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文箱
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しおりを挟む逸が頼むことを、新兵衛は駄目と言うまい。
幸枝はそう思って笑った。
訪れた逸と新兵衛がほのぼのと視線を見交わす様子から、逸がすっかり彼に甘えていて、それを彼が許している雰囲気を、幸枝は感じていた。
それを逸が解っていてそんなことを言うのなら、僅かの期間でずいぶんとしたたかな妻になったものだ。
(あの小さな逸が、頼もしくなって)
呆れるような感心するような気持ちで幸枝は嬉しそうに笑う。
「逸が何よりも一番に考えなければいけないのは、その旦那様のことです。私達の事は、心配しなくて良いのです。解りますね」
「はい。もちろん……」
神妙な顔で頷く逸の頭を、幼い子にそうするように撫でてやりたいような、幸枝はそんな気持ちにもなる。
逸にしろ睦郎にしろ、幼いとばかり思っていた子供達が、嫁いだり婿に迎えられようとしていたりする。時の流れは容赦が無い。
母として寂しくもあった。
しかし逸にしても睦郎にしても、今は江戸に居る月子や志郎も、いずれそうして誰かと縁を結び、幸枝と夫の畑野と同じように親となって子を育ててゆく。そうなったときには、きっと彼等とまたこれまでとは違った話をするようになるのだろう。それを楽しみにしようと、幸枝はまた母親としてそんなことを期待している。
「それに、逸。ご養子を迎えたら、きっと忙しくなってそんな暇はなくなりますよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも。それでも、旦那様を一番に大切になさいね。貴方にとって一番、大事な方なのですから」
はい、と頷きながら、逸が頬を真っ赤にした。
「約束は、守ってくださるとおっしゃっていた?」
娘のそんな表情を見守りながら、幸枝は笑いながら訊いた。
「……約束?」
「あら、まだ聞いていないの?」
「なんですか?教えてください、お母様」
「あのときに水城様とお話したことですよ。私が申すより、あの方からお聞きになったほうが良いでしょう」
少し低い声で、でもね、逸、と言った。
「油断して日々を疎かにしてはいけません。いくらでも時間があると思っても、時が過ぎるのは思いのほか早いものでもあるのですから…」
逸は、畑野家を辞しながら、幸枝の言葉を胸の中で反復した。
婚礼の衣装を損料屋に借りに行ったときに、逸は、新兵衛が逸を妻に請いに訪れたときにどんな話をしたのかと幸枝に訊いた。
そのときは、
「そのうちあの方からお聞きなさい。いくらでも時間はあるのですから」
と母は答えてくれていた。
そういえば未だにその話を逸は新兵衛から聞いていなかった。それを、幸枝に言われてようやく思い出した。
(私ときたら……)
逸はそんな思案に沈む。
あの時は、あまりにも慌しく、あまりにも予想外の幸福な婚礼でとりのぼせ、その後は主婦としての日常の仕事が思いのほかに多忙であった。とはいえ、その時にあれほど気になっていたことさえ忘れてしまっていたことに愕然となった。
法華町の畑野家から諏訪町の水城家までの帰路は駕籠を使い、そのために逸は新兵衛にその件を聞こうとして聞けなかった。帰宅してからも、なんと言って新兵衛に話を切り出そうかと迷っているうちに、眠りに就いてしまった。
朝になってからは、来客が三組も続き、そんな物事に気を取られ、逸は幸枝に聞いた新兵衛の約束の事を、また忘れた。
七草を過ぎ、水城家はようやく静かな日常を迎えることを得た。
新兵衛は年を越えても、役目に関する沙汰もなく無役のままであった。
生涯を無役で終える家中の士も皆無ではない。
逸は、一度は永蟄居まで申し渡された新兵衛には、今後も役に関する沙汰は下りないかもしれないと考え始めていた。だがそれが不安だという訳ではない。それならばそれで、そのように暮らしていけばいいだけのことだと思っている。差し当たって水城家では三食の習慣になっている食事を、新兵衛に相談して一日二食に改めようかと考えた。
何か不足の事があっても、余剰の事があっても、それは逸が一人で抱え込んで悩まねばならないことではない。
新兵衛は逸が若いからといって軽んじることも無く、時に判断を任せてくれることもあると解ってきた。そうかといって逸が一人で決めかねるようなことについてまで判断せよとは言わない。
逸が新兵衛を見つめているように、新兵衛も逸を見ている。
逸は居るだけでいいのだと新兵衛は言ってくれた。
だから、もう無理はしないと決めた。新兵衛に心配をかける前に、少し力を抜くことを覚えた。頑張り過ぎる必要はない。
常に死を意識する緊張感を持つことは武家の者の嗜みではあったが、それでも事のない日常は継続している。その継続性を無視するのは難しいことだ。人は弓の弦と同じで、張り詰めたままではいつか疲弊して切れてしまう。
日が傾いてきて、逸は新兵衛の着物を繕っていたが、ここまで、と決めて途中で作業をやめる。
午後の八つごろに師匠の道場から帰宅した新兵衛が居室にいる。
失礼しますと声を掛けて、逸は襖を開けた。
文机の前に座って、新兵衛は紙の束を糸で綴じている。
この正月から彼は日記を書くようにしたと逸に話していた。そのための作業だろうか。既に一冊を終えたとしたら、ずいぶんと日々、記すことがあるものだ。そんなに長い時間、彼は机に向かっていただろうか、などと思う。
新兵衛という男が武張った事が得手であることはよく知っているが、存外そういった細かい作業も器用にするものだ。彼の手元を見て逸は感心した。紙は整ってそろえられ、糸の目もとても綺麗である。
「どうした?」
手を止めて、新兵衛が逸を振り向いた。
「あ、あの。お袖の繕いが終わりませんでした。」
「急いではいないから気にせずとも良い」
「もう新しい冊子を作ってらっしゃるのですか?」
「……これか?まあ、てすさびに良い。いくつか作っておこうかと思ってな」
見るか、と新兵衛がその手で今しがた綴り終えたばかりの、まだ白紙の冊子を逸に手渡した。
「綺麗にお作りになりましたね」
逸が感嘆の声を上げると、新兵衛は子供のように嬉しそうに破顔した。
「それを、逸に遣ろうか」
「よろしいのですか?」
微笑みながら新兵衛は頷く。
逸がまだ下働きとしてこの屋敷に居た頃、読み書きは真似事程度になら可能だ、と言っていた。それが謙遜だったと今の新兵衛は良く知っている。
違い棚の文箱が視界の隅に入る。
あの中に納められた逸の手紙たちは、見事な文章であったと思う。言葉を記すことは、逸には楽しみであったのではあるまいか。そんな風に新兵衛は感じていた。
ふふ、と声を立てて逸が笑っている。新兵衛の手が綴ったその冊子を、逸は宝物のようにそっと胸に抱いて頬をほころばせていた。
障子に夕陽が透ける。
その淡い光が、愛らしい逸の笑顔をきれいな紅に柔らかく染めた。
ずっと、そういう逸の顔を見つめていたいと新兵衛は思うのである。
逸もまた、逸に向かって温かく微笑んだ新兵衛の顔を、ずっと見つめていたいと願っている。
願わくば、生涯の目を閉じるその瞬間まで、ずっと。
互いにそう思っているということを、今はもう、逸も新兵衛も知っている。
一月のあいだ日々話し合った上で、二月のはじめに、新兵衛の妹の園子の三男との養子縁組を決めた。
届けは、参勤交代で藩主が帰国する春以降にすることも決めた。
藩主の帰国と共に、逸の父も一度は帰ると知らせが来ている。
彼にも会って、その話をしておきたいというのが新兵衛の意図であった。
朝。春は近く、しかし時折遠ざかる。
「また雪でございますね」
「だがもう、なごり雪だろう」
障子を細く開けて外を見る。
まだ日の昇りきらない暗い灰色の空から降り注ぐ雪が、このところようやく土が見え始めた庭をまた白く染め直している。
雪を見ている逸のその背から新兵衛は腕を回して逸の身体を包んだ。逸を温めるような、あるいは逸からぬくもりを得るような、そんなしぐさである。
するりと逸の襟元に指を差し込んで肌に触れる。
「おいたは駄目です」
おどけたように逸が言い、忍び込んだ新兵衛の手の甲を掴んで剥がした。そんな逸に新兵衛はもう逆らえない。
呼気を白く凍えさせながら、新兵衛は自邸の道場で剣を振るう。時折、本身で型を使うこともあるが、多くは重たく作った木刀で鍛錬を行う。この朝は、普段どおりに木刀であった。
それでも一つ一つの動作をおろそかにしないのは、本物の刃を持つときと変わらない。
一刻ほど、休まずに鍛錬を続ける。寒い朝であるが、やがて肩から湯気が立つほどに体が温まった。
切っ先の描く軌跡を丁寧になぞるような、緊張を帯びた視線で新兵衛は木剣を振る。その動作に集中している。それでも周辺の気配に気づかないわけではない。目を向けなくても、廊下に逸が来ているのを知る。
逸は早朝の光が僅かに斜めに注ぐ中で、鋭く動作する新兵衛を見つめた。
胴着から延びる腕の筋に力がみなぎっている。背筋が伸び、重心を落ち着かせた挙措は、無駄がなく美しい。
僅かにはだけた胸元や、首筋に汗が流れている。寒いのに、あれほど汗をかくほどに動くとは、と少し感心するような気がする。
逸は、そんな新兵衛の姿を見るのが好きだ。
緊張を帯びた目線や、鋭く剣を振るう腕や、すっと前に出る足先など、神に捧げる舞を見るような、清冽な気配を感じる。それと同時に、逸が陶然とするのは、そんな新兵衛の姿から放たれる雄雄しく頼もしい気迫であった。
あの腕が、と逸は昨夜のことをふと思う。重そうな木刀を軽々と振るう逞しい腕が、逸を抱いた。あの腕に縋って、新兵衛に与えられる愉悦にすすり泣いた。
思い出せば、甘露を含む熱が胸から膝へ落ちていくような感覚に襲われる。
剣を提げ、逸、と新兵衛が呼んだ。
「はい、旦那様」
少し上ずったような声になって、逸はその響きに自分で驚く。
「いつも熱心でいらっしゃいますね」
恥じらいを隠すように逸は早口で言った。
「そうだな」
と言いながら、新兵衛は逸の前に膝を付いて身を屈めた。
「約束があるからな」
「約束?」
あ、と逸は急に思い出す。怪訝な顔で新兵衛は逸を見つめ返した。
「あの、もしやそれは……。その、どういうお約束でしょうか?」
「逸の、父上と母上と」
知らないのか、と問いかけた。
「はい。旦那様に聞けと言われました」
逸の大きな黒目がちの瞳が、潤みを帯びてじっと新兵衛を見上げた。ひたむきに、きらきらと光っている。
そうか、と少し視線を外した新兵衛の少し困ったような表情を、逸は胸を高鳴らせながら見上げた。彼の頬や、首筋に汗が光っている。
「……長生きをせよと、あの日、そなたの父上と母上に言われた」
身体を鍛えると丈夫で居られるはずだから、ずっとそうしていく、と新兵衛は言った。
「それが、お約束?」
逸は微笑んだ。
なんと当たり前で、なんと嬉しいことを約束してくれたものだろうと感激が胸に湧く。
「そうだ。そうして、逸を一人この世に永く残すことはせぬようにと、約束した。だから、丈夫で居なければな」
「旦那様……」
逸は、身体を伸ばして新兵衛の胸に縋りついた。
胴着の襟元を強く掴む。すこし彼の汗を吸ってその布地が重たくなっているようだ。
「嬉しゅうございます」
逸は新兵衛の胸元に頬を擦り付ける。
新兵衛の体躯の逞しい厚みを、胴着越しに頬に感じる。彼の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
つい先ほど、新兵衛の鍛錬を見つめていたときに感じたような甘い熱を覚え、逸は陶然となって、汗の滲む彼の首筋に唇をつけた。
「逸……」
右の手は木刀を掴んでいる。新兵衛は空いた左手を逸の背に回す。
不意の逸の恍惚を受け止めて、新兵衛は少し、呆然とする。
逸の唇が、微かに喘ぎながら、新兵衛の汗の軌跡をたどっていった。
このとき、逸の身体には新しい命が宿っている。
おわり。
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