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文箱
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しおりを挟む法華町にある畑野家には、正月の五日に訪れた。
水城家に嫁いでから、逸にとっては初めての里帰りということになる。新兵衛にとっては、逸を妻にと申し入れに来たときから二度目の訪問であった。
江戸詰めの逸の父は不在である。今は、母の幸枝と弟の睦郎が暮らしている。
ささやかな饗応の後、逸は母の幸枝と共に膳を片付けに台所へと去った。
母の傍らで、食器を桶に浸しながら、逸は静かな声で言う。
「……養子を、迎える話を進めています」
「そう」
幸枝は静かに受ける。
正月を迎えてようやく数え十九歳になったばかりの逸ではあるが、夫の新兵衛はすでに三十五歳となっている。逸が産んだ子を跡取りとするには、遅いだろうというような事は、婚礼のときから幸枝が確かに抱いていた懸念である。
我が腹を痛めた子がどれほど愛しいものか、幸枝は胸がずきずきするほどよく知っている。
しかしもろもろのことを考える限り、逸がこれから生む子を跡取りにと願うには遅すぎることも解っていた。もし逸が、自分の生んだ子を、と望み、そのことにこだわるならば、きっと苦しい思いをするに違いない。幸枝はずっと、そんな心配をしていた。
養子、という言葉を聞いて、幸枝は安堵すると同時にひどく切なくなった。逸は、幸枝から見ると悲しいほどに生真面目で、賢い。女として考えるなら、逸の年頃であれば、自らの子を生む前に家を継ぐ者を定める辛さを嘆いても良いはずだ。
だが武家の妻という立場である以上、そして家の当主である夫が遥かに年上であるという状況では、早急に跡取りを定めざるを得ないのが現実である。
その現実を、逸は受け入れた。
幸枝は、武家の妻として、逸の決断を褒めたいと同時に、母として、そして女として、逸のその決心を慰めてやりたいような思いに駆られる。
我が子のその賢さが、幸枝には辛い。
それが、はるかに年上の新兵衛という男を選んだ逸が採用しなければならない道であることは、十分に幸枝にもわかる。
そんな相手を伴侶に選んだことを、逸は悔いてはいないだろうか。
もっと年頃の近い男に嫁いで、当たり前に同じような春秋を経て、我が腹を痛めた子を跡取りとして育て上げる人生の道もあったのではないか。
まして逸は、江戸に居たときには藩主の跡取りの若君にまで、求愛されたと畑野から話に聞いた。それを断って、今は新兵衛と共に在る。
将来にわたってそのことを悔いることはないだろうか。
伴侶の新兵衛に早く先立たれることも想像に難くない。もしそうなったとしたら、その後どれほどの年月を、逸は寂しく暮らさねばならなくなるのか。そのときに、悔いることはないだろうか。
そんな危惧が幸枝にはひそかにある。考えるほどに胸が痛んだ。
養子に、と逸は言う。養子にしようとする子のことを少し話した。
「旦那様の甥に当たる子で、旦那様によく似ています」
「お会いになったの?」
「はい。旦那様の妹の園子様の家の子です。朗らかで、良い子でした」
逸の声は、微笑を含んでいるように聞こえる。
「そうですか。良いお子でしたか」
涙ぐみそうになって、幸枝は逸のほうに顔を向け得ない。
そうですか、ともう一度繰り返しながら、幸枝は逸に背を向け、壁の棚に食器を納めている。
その日の座敷には、幸枝と逸と新兵衛と、逸の弟の睦郎が居た。
新兵衛と睦郎はほぼ初対面である。婚礼の座には居たものの、話というほどに互いに口を利いた事もない。
逸と幸枝が後片付けに去った後、静けさが流れた。
義兄上さま、と、先に睦郎が沈黙を破った。
「ありがとうございます。」
何の前触れも無い感謝に、返す言葉も思いつかずに新兵衛はただ睦郎を見る。
「姉上が、あんなにたくさん笑っているのを見たのは初めてです。母上も嬉しそうでした。……お幸せそうで、とても安心しました。ご一緒においでくださってありがとうございました。」
「礼など……」
新兵衛は含羞を帯びて首を横に振る。
逸の生家である畑野家の人々は全体に小柄である。睦郎もそうだ。新兵衛に比すればまるで婦人のように小さく細い。それでも声音には青年らしい張りがあり、意志の強そうな口調は父親の畑野辰之助に似て歯切れが良い。
「ぜひ、いつなりとおいで下さいませ。」
少し言葉を切った。
「今、私に養子の話が生じているのです。決まれば、……もちろんその方が望ましいのですが、決まってしまうと、この家に母が一人になってしまいます」
睦郎は母親が寂しくなることが心配なのだろう。彼の優しい心根に、新兵衛は温かな感情を持って頷く。
「いつなりと……」
「ぜひお願いします」
朗らかに睦郎は微笑んだ。
養子、というような話を、最近はとてもよく耳にする。
新兵衛もある意味では当事者である。彼の場合は睦郎と逆に、養子を迎える立場である。妹の園子の三男とその話を進めて行こうかという状況であった。
以前から園子がその縁組を望んでいたことであり、その願望を少し煩わしいくらいに思っていたことでもある。
しかし、逆の立場である睦郎の言葉を聞き、新兵衛は煩わしいと思ったことが申し訳ないような気持ちになった。
園子は十六歳か十七歳か、嫁ぐのが早かった。そして子供を授かるのも早く、男子を三年続けて生んだ。その後も女児に恵まれ、子供は全部で六人も居る。
我が子に恵まれていなかった新兵衛や亡き結には羨ましいような園子であったが、子が多ければ多いなりに、悩みもまた多いと訪れるたびにこぼしていたものだ。特に次男三男の行く末は、いずれ嫁ぐであろう娘たちよりも不安なものに感じられていたらしい。
我が子をいずれ誰かの養子に出すとしても、より身近な者の家に縁付けば、慶事弔事の際にでも、何かと顔を見る機会があろうというものだ。だからこそ園子は、いずれどこかに養子に出すならば兄の新兵衛の許にと願ったということなのだろう。
我が子を養子に、と執拗に訪れる妹の園子に呆れるような思いを抱いていたが、少しだけ思い直そうと考えた。実際にその子供を新兵衛が引き取る日が来れば、彼女は彼女なりに寂しさを覚えることとなるのだろう。
睦郎は、自分が養子として家を出ることで母が寂しくなると心配している。
迎える者が居れば、去る者を寂しく思う者も居る。去る者は、残される者の寂寥を思いやる。さまざまの思いが、そこに生じる。
そういう事でもあるのだと、新兵衛は初めて気づいた。
「いずこの家に」
新兵衛は、睦郎が養子に行くかもしれないという家のことを訪ねた。
彼が母親を心配する気持ちがわかる。近所ならば良いだろう、などとも考えた。
「遠縁の家になります。祖父の弟でつまり大叔父の血筋で、父にとっては従妹にあたる人の嫁ぎ先の家だそうです。屋敷は三番町で、笹生様のお屋敷に近いところのようです」
ただ、その、と不意に睦郎が口ごもって顔を赤らめた。
その含羞を怪訝な顔で見た新兵衛に、あの、と睦郎がこめかみの辺りを指先で掻きながら言葉を継いだ。
「ただその、人が、私より二つばかり年嵩で……。先方の年頃もあってできれば早めにと。しかしまだ私にはとても、とても早いと思うのですが」
「なるほど」
新兵衛は思わず破顔した。
睦郎の言う養子縁組は、つまり婿養子の話だということを、新兵衛はようやく察した。
「先方のお人には、お会いに?」
「まだ、です」
語り口の歯切れが良く、頭も切れそうなのに、その段で頬を赤らめてひどく狼狽した睦郎を、可愛らしいと新兵衛は思った。逸の弟の睦郎は、逸の二つ下で未だ十七歳だ。自分がその頃はどうだっただろう、などと新兵衛は思い起こしながら、睦郎の照れくさそうな顔を笑みを帯びて見る。
睦郎の言う、まだ、には、婦人に対する親しみの薄さも含まれているようだった。
顧みれば、新兵衛も睦郎のように、異性を知らないような頃は、そんな話が出るごとに居心地の悪いような思いをした記憶がある。知らぬものを怖がるような、興味や畏怖を含めて諸々の感情を隠したいと思うような、色々なものを含んだ恥じらいを覚えていたものだ。
女はそれと知ってしまえば怖いものではなく逆に好ましいもので、また夫婦というのは良いものだと、言いそうになって、新兵衛は口を閉ざす。
どこか生々しい話に及びそうな気がして、逸の弟の睦郎には言いかねた。
逸も、台所で幸枝から睦郎の養子の話を聞いた。
「そうですか、そんなお話が……」
「そう。ありがたいことに、そんなお話があるのですよ」
幸枝の口調は、喜んでいるようでもあり、寂しそうでもある。
将来を考えれば、次男である睦郎とって、確かに良い話であるのは逸にもわかる。いずれ、畑野の家は、逸と睦郎の兄の志郎が継ぐ。畑野家の長男は太三郎であったが、今は亡き人である。
幸いなことに残った志郎も睦郎も丈夫な大人になりつつあり、今の畑野家の状況ならば、多少身体を害しても医薬にかかる費えに困ることはない。二人の男子はよほどの事故でもない限りは、あと数十年の天寿を全うすることだろう。
そうだとすれば、逆に、睦郎は畑野家での居場所が無くなるということでもある。養子の話が生じているならば、その縁は結んでおくべきだ。
しかしそうなればそうなったで、畑野の当主である父が江戸詰めである間、母の幸枝は家に一人となる。雇った人間は何人か居るが、それは残念ながら血の繋がった家族というわけではない。
母が寂しくなるのだと逸は思う。
「また、参りますね」
娘として放っておけない気持ちになって言った。
母を喜ばせようとして言ったことだと、逸の気持ちが幸枝には良くわかる。だが、あえて、そこは首を横に振る。
「いいえ、貴方には貴方の家があります。水城の家のことをすべてきちんと、大切になさい。そのほうが私は嬉しく思います」
嫁ぐというのはそういうものだと、幸枝は言外に含んだ。
逸は、幸枝に叱られたように感じた。いつまでも娘の気持ちで、母親に甘えるなと、言われたように思う。母のため、と思いながら少し、母に甘えに来たいと考えていた気持ちがあった。それを見透かされたのだと感じた。
「では、旦那様のお許しがあるときに」
せめて、と思って逸は言う。
それを聞いて、幸枝は、ふふ、と声を出して笑った。
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