江戸の櫛

春想亭 桜木春緒

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 五・六年前に、清楚な娘姿で挨拶に来た静代を、仁一郎は覚えている。分家の子として本家に何かの挨拶だっただろうか。美しくて愛らしくて、微笑んだ顔は春の光を纏うようだった。そんな静代に憧れた。
 あの頃の静代と今の静代は別人のようだ。
「私、本家のご家老様を頼ろうとしました。でもご家老様はしかるべき処置をとおっしゃるばかりでした。杓子定規の冷たい方。実家が燃えたときと同じでした。それで、お中老様を訪ねたのです。ご家老様よりは気さくなお方でしたから」
 静代が泣いている。口元は笑っている。唇の下の鉄漿の色が禍々しい。
「高野の家が無事だったのは、お中老様のお骨折りでした。それから、お使いで何度もお見舞いに来てくださったの。辛いって言ったら、そうだろうってお義父様の世話も手伝ってくださったわ。あの人が……、和馬様が」
「もういい」
 孝輔の家で火事があったと報せを聞いたのは、四月頃だ。五ヶ月ほど前になるだろうか。
「苦しんでいらっしゃるの?」
 濡れた瞳が妖しく光り、頬に淡い紅色が灯る。仲睦まじかったはずの夫を苦しめることが、静代は嬉しいのだろうか。
 過去の静代はいつも儀礼的な顔だけを仁一郎に見せていた。本家の嫡男、あるいは夫である孝輔の友人。彼女にとっての仁一郎とはそれだけの存在だった。
 これほど激しい感情を露わにした静代の顔はかつて見たことがない。静代が生身の女だと、仁一郎は初めて実感した気がする。

 静代が前垂れの上から腹を撫でた。確かに何かが腹の内に宿っている。そういう膨らみがそこに在った。この静代の腹を見て、孝輔は不義を知ったのだ。
「家を出るために儂を陥れたのか? ご家老様を害してまで」
「私は言われたとおりにしただけです。旦那様の小柄を取って、家を出ました」
「山吹屋に来いという手紙も書いただろう」
「そんなこともありましたね」
「悪事を為していると思わなかったのか? そなたのその行動で何が起きたのか。知らないとは言わせぬぞ」
「存じません。大事だったのは、この子だけ」
 静代に縋っていた老婆が、おお、と呻きながら白い手の上に皺ばんだ手を重ねて腹の膨らみを撫でた。老婆は、叔父の母親である。黒木和馬は本当に叔父の子で、つまり彼女の孫であったようだ。そして静代は、黒木の子を妊んでいるらしい。老婆にとっては曾孫になる。
 叔父と黒木はうまいところに静代を隠したものだ。静代を預けるにはどこより相応しい。場所こそ仁一郎の家、つまり死んだ父半右衛門の知行地だが、預ける相手は叔父の母で黒木の祖母なのだ。
 縋りあいながら泣く女達を置いて、孝輔がきびすを返そうとした。
「お待ちください」
 呼び止めた静代が、頭から櫛を抜いて孝輔に差し出す。頭上で烏が鳴いて去る。五つほどの呼吸の後、孝輔は櫛を掴んで静代から顔を背け、母屋のほうへと足早に去った。
 仁一郎は懐から紙に包んだ物を取り、静代に差し出した。叔父に渡そうと思ったが、ここで静代に遣ったほうが相応しいように思った。
「黒木の髪だ」
 静代ではなく、老婆のほうが黒木の遺髪を奪うように受け取った。
 黒木は中山村で仁一郎から逃れるために人質を取ろうとしたと覚しい。しかし手に届く場所にいたのが子供だった。可愛らしい笑顔を見せた男の子だった。だから躊躇い、それが隙になって命を落とした。
 あのときに黒木は、静代の腹に宿った己の子に思いを馳せたのではなかろうか。
「不思議だな。お二人は、この上なく好き合うた夫婦だと思っていたのに」
「だからこそでしょうね」
 切り裂くような静代の口調に、仁一郎は少し怯んだ。静代とはこんな話し方をする女であっただろうか。
「好きであればあるほど、よりいっそう憎くなる。苦しめたくなる。貴方はまだご存じないでしょうけれど」
 長いため息をついて、静代は仁一郎に背を向けた。黒木の髪を頬に擦りつけるようにして泣きじゃくる老婆を支えている。
 老婆は孫の死を知って悲しんで取り乱している。静代は老婆より落ち着いていたが、やがて押し殺すような嗚咽を漏らした。
 静代と老婆の泣き声がしばらく聞こえ続ける。女のしぶとさが泣き声にへばりついていると感じた。あれだけの大声で泣けるのなら世を儚む懸念もなかろう。
 静代が語ったのは、孝輔への恨みばかりだった。静代のために苦しむ孝輔を見て喜びに近い顔をした。色合いは憎しみでも孝輔への情のほうが、子をなした仲の黒木へ情より、静代の中では濃いということか。だとしたら黒木も哀れな男だ。
 思えばこれまで仁一郎は、静代とは挨拶くらいの言葉しか交わしていない。楚々とした風情で儀礼的な微笑みを浮かべた顔しか見たことがなかった。生々しい感情を露わにした静代を、ここで初めて見た。今の静代も仁一郎にはまばゆい。どこか不安定で壊れそうな気配が、静代を凄艶な色に染めていた。
(これから儂は、腹の子の父親を殺した男として、静代の心に残るのだな)
 遠い憧れだった静代の心に、仁一郎はようやく己を刻みつけた。
 こんなことのおかげで、生身の静代を奇妙に身近に感じられるようになった。しかしそれが嬉しいなどと思うのは、あまりに歪んだ心持ちであろう。
 仁一郎は奥歯に力を籠めて噛みしめた。

 女達の庵を後にして、仁一郎は孝輔を追った。
 足早に、孝輔が名主屋敷の庭を下り、建物の傍らを通り過ぎて門から外に出て行く。来るときは門の右側から来た。孝輔はその道に戻らず、門に向かって左の方へ向かう。少し下った道はやがて上りになり、寺の門の下に出た。そこで仁一郎がようやく追いついた。
「仁一郎どの、儂を殺せ。そもそもの切っ掛けを作ったのは儂だ。妻の心を見誤った。仁一郎どのに詫びる言葉が見当たらぬ」
「何の恨みもない貴方を殺すことなど、できるわけがないでしょう」
「ならば腹を切ろう。介錯を――」
 脇差を抜こうとした孝輔の腕を、仁一郎が掴んで遮った。
 古びた彫刻の施された門は、山の中の寺にしては立派である。その下の石段に、孝輔の横に並んで仁一郎も座った。
 不意に、孝輔が袂から出した櫛を石段に叩きつけた。こつんと音を立てて櫛が弾んで転がった。端が少し欠けたようだ。乾いた土の上に櫛の桜の柄が艶やかである。
 傷のある額を覆うように、孝輔が頭を抱え込んだ。
 江戸に居た孝輔だとて孤閨の寂しさは静代と変わりはなかった。病人の看護こそなかったものの、妻と離れて寂しく辛かったはずだ。孝輔が静代の名を口にする声にはいつも、愛しい恋女房であるという濃厚な情がこもっていた。
 その静代が、孝輔の不在に彼を裏切って、黒木和馬の子を妊んだ。
 腹に宿った子だけが大事だと言った。それゆえにか、仁一郎の父の殺害とその下手人として孝輔を陥れる工作に、静代は手を貸した。
 父の死については、実際に手を下したのが黒木であることは間違いがない。だが黒木には、仁一郎の父半右衛門に直接の恨みなどあるまい。静代を手に入れるために孝輔を何らかの罪に陥れることだけが目的なら、命を奪う相手は誰でも良かったはずだ。むしろ誰も殺さなくても良かったはずだ。
 父を殺すように望んだ後ろ盾が居る。叔父だろう。
(真の仇を討ちたい)
 そのためには新堂の城下に戻らねばならない。
 しかし仁一郎が持っている仇討ち免状に書かれた相手の名は孝輔になっている。真の仇は黒木で、仁一郎は確かに仇討ちを果たしたが、それが藩に認められることはない。まだ戻れない。
 仁一郎の傍らで頭を抱え込んだ孝輔が、以前より一回りも小さく見えた。
 睦まじかったはずの妻が彼を裏切り、家老殺しの罪を着せられ、父親は自害した。高野家は断絶である。真実を明らかにすれば家名を服することも可能だろうが、静代の不貞については弁明の余地がない。城下に戻っても孝輔はいたたまれぬ恥を負う。
 家族も家名も奪われた。当たり前だった平穏な日常も武家の名誉も、愛しい妻も、全て孝輔は失った。死にたくもなる気持ちは、解る。
 仁一郎は孝輔が投げ捨てた櫛を拾って、じっと見つめた。妻のためにと購い、江戸から持ってきた土産。大胆に桜の花を描いていて、とても綺麗だ。
 静代の髪を飾ったこの櫛を見かければ、記憶に残り、人にも話すだろう。――桜の花柄の櫛なんか洒落ていてよくお似合いでした、と。
 あのとき仁一郎が聞いたように。

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