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おまけ

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 麻衣香は常に笑っている。
 声を出して笑うときは、にゃはは、と変な声になる。
「理史さん、見て見てー! すっごい綺麗だよ」
 観光客で混み合う永観堂で、にゃははと笑いながら理史の手を麻衣香が引っ張る。

 朝、ホテルを出てからずっと手をつないでいる。
 何年も前からそうだったように。

 思いがけない京都のデートは、理史にも楽しくて仕方がなかった。
「ねえ、何食べる?」
 ランチの前に、長い髪をゆらゆらさせながら麻衣香が首をかしげて理史を見た。いつものように明るい顔。
 だが。
「麻衣香、どうした?」
「ん? 何が? 何でもないよ」
「何でもなくない。変な顔してる」
「変な顔は元々です」
 にゃはは、といつもの声で麻衣香が笑う。
「座って」
 昼食にと選んだのは少し行列ができているうどんの店だった。
 店の外に、少し肩をすくめて寒さをこらえる観光客がいる。その隅に、一つだけスツールが空いていた。
「麻衣香、座って」
「いいよ。理史さん座りなよ」
「はいはい」
 理史は麻衣香の両肩を押さえて、椅子に沈めた。
「足、痛いんだろ……」
 ふう、と理史はため息を吐きながら、麻衣香の足下に屈んで靴を脱がせた。
 昨日、会社帰りに弾みで新幹線に乗って京都まで来た麻衣香は、パンプスのままだった。履き口も浅く、ヒールも七センチくらい。旅先で長く歩き回るには向いていない靴だ。
 くるぶしの下に触れたとき、麻衣香がびくんと震えた。靴擦れができている。タイツの外にまで血が滲んでいて、理史の指先を赤く染めた。
「靴擦れ?」
「平気平気。このくらい慣れてるよ、女子は」
「平気じゃない」
 理史は、ゆるキャラのような目をきょろりと向ける麻衣香を見てため息を吐いた。

(いつも、こうなんだ……)
 辛くても痛くても、麻衣香は暗い顔をしない。絶対に、笑っている。
「我慢するなよ、麻衣香」
「してないよ」
「してる」
 二組前のグループが、店の中に呼ばれた。
 隣のカップルが立ち上がって席を詰める。麻衣香の隣に、理史も座った。
 所在なげに、麻衣香がタイツの爪先を重ね合わせていた。
「足寒い」
 唇を尖らせた麻衣香の足下に、理史は黙ってパンプスを戻す。

「北条様」
 と、呼ばれた。
 理史は麻衣香の手を引いて、ゆっくりと店内に入っていった。

 我慢するな、と理史は言った。
(別に、大丈夫なのになあ)
 向かいでエビの天ぷらをほおばる理史を見ながら、麻衣香は考えた。
 麻衣香のとんだいたずらから、理史と京都でデートすることになった。
 理史にとっては事故のような出来事だっただろう
(でも……)
 うどんをすする理史の顔を向かいから見ながら、麻衣香は笑みがやまない。止まらない。
 四年前までは、みんなと一緒で、いつもの見慣れた顔でもあった。
 二人きりというのが、初めての状況だ。
 嬉しくて、楽しくて、照れくさい。笑うか歌うか、そんな気分になっている。
(こんなに楽しいんだもん)
 と、思うのだ。
 足が痛いとか靴擦れができたとか、そんなことで理史と二人の楽しい時間を中断したくなかった。だから、笑っていたいと麻衣香は思っていた。

 店を出て、すぐにタクシーを拾った。
「四条河原町」
 と、理史が運転手に告げた。
「なんで? 銀閣寺に行くんじゃないの?」
「いいから」
 混雑した大きな通りでタクシーを降りると、目の前に老舗のデパートがそびえていた。
「何でも良いから靴。ヒールがない歩きやすいやつ」
「そういうのいいってば」
「良くない。で? サイズは?」
「二十三……」 
 女性だらけの婦人靴売り場で、麻衣香を椅子に座らせたまま、理史が何足かの靴を持ってきた。
 四番目に履いた物が、麻衣香の足になじんだ。小さなリボンが甲に飾られた、ヒールの低いバレエシューズだ。丸い爪先だけエナメルで、本体はスウェードになっている。
「それ?」
「え、でも」
「本当にそれでいいか? 痛くないかな」
 靴擦れができないように、と履き口の裏側にクッションを貼ってもらう。
「それじゃこれをお願いします。……靴は履き替えて行きます。箱はいらないですが袋だけもらえますか?」
 麻衣香がぽかんとしているうちに、理史がてきぱきと会計を済ませてしまった。
「歩きやすい?」
「歩きやすいよ。でも、こんなことまでしてくれなくていいのに」
「困る?」
「困ってない。楽になったし、助かる。……でも」
 デパートを出た。四条通を東に向かう。
 
 橋にさしかかって、南座が見えてきた。
「俺、はしゃぎすぎてるなあ」
 麻衣香の手を取りながら、理史が笑う。
 思いがけなく、麻衣香と一緒に京都に来て、気持ちも確かめ合って、抱き合って、朝を迎えた。
 そのまま、美しい紅葉の残る京都で、手をつないでデートをしている。
「なんか嬉しくて、楽しくて、麻衣香に何でもしてやりたい」
「理史さん……」
 麻衣香が見上げた理史は、どことなくはにかんだような顔をしていた。
「ね、困ってないよ。すごく嬉いんだよ。……足痛いのも気づいてくれたし、靴も、すごく可愛くて履き心地もいいし。ホント助かったよ。ありがとう、理史さん」
 橋の上で立ち止まって、麻衣香は真っ直ぐに理史の目を見て微笑んだ。
 にゃはは、とは笑わない。
 柔らかな唇の端を上げて、瞳を潤ませて笑っている。

 観光客も普通の市民も、たくさん歩いている橋の上なのに、と思う。
 理史は麻衣香を抱きしめたくてたまらなくなった。
 抱きしめて、キスをしたくなった。

 明るくて、常に笑顔を絶やさない麻衣香だ。
 辛くても悲しくても、いつでも笑っているのは、周囲への気遣いに他ならない。それは美点ではあると思う。人として素晴らしいことだ。
 そういう心がけのある麻衣香に、理史は敬意さえ覚えている。麻衣香のそんなところが好きなんだ、とも思う。 
(でも、本当は)
 人なのだから、たまには泣きたいこともあるだろう。
 靴擦れやマメで血が出ていたら痛かっただろう。
 それでも麻衣香は、笑っていた。
 さっきまでの笑顔は、今、理史に向けて見せている笑顔とは少し違う。
(今の顔が、本当の麻衣香)
 にゃはは、という、奇妙な笑い声を立てることのない柔らかな表情が、麻衣香の本当の笑顔だ。
 理史は、以前にもそんな麻衣香を見たことはある。
 以前より近くで見つめているのが少し違う。周りに仲間達が居ないのも、以前と違う。

「麻衣香」
 くしゃくしゃ、と理史の掌が麻衣香の頭をなでる。
「やだ、髪の毛」
 反抗するようなことを言いながら、麻衣香は笑顔のままでいる。
 そのままの顔でいてほしい。
 泣きたいときは泣いて、笑いたいときに笑って。できれば一緒にいるときはいつも、本当の笑顔でいてほしい。
 そうさせていられるような、自分でありたいと理史は思った。

「麻衣香が好きだ。ホント大好きだ」
 ぱあっと麻衣香の顔が真っ赤になった。
 それを見て理史は思わず大きな声で笑ってしまった。
「抱きしめてキスしたいけど」
「ここがニューヨークで、私たちがアメリカ人だったらいいよ」
「京都の日本人じゃダメか」
 理史が麻衣香の手を取った。
 その手をほどいて、えいっ、と言いながら麻衣香が理史の腕を抱え込む。
「このくらいならくっついてもいいかな」
 理史の肩のすぐ横で、麻衣香がにまっと笑った。

「足は平気?」
「おかげさまで」
「失敗したな。靴」
「なんで?」
「麻衣香が足痛いなら、早く帰れたのに」
「帰りたいの?」
「ホテルなら、抱きしめてキスしてもいいだろ? それから……」
「にゃはは!」
 また変な声で麻衣香が笑った。照れ隠しの作り笑い。

「まあ、ゆっくり歩こう」
「そうだね。ゆっくり、一緒に……」

 黄昏に近い頃。
 寄り添って一つになった二人の影を見つめながら、またゆっくりと、歩き始めた。


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