれたのに、どうして今回はこんなに痛いんだろう?

  ぽふっ

  情けなくて俯いた頭に、暖かい重みが乗った。
  顔を上げると、先輩はいつものように優しく微笑んでいて、少し安心する。
  そこでやっと、電気をつけていなかった居間が少し暗くなっていることに気がついた。薄い暗がりの中、時計を目を細めて見る。
  「どうした?」
  私の行動を不思議に思ったのか、先輩が微かに首を傾げる。
  「今、何時なのかなって………私、けっこう眠ってたんですかね。自分では、ちょっとのつもりだったんですけど」
  あぁ、と先輩は頷いた。
  「一時過ぎくらいかな。まだそんなに雨は多くないけど、風は出てるし雲で空が暗いんだ。今のうちに雨戸を閉めた方がいいかもしれない」
  そういえばさっきから風が雨を叩きつける音がしている。
  今日はどうせ早々に閉めることになると思って、一階の雨戸しか開けていない。
  そのことを伝えると、先輩は頷いて居間を出ていった。
  先輩にばかり任せるのも申し訳ないから私も行こうと立ち上がろうとしたら、大丈夫だから座ってろ、と膝掛けを直された。お姉ちゃんと同じ行為なのに間近で見た先輩の目の綺麗さに息をのんでる間に、先輩はさっさと行ってしまった。
  遠くで雨戸を閉める音が響いてしばらくしてから先輩が戻ってきた。手にマッチと懐中電灯を持っていた。
  「茜さんのお母さんに挨拶したついでに借りてきた。店長に蝋燭は貰ったけど、ライターのことは忘れてたから」
  先輩は家に来る度に、仏壇にきちんと手を合わせてくれる。
  「先輩、いつも仏壇に手を合わせてくれてありがとうございます」
  先輩は懐中電灯の点き具合いを確認しながら言う。
  「今日は泊まらせてもらうんだから、挨拶するのは当然だろ」
  平然と言われたその一言を理解するのにしばらくかかった。

  ……………………………………………………
  キョウトマラセテ………キョウ、トマラセテ
  今日、泊まらせて?

  「ふぇぇっ!?」
  「台風はだいぶ大型だし、結香一人でここに居させるのは心配だろ」
  先輩の目がテレビに向く。画面の角の災害情報は延々と朝の予報よりも早く台風の影響が出ていることを報せている。
  一人で心細いのは確かだけど、でも。
  「先輩、家にいないとご家族の皆さんが」
  大丈夫だとあっさり遮られた。
  「家の方はもう戸締りできてるし、皆して早く行けと言ってくれたよ」
  お姉ちゃんからの電話を受けた陽くんは、大切な畑を放って先輩の荷物を用意してくれたらしい。
  「一応親父にも連絡したから、大丈夫だ」
  お父さんも忙しいのに。
  「いっそ結香を一晩家で預かろうかって話にもなったんだけど、今の状態じゃ自分の家の方が落ち着くだろ?」
  それはそうだけど。
  「あ。スマホ使えるうちに電話してくれ」
  「は、はい」
  呆然としていたけど、言われて慌ててスマホを取ってお姉ちゃんに電話する。
  『もしもしっ。結香?大丈夫?』
  発信ボタンを押してすぐにお姉ちゃんの焦った声が聞こえてきた。
  「う、うん。大丈夫。お姉ちゃんたちは、もう着いた?」
  『えぇ、着いたわ。こっちはまだ晴れてるけど、そっちはもう風すごそうね』
  「うん。あの、お姉ちゃん。先輩が」
  『あぁ、来てくれたの?』
  お姉ちゃんは驚くことなく話す。お姉ちゃんが頼んだんだから、当たり前かもしれないけど。
  「来てくれたけど………お姉ちゃん、先輩だってバイトとかお家とか忙しいのに、うぇっ?」
  忙しい先輩にわざわざ私のことを言っちゃだめって言おうとしたところで、後ろからスマホを取られてしまった。
  「もしもし、代わりました………いえ、元々短時間の予定なので大丈夫です……………こっちは大丈夫です………はい」
  お姉ちゃんからお母さんやお父さんが電話に代わったみたいだけど、先輩はその度に私のことは大丈夫だと力強く答えていた。
  「………はい。今日はこちらに泊まります、はい」
  話が終わったのか、先輩がスマホを差し出す。
  急いで耳に当て「もしもしっ?」と言うと、まだ通話が切れてなくて安心する。
  『あぁ、結香?夕弦くんがいるから大丈夫だと思うけど、無理しないのよ?交通機関が使えるようになったらすぐ帰るつもりだけど、明日も帰れなさそうなら、あなた、夕弦くんの家に泊めてもらいなさいね』
  「ふぇぇっ!?」
  当たり前のように言うお母さんに、思わず間抜けな声を出してしまう。
  「なっ、なんで………?」
  『なんでって。夕弦くんに連日泊まってもらうわけにはいかないじゃないの。じゃ、大丈夫だと思うけど、十分気をつけてね。じゃね』
  「ちょっ、まっ―――」
  話についていけないままの私を置いて、電話はあっさり切れてしまった。

  ………………………………………えぇーっと?
  つまり。
  先輩が今日ここに泊まるのは決定事項で。家族も了承、ていうか家族が依頼したことで?
  ……………これってどんな扱い?

  混乱したまま画面の切れたスマホを睨んでいると、先輩に髪を撫でられた。
  「ふ?」
  「昼飯、まだだろ?食べて早目に風呂に入ってしまおう。停電するかもしれないから」
  いろいろ気がかりではあるけど、ゆっくりしてもいられない。
  私は頷いて台所に向かって歩き出す。
  本当は皆で出かける予定だったけど私が留守番することになったから、まだ食べ物が残ってるはず。何が作れるか確認しないと。
  「結香、待て」
  歩きかけた私を先輩が捕まえる。
  「食事なら持ってきたから、大丈夫だ」
  「え?」
  私の手を引いて、床に置きっぱなしになっていた荷物の前で座り込む。
  ジッパーを開けて広げて見せてくれた。
  「……………はわぁ」
  覗きこんでつい声を漏らしてしまった。
  風呂敷に包まれたお重が二つ、缶詰め、お菓子がぎっしり詰まっている。水筒まで入っていた。
  「こ、これ、全部陽くんたちが準備してくれたんですか?」
  先輩はたくさん食べる人だけど、一晩でこの量は多いんじゃないかな。
  「弁当と水筒は家から持ってきたけど、缶詰めと菓子は店長からだ」
  こんなに?と驚くと、私のことを聞いた店長さんがお見舞いにとくれたのだと説明された。
  「今日は基本的にシフト無しである程度手伝ってくれたバイトはこういう土産付きで早目に上がらせることになっていたから、結香が気にすることはないんだぞ」
  顔を覗きこまれて小さく頷くと、とりあえずこれでお昼にしようとお重と水筒を取り出した。

  お重には七夕のときに食べた揚げ物やお総菜がぎっしり詰められていて、私のせいで慌てて作ってもらったのかなと驚いたけど、そうではないと先輩は首を振った。
  「こういう台風や嵐が来ると解ると、母さんはとにかく作り置きを大量に作るんだ」
  「え。種類もいろいろあるのに、量もいっぱいなんですか?」
  汁椀に水筒の中身をあけながら先輩は頷く。
  七夕のときの長机を思い出せば納得はできるけど、台風前に台所に籠ってこんなに作るのかと思うと、感嘆のため息が出てしまった。
  「いつ停電するか解らないからって言うが。戸締りしないで嬉々と台所に居続けるから、あれは楽しくて仕方がないんだと思う」
  「……………へ?」
  冗談ではない、と先輩は真面目な表情でため息をついた。
  「最近じゃ俺たちが止めるから惣菜だけになったけど、数年前まで菓子も作ってたんだぞ。ケーキだけで三種類はあったんだ。ケーキだけじゃなくてクッキーまで作ってた。何種類も」
  呆れたように言う先輩は珍しく饒舌だ。
  「お母さん、お料理好きなんですね」
  先輩は少し首を傾げる。
  「元々料理は好きだと思うが、それより台風が楽しみで仕方がないんだと思う」

  え。

  先輩の言葉に思わず固まる。
  「……………台風が?」
  「台風が」
  先輩は大きく頷くけど、ちょっと信じがたい。
  だって先輩のお母さんはいつ会っても穏やかににこにこ笑ってる。そんなお母さんが台風を怖がらずに大好きなんて。
  「うちでは、台風の夜は皆で一階の和室でごろ寝するんだ。客用の蒲団をそれぞれ好きな所に敷いて。母さんは毎回窓側に頭を向けて寝るんだ。しかも、せっかく閉めた雨戸を開けて、仰向けで空を見ながら寝るのが好きなんだよ」
  「……………濡れません?」
  「濡れる。風邪引くし蒲団も傷むから止めてくれと毎回言うが、一向に止めるつもりはないらしい」
  これまた珍しく心痛な面持ちで長いため息がついた。
  お母さんに注意しなくちゃいけない先輩は大変だと思うけど、その様子を想像するとなんだかほのぼのしてしまって少し笑ってしまった。
  「菓子を作らない分、惣菜を大量に作ってしまうんだ。重箱もこれの他に三つほどあったから、気にしないで食べていいぞ」
  私が考えたり話したりしているばかりであまり食べていないのを気遣って言ってくれるけど、生理がキツいときは食べるのもキツいんだよね………美味しそうなのに、食べれないなんて!
  「せめて味噌汁だけでも飲まないか?」
  心配そうに覗きこまれるので、少し口をつける。まだ温かくて、ホッと息をついた。
  「美味しいです」
  先輩も安心したように頷いた。
  「そうか。味噌汁は生理痛にいいと聞いたから。食欲ないかもしれないが、少しでも飲んでおけ」
  はい、と頷くと先輩は綺麗な箸使いで料理を食べる。
  なんだか安心して、生理痛が酷いわりには食べれた方だと思う。


  お昼ご飯を食べ終わると、先輩は私をソファに座らせ膝掛けで丁寧にくるんでから、後片付けをしてお風呂の準備をした。
  途中でバスタオルの場所を聞かれたくらいで、ボーッとしているうちに一通り支度して戻ってきた。
  「雨、強くなってきたな」
  「はい、まだ台風こっちに来てないみたいですけど」
  そうか、と頷くと先輩は沸かしたから入ってこい、とお風呂を指差す。
  少し躊躇ったけどすごく勧められるので先に入ることにした。
  「ちゃんとゆっくり浸かってこいよ」
  先輩の言葉に頷いて湯船にしっかり浸かった。
  痛みがどんどん緩んで少し長めに入ってしまった。
  急いで上がり、パジャマに着替えて居間に戻ると、ソファでスマホを弄っていた先輩が柔らかく微笑んで迎えてくれる。
  「ゆっくりできたか?」
  「はい。あの、長湯しちゃってごめんなさい」
  先輩は笑みを濃くすると私の頭を一撫でしてお風呂へ行った。
  すぐにお湯を使う音が聞こえてくる。
  今さらだけど、先輩が今日ここに泊まるんだなと認識してしまって頬が熱くなってしまった。

  ガチャッ

  「ひにゃっ」
  後ろのドアの音がやけに大きく響いて思わず少し飛び上がってしまう。
  「結香?そんな所に突っ立ってどうした?」
  振り返ると、ドアを片手で支えた先輩が首を傾げて私を見ていた。
  「い、いえ」
  首を横に振ると、先輩は私の手を引いてソファに座らせる。
  そのまま背後に回り、私の髪にドライヤーをあて始めた。私の髪はふわふわしていて扱いづらいのに、先輩は優しい手つきで丁寧に渇かしてくれる。
  頭や首が温かくなってきて少しうとうとしていたら、ドライヤーのスイッチを切った先輩がフフッと笑う声がした。
  「眠いならちゃんと部屋で寝ろ。部屋まで行けるか?」
  「んむぅ……行けますよぅ……でも……先輩の、お蒲団……」
  目を擦りながらなんとか言うと、先輩は渇かした髪を優しく撫でる。
  「俺のは仏間に敷かせてもらったから、大丈夫だ。ちゃんと寝てこいよ」
  優しい声に促されるまま、二階に上がりベッドに潜りこんだ。


  フッと目を開けても、しばらく雨と風の音を聞きながら暗闇の中じっとしていた。ベッドの中で踞るような体勢をとって、朝からのことを順々に思い出す。
  「………………せんぱい」
  何度も来ているとはいえ、他所の家できちんと休めているか気になって、一階に降りる。
  トイレに行ってから居間を見ると、まだ明かりがついていた。
  「―――――結香。起きたのか?」
  物音に気づいたのか、音をたてないようにドア開けたのにすぐ声をかけられた。
  手招きされるまま近づくと、手を引かれ隣に座らされる。
  隣を見上げると、先輩は少し私の顔をじっと見て優しく髪や頬を指でなぞった。
  「―――――先輩?」
  綺麗な瞳に心配の他の感情が混じってる気がして呼びかけると、先輩は柔らかく微笑んだ。
  「少し顔色良くなったみたいだ。休めたか?」
  「はい。先輩は―――」
  何と聞くか迷っていると、先輩はテレビを指差す。
  クイズ番組を見ていたらしい。
  「先輩、クイズ好きなんですか?」
  普通かな、と先輩が首を傾げる。
  「萌が好きで。テストみたいなヤツは見るだけだけど、間違い探しとかは誰が先に解くか勝負させられるんだ」
  「へぇ」
  意外なことを知ってしまった。
  「一人で、陽に先越されたと悔しがったり自分が一番に解いたと飛び跳ねたり、本当に楽しいぞ」
  そう言う表情は優しくて。
  見てるとほんのり胸が温かくなった。
  「結香は、昼寝したからさすがにすぐに眠れないか?」
  時計を見ると、三時間以上も寝てしまっていたらしい。いくら生理で疲れていても眠れない。
  「はい。あと………ちょっとお腹空いちゃって」
  「そうか。さっきあまり食べなかったからな」
  先輩は頷くと、台所から昼間に食べたのとは別のお重を持ってきた。
  「ふぉぉ………」
  さっきとは全然違う品々に吃驚する。
  「すっごく豪華ですね………!」
  昼間は煮物とか白和えとか和食が多かったけど、今目の前で蓋が開けられたお重には洋風の品々が並んでいる。
  「基本的に和洋中三種類の弁当は必ず作るんだ。菓子を作らなくなった分、一品一品手が込んだものを作るようになった」
  先輩がため息混じりに解説してくれる。
  卵焼きの代わりに入ってたミニオムレツを貰った。食べてみると、チーズとハーブの香りが広がった。
  「パセリ以外にも育てだしてな。延々生えるんだ」
  「陽くん、凄いですね。畑、この台風でダメになっちゃったらガッカリしちゃうかな」
  私のために畑を放り出すなんて、申し訳ないことをしてしまった。
  「台風対策は前からやっていたようだから大丈夫だろう。全滅しても、きっとまた作るから気にすることはない」
  それより、と先輩は眉をひそめた。
  「台風に乗じて畑を広げて何を作ってほしいかリクエストしろとせっつかれないかが問題だ」
  あまりに真面目に言うので、はぁ、としか答えられなかった。
  お重の最後にはサンドイッチが詰まっていた。卵サンドが二種類あることにも驚いたけど、カツサンドまであることに目眩を覚えてしまった。
  レタスのサンドイッチだと思って齧ってみると、お肉が入っていた。
  「先輩、もしかしてこのローストビーフもお母さんの手作りですか?」
  スペアリブを齧りながら先輩は頷く。
  「双子が生まれる前の話だが。一度延々と弁当を作ってたと思ったら、強風警報出てるっていうのに庭でピクニックしようと言い出したことがあってな。説得するのが大変だった」
  お母さんには本当に吃驚です。


  食後は相変わらず私はソファに座らされて、先輩は洗い物をしています。
  クイズ番組はすっかり終わってしまって、映画が流れている。
  ボーッと眺めていると、カップを二つ持って先輩が戻ってきた。
  渡されたカップを覗きこむと、緑色の液体から湯気とともに爽やかな香りが漂った。
  「いい香り………これ、何ですか?」
  「ミントティーだ」
  陽くんが育てたミントで作ってくれたらしい。
  ありがとうございます、とお礼を言ってゆっくり飲む。温かくてスッキリして美味しかった。
  「明日には帰って来れそうだな」
  画面の隅の災害情報を見ながら先輩が言う。
  「はい。先輩、今日は本当にありがとうございます」
  頷いて改めてお礼を言うと、先輩は隣から私の頭を腕で抱え髪を撫でる。
  「まだ、眠れないか?」
  抱えられてる頭と手元が温かくて先輩の声が心地好かったけど、きちんと言うまでは眠れないと緩く頭を振る。
  「先輩、ごめんなさい」
  小さく言うと、先輩の指が一瞬髪の中で動きを止める。
  「今日、バイトだったのに。家族の皆さんだって先輩に家にいてほしかったのに。もう、生理痛で寝込まないように気をつけていたのに。こんな、こんな………ごめんなさい」
  もっと上手く言わないといけないのに。
  情けなくて目が潤んできたけど、今泣いてはいけない。
  唇を噛みしめていると、隣で先輩が身動ぎしている。
  「結香、ちょっと立って」
  「?は、い………?」
  解らないまま立ち上がると、後ろで動く音がしたかと思ったら、腰を優しく掴まれる。
  「う?」
  「よっ………と」
  「っっ?」
  いきなり腰に触れられた感触に驚いていると軽い掛け声と共に引っ張られて声も出ないまま、またソファに座らされる。
  腰を掴んでいた手はお腹の前で交差している。
  触れられているお腹と同じくらい背中がほんのり温かくて、後ろから抱っこされてるのだと気づいた。

  うわわわわわっっ?なぜ抱っこ?
  た、体温がっ。先輩の体温がっ。
  あ!私、今生理中っ。
  血の臭いしちゃう!
  ひにゃぁっ、頭!頭に顔くっつけられたぁっ?

  「様子がおかしいと思ったら、そんなこと気にしてたのか?」
  心の中でワタワタしていると、ものすごく近いところから囁かれた。
  「ふぅっ?」
  囁いた息が耳にかかって思わず身を捩る。
  抱え込んだ腕が、強くはないけど隙間もなくて、身体を離すのを許してくれなかった。
  恥ずかしくて縮こまっていると、もう一度抱き直されて片手がお腹をゆっくり擦る。
  「前にも言ったぞ。俺は、結香が一人で困ってたり辛い思いしている方が嫌だ」
  はぁっとかかった息が熱い。
  「俺が傍にいない時に生理痛で動けなくなるのは心配だけど、無理すればいいってものじゃないだろ?無理して、後から悪くなる方が大変だろ。学校休まないようにって気を張っていた分、休みで気が抜けただけだ」
  休みなんだから休めばいい、と優しくお腹を撫でる。擦られたお腹がじんわり温かい。
  「病は気からって言うだろ―――似てるのかな」
  「誰に、ですか?」
  ポツリと溢れた言葉に問うと、母さん、と答えられた。
  「台風前に母さんが料理を延々と作るのは、今では楽しみもあると思うけど、元々は怖いからじゃないかと思う」
  「怖い」
  うん、と頭の上で頷かれる。
  「母さんは親を子供の頃に亡くして、成人する前に祖父、祖母と見送ったから死に人一倍敏感らしいんだ。今でも病院に行くのを嫌がる」
  ふぅ、と私の頭に顎を乗せたままため息をついた。
  「結香が今日、申し訳ないってオロオロしてた様子が似てる気がする」
  「わたし、は、嵐の中で寝ない、ですよ?」
  少し身動きして見上げながら言うと、間近にあった先輩の顔が破顔した。
  「あぁ。片付けが大変だからな。真似しないでくれ」
  宥めるようにお腹を擦られる。
  背中を包む体温が心地よくて少し寄りかかる。
  お腹に回された腕が少し締まった気がして、くふん、と満足のため息が出た。
  テレビの音も外の音も、どこか遠くに聞こえる。
  「せんぱい」
  何だ、と穏やかな声で答えられる。
  「今日、皆さんにいろいろしてもらって、先輩に泊まらせちゃったこと、本当に申し訳ないって思ってるんです」
  ため息が頭にかかる。しつこいって呆れられているのかもしれない。
  「でも、先輩に一緒に居てもらえて、安心したんです」
  頭に温かい何かが乗った。
  「お姉ちゃんのお母さん、交通事故で亡くなったって言いましたよね?」
  「あぁ」
  「すごく綺麗で強くて頭のいい人だったそうです」
  「茜さんは母親似なんだな」
  本当にそう思う。叶わないけど、今お姉ちゃんと二人並んだらどっちがどっちだか解らなくなるんじゃないかな、と思う。
  「すごく健康的で溌剌としていたのに、あっさり亡くなっちゃったんです。ちょっとそこまで行ってくるね、ってこの家を出ていって、そのまま。私が思うのは筋違いだと解ってるんですけど」
  自分の胸の底に溜まる不安に眉をひそめる。
  「一人で待つなんて、できないといけなかったのに。子どもじゃないのに。でも、先輩が居てくれて、一人じゃないって安心しちゃったんです」
  ごめんなさい、なのか、ありがとう、なのか。
  悩んでいた一瞬のうちにお腹を擦っていた手がお腹に回ってぎゅっと抱き締められる。
  「結香は、茜さんのこと本当に大切で大好きなんだな」
  「おねえちゃん、ですから」
  そうか、という先輩の声が優しく響く。
  予報ではそろそろ台風がこの辺りを通るはずだけど、音も揺れも感じない。
  温かくて安心したまま、私は目を閉じた。


  目を開けないまま思ったのは、なんだかお腹のところが重い、だった。
  生理なんだけど、それとは違くて物理的に重いというか。
  一度深呼吸して、目を開けて、瞠目する。

  え。私の部屋の天井じゃない。
  まったく知らないところじゃないけど、ここ、どこ?
  いや。昨日は台風だったんだから、家から出てないはず。

  首を動かして見渡していると、綺麗に微笑んでいる顔と目があった。
  「ぅぇっ?」
  「おはよう、結香。気分はどうだ?」
  先輩は優しい笑顔で私の顔を覗きこむ。
  「お、おはよぅございます………お陰さまで、元気?です」
  断言できないのが情けないけど、今は恥ずかしさと驚きで体調どころじゃない。
  いつの間にか私は先輩が使うはずだった仏間のお蒲団に寝かされて、先輩は隣に寝転んで手だけお蒲団の中に入れて私のお腹を擦っていたらしい。
  「ぇと、私はなぜここで寝てるんでしょう………?」
  固まったまま小さく尋ねると、先輩はにこりと笑った。
  「昨日、あのまま寝てしまったからな。ここに運んだんだ」
  「ああありがとうございます?」
  「何故疑問形なんだ」
  楽しそうな笑い声をあげてから、先輩は手を抜いて起き上がった。
  「朝飯にしよう。結香はゆっくり来いよ」
  掛け布団を鼻先まで引き上げている私の頭を軽く撫でると先輩はサッと仏間を出ていった。
  「~~~っ、ぅぅぅ~~~」
  先輩の足音が完全に聞こえなくなってから、私は客用のお蒲団の中で思いきり悶えたのでした。


  冷蔵庫の中に入っていた物で作ったと言うけど、かなり品数が多かった。
  「先輩って、やっぱりお母さんの子ですね」
  ついそんなことを言ってしまった。
  大根一本で四品くらい作ってるんだもの。お重に詰めないだけで、先輩も凄いと思う。
  先輩はきょとんとしていたけど。
  朝御飯を食べ終わると、先輩は当たり前のように私をソファに連れていく。
  「だいぶ身体楽なので、洗い物くらいできますよ?」
  言ってみたけど、「駄目だ」と受けつけてもらえなかった。
  ニュースを見ていると、先輩が後ろから覗きこんできた。
  「交通機関、もう復旧してるんだな」
  「はい、お姉ちゃんからも連絡ありました。昼前には帰れるそうです」
  「そうか。良かったな」
  そう言って頭を撫でながら優しく微笑まれるので、私も笑顔で、はい!と頷いた。

  店長さんから貰ったお菓子でお茶にしようか、と鞄を漁ってると玄関が騒がしくなった。
  「結香っ、ただいまーっ」
  雪崩れこむように居間に入ってきた珍しい様子のお姉ちゃんと三人、目を合わせたまま少し固まる。
  あれ。メールで言ってたよりだいぶ早いような?
  「お菓子!ズルい!」
  「たくさんあるから大丈夫ですよ………」
  膠着状態から一番に抜けたお姉ちゃんが指差して叫ぶと、先輩がため息をつきながら言った。

  お姉ちゃんたちは早朝電車が動くと解った途端に出発したらしい。朝御飯もロクに食べていないらしく、お重と朝御飯の残りを三人で取り合うように食べている。
  私のことを気にして早く帰ってきてくれたのは嬉しいけど、食べ物の取り合いは恥ずかしいからやめてほしい………
  「朝御飯食べてから出ればよかったのに」
  水羊羹をつつきながら言うと、だって、とお姉ちゃんが頬を膨らませる。
  「早く結香の顔見ないと安心できなかったんだもの―――お母さん、竜田揚げばかり食べないでよ」
  「だって美味しいんだもの。これ手作りでしょ?今度作り方を」
  「「「お母さんは魚料理禁止」」」
  かしましいやり取りの中、先輩は淡々とおさんどんしている。
  手伝おうとしたら四人がかりで椅子に座らされてしまった。
  「そういうワケで、夕弦くんへのお礼とお土産、これしか買えなかったの。今度埋め合わせさせて?」
  笑顔でお菓子の箱を押し付けるお姉ちゃんに、先輩はそれでも丁寧にお礼を言って帰って行った。
  「お姉ちゃん、たくさん先輩にお世話になったのに、あんなにあっさり帰ってもらうなんて…」
  真面目に言おうとしているのに、いーのいーの、とお姉ちゃんは軽く言う。
  「引き留めて夕弦くんの寝不足悪化させたら、よけい申し訳ないでしょ?後日たーっぷりお礼するから。結香はたくさん休んで体調崩さないようにしましょうね?」
  「は、はい?」
  だんだん深くなっていくお姉ちゃんの笑みが怖くて、少し声が裏返ってしまいました。





  ◆ その後の弓弦 ◆

  居間に入って最初に見た人物に、思わず顔をしかめる。
  「おっはぇひぃ、んぐ。夕弦くん、朝帰りとは青春だねぇ!」
  「お前、ここで何をしているんだ」
  奥から母さんがおかえり、と声をかけてきたのに頷いて貰った箱を差し出す。
  「お土産にって貰った」
  「まぁ!美味しそうねぇ。あとで皆で頂きましょう―――光司くん、味はどうかしら?」
  「旨いです!このエビチリ、米で食ったらもっと旨そうですよね」
  うふふ、と母さんは嬉しそうに笑った。
  「まだエビチリ残ってるの。どんぶりによそいましょうか。まだ食べれる?」
  「はいっ!お願いします!」
  母さんは足取り軽く台所へ向かう。
  その後ろ姿を見送ってから俺を見上げた光司は、まぁ座れよ、と言う。
  「何故ここで飯を食ってるんだ」
  「そう上から睨むなよー、怖いじゃん。旨い飯が食えるんだから、来ないわけにいかないだろ?こんな旨い飯が食えるなら台風サマサマだよな!」
  災害を悦ぶヤツがここにもいたのか………
  「それで?彼女ちゃん、大丈夫だったのか?」
  頷くと、そっか、とニカッと笑う。
  母さんたちから聞いて光司なりに心配したらしい。
  皆に迷惑をかけると結香は落ち込むけど、それだけ周りの人間に好かれてるということに気付いてほしい。
  「家族公認のお泊まりかぁ。めちゃくちゃ信頼されてるか全然男として見られてないか。どっちなんだ?」
  「…………………………」
  一瞬光司が顔色を変える程睨み付けてしまったのは仕方がないだろう。
  寝不足なのだから。
  「ゆ、夕弦くん?とにもかくにも、彼女ちゃん無事で良かったよね?キミは頑張った!お疲れ様でした!」
  「ありがとう。俺は寝る」
  お、おぉ。と答える光司を足を止めて見る。
  「お前、今日も道場か?」
  「ん?そうだけど?」
  首を傾げる光司に、にっこり笑いかける。
  「そうか。じゃあ俺も今日道場に行く」
  「え」
  笑顔のまま光司が固まる。
  「再戦の約束してたよな?やろうな?青春だよな?」
  「え。いや。ほら、まだ俺鍛え直しが………」
  大丈夫だ、と光司の肩を軽く叩く。
  びくぅっ!と背筋が伸びたが、そこは無視する。
  「少年漫画でもあるだろう?ひ弱な主人公がたった数ページで飛躍的に強くなるんだ。お前ももう元の強さを取り戻しているはずだ」
  「アホ言うなっ。ありゃ描かれていない所でダイジェスト的に膨大な月日が経ってんだ!俺がまだ体力カスカスなのは解ってるだろ!」
  「今日、行くからな?楽しみだな?」
  「話を!話を聞こう?夕弦くん!謝るから!」
  情けない声で叫ぶ光司を置いて俺はさっさと二階へ上がった。


  その日の午後。
  飄々と竹刀を振り続ける俺を指差して、
  「いいかー、お前ら。閻魔の子も閻魔と言ってな、人様の大切なモノを傷つけたり無駄にからかったり笑ったりすると、普段穏やかな人もあーやって怒るんだぞー。いや、寧ろ普段穏やかな人のが怖いんだぞー………いや、怖い顔の人でも中身もフツーに怖い人もいるからな。まぁ自分の言動には気をつけようなー」
  などと説教になるかならんのか解らんことを師匠が子どもたちに説いていた事。
  そして、その説教が効いたのかどうかは解らんが、そこに居た子どもたちがいつになく大人しく姿勢が無駄に良かった事。
  どちらも俺の預かり知らん事だ。
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