日照雨

春想亭 桜木春緒

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文箱

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 そうしてじっと逸の寝顔を見続けているわけにもいかないと、新兵衛は褥の脇から去る事にした。
 隣の居間で、書でも読みながら、逸が目覚めるのを待とうと思った。
 納戸にも蔵にも書物は多くある。
 読書は嫌いではないが、そう何度も読み返したい物があるわけでもない。
「これもか……」
 と呟く。
 大半の書物は、かつて藤崎によって半隠居のような状況に置かれていた期間に、鳥越らとの連絡の為に偽装として持ち込まれたものだ。合巻ごうかんも二巻しかないとか、半端ばかりであった。

 それでも読めそうな物を二、三冊ほど携えて自室に戻る。
 文机に書を置いて、また逸の居る寝室を覗いた。よく眠っていた。先ほど夜着の中に収めたはずの左腕が、また夜着の上に出ていたので、それを仕舞ってやる。手を掴むと、うん、と言うような小さな声が聞こえたので起こしてしまったのかと懸念したが、逸はまだ夢の中から出てこない。
 安堵しながら逸の額に掌を乗せる。やはり熱くはない。手を滑らせて頬に触れる。唇の前に指先をかざすと、柔らかな吐息が触れた。あどけないような寝顔を見ていると、胸に甘い痛みが起きるようだ。
 規則正しい呼吸を漏らす逸の唇にそっと唇を触れて胸の痛みを治め、新兵衛は寝室を去る。微笑みが止まない。何をしているのだろう、とそんな自分の行動を省みて含羞を覚えた。

 文机の前に膝をつきかけて、身を翻す。
 違い棚から文箱を取り、文机の書物の上で開ける。
 最後の文は、間もなく江戸を発つという報告である。残暑の候でも江戸は、地面から陽炎の立つほどに暑いと逸は書いていた。
 逸の手紙には時々「諏訪町に居たころ」という言葉が含まれた。それを読むたびに新兵衛は、確かに逸はここに居たのだと思い出し、文から目を外して、軽い足音と障子の外から訪う声を、耳に甦らせた。そしてそれがただの思い出であり、実際には逸の訪れはもうないのだと、蟄居中の現実を自覚しては、胸に亀裂の入るような寂寥を感じていた。
 そういえば逸の口から、江戸の屋敷に勤めていた時の話を聞いていない。
 勤めをしくじったために江戸を去ると言う手紙を見たが、具体的にどういった事であったのかは書かれていなかった。
逸は、これらの手紙が新兵衛の手元にある事を知ったらどんな顔をするだろうか。

 そんな事を思った途端に、寝室の方に気配を感じた。
 逸が、目を覚ましたようである。
「あの、」
 慎ましい声がする。寝所と居室をつなぐ襖を開けて良いかと言うことだろう。
 新兵衛はするりと立って襖の方へ向かい、膝をついて襖に手を掛けた。同時に、向こう側から逸がそれを引く。
 あまり間近に新兵衛が居て、逸は少し目を見張った。
「どうした?」
「あの、もう大丈夫でございますので」
 起きて、繕いものなどしなければと逸は言う。
 もともとどこか悲しげな眉の表情を、いっそう曇らせながら、逸は膝の前に手をついた姿勢で新兵衛を見上げて居る。昼日中から横になっていたことを申し訳ないと感じているのだろう。そういう性格であると新兵衛にはよく解っている。
「今日は、何もせんで休め」
 苦笑を浮かべて新兵衛は逸に首を振って見せた。やはり、とも思う。出掛けなくて良かった。
 逸は、でも、と言いかけて新兵衛の体の向こうに見えた物に目を引かれた。
「逸……?」
 潤んだ眼が向けられている先を、新兵衛も追う。

 違い棚に置かれていた文箱が、彼の机の上に有り、蓋が外されている。いつか、埃を払おうとそれを手にした時に、新兵衛に取り上げられた。以来、逸の胸に引っかかっていたあの文箱であった。
 逸の目がその文箱を見ていると新兵衛が気づいたことがわかって、逸はふと目を伏せる。
 新兵衛は、逸がそれに興味を示したことを嫌がるだろうと思った。掃除のために触れたときに、彼は慌ててそれを逸の手から取り上げた。見せたくない物であるのかもしれない。夫の隠し事に興味を示すようなことは、行儀が良いとは逸には思えない。
 それでも、気になっていた。だが、気にしていることを新兵衛に気づかれたくないとも思っていた。
 ふと見ると、少しの含羞を帯びて、新兵衛が逸に微笑んでいる。
「寒くはないか?」
 薄い寝衣一枚の逸を気遣い、新兵衛は自分の羽織を脱いで逸の肩に掛ける。小さく華奢な逸の身体は、大柄な彼の羽織に全身が入ってしまいそうである。その大きな彼の温もりの余韻に身を包んで、逸は新兵衛のいざなうままに、文机の前に座った。
「これは、そもそもお前の物だ」
「……あ」
 行儀が悪いか、と言いながら、新兵衛は逸の背後に胡坐をかき、その腿に逸を乗せた。肉の薄い背を冷気から守るように、包む。寒くはないか、と再び新兵衛が問うた声に、逸は少し頬を赤らめながら頷いた。彼の広やかな胸に背を預けて、暖かい。
「旦那様は?」
 寒くありませんか、と逸は訊く。新兵衛の羽織を逸が着ている。
「逸が居れば」
 とだけ、答えた。胸に逸を抱えている。逸の体温が、新兵衛をあたためている。

「何故……?」
 箱から出されていたのは、逸が江戸から出立するという知らせを記した手紙であった。
 未だ暑熱の江戸に雨も無く、そのようなことを書いている。この八月に逸の手で書いたものに相違ない。あて先は、鳳雛鳥越宗右衛門であったはずだ。彼に送った、最後の手紙であっただろう。
 何故、と再び逸は言う。
 振り向くと唇を触れそうなほど間近に新兵衛の顔が有った。恥じらっているような笑みを浮かべている。
「確かめたことはないが、恐らく鳥越様が密かに届けてくださったのだろう」
 逸の胸に、湿った感懐が起こった。
「左様でございましたか……」

 江戸への出立の前に鳥越の屋敷を訪れたときのことを思い出している。
 あの時は、新兵衛に下された罰を知らず、自邸に謹慎していると聞かされていた。そしてそんな彼を案じながら、遠くはなれて江戸へ行かねばならない身を空疎に嘆いていた。
 頼みがあるよ、と鳥越は大ぶりな目鼻立ちに温かな微笑を浮かべて逸に言った。
「道中からも、江戸からも、なるべくまめにそなたの近況を教えておくれ。私に手紙を書いて欲しい」
 あのときは、そんな鳥越の依頼を承知しながら怪訝に思っていたものだ。
 ともに居た父でもなく姉でもなく、鳥越が手紙を書いて欲しいと願ったのが、何故、逸であったのか。逸でなければならなかったのか。

 ようやく腑に落ちた。
 今、手元に逸の字で書かれた逸の手紙がある。新兵衛が目の届くところに納めて置いていた文箱の中からその手紙は現れた。
 そもそもそのつもりであったのだろう。
 鳥越は、新兵衛にそれを届けることを密かに決めて、逸に近況を知らせよと言ったのだ。
 深遠な策謀で新兵衛を使嗾したことによる呵責といった鳥越自身の複雑な思惑は逸にはわからない。それゆえに、ただ逸は鳥越の配慮に感謝の念を持った。
(お解かりでいらしたんだ)
 少し恥ずかしいような気持ちにもなる。あの時に、逸が新兵衛を慕っていると、鳥越は見抜いていたのだろう。逸が新兵衛に想いを懸けていると知って、手紙を届けてやろうと考えてくれたのだろう。
「どれほど、慰めになったか知れぬ」
「旦那様……」
 そうと解っていたら、もっと色々なことを書きたかった。
 しかしそう思うのは不遜なことでもある。鳥越の立場としては、逸の手紙を新兵衛に届けるという行為は、公に出来ることではなかった。それは解っている。
 それでも手紙が新兵衛に渡ると知っていれば、もっと、逸の心の中にどういう想いが在ったのか、それを記し得たのに、と思った。
 繁華な江戸に在っても、ずっと逸は社寺に新兵衛の無事を祈り続けていた。心の中で、新兵衛に伝えたい言葉を溢れさせて、身もだえするほどに彼を想っていた。会いたくて、会って触れたくて、恋しさと、寂しさのあまりどうにもならず眠りを忘れた日々さえあったのである。

 背に触れる新兵衛の温もりに、逸は淡く涙を覚えた。
「辛う、ございましたね」
「……そうだな」
 頷きながら、新兵衛はもう一つの文箱を開けた。そちらのほうが、古い。
 文の一つ一つを開きながら、新兵衛はその頃の逸のことを問うた。逸は、ぽつりぽつりとそれに答える。
「江戸は、面白そうなところだな」
「はい。面白いところでした」
 と笑いながら逸は、江戸の人々はとても早口で、早足で、忙しない気持ちになった、というようなことを語った。
「江戸の屋敷はどうであった?」
「奥方様がとてもお優しうございました。他の同じ年頃の者も何人も居て、詰め所などでは色々な話を致しました。賑やかで、華やいでおりましたね。皆、とても良い方々ばかりでした」
 それを聞きながら、新兵衛も少し笑った。
「その勤めを退くほどのしくじりとは、何をしたのだ?」
「若君様に、無礼を申しました」
「逸が?」
「贅沢なことをなさるから、下々の苦しみを知らぬような愚かしい真似をなさるな、と申し上げました。多分、もっとひどい言葉を」
 意外な、と新兵衛は言いながら、内心ではそれほど意外に感じても居ない。
 今、逸が言ったことが本当ならば、貧しい暮らしをしてきた者にとって耐え難いような奢侈を若君に見て、義憤に駆られて諫言を為したものと新兵衛には聞こえた。
 平素には控えめで慎ましい逸だが、いざとなると白刃の下に身をさらすことも辞さない気概を、その小さく華奢な身体の芯に秘めている。それを新兵衛は痛みを覚えるほどに知っている。

「お手討ちになっても仕方が無いかと思っておりましたが、お許しを頂けました。命があって良うございました」
 許されていなければ今日の幸いは無かったはずだから、そんな意味のことを逸は言う。
 そのとおりだ、と新兵衛は頷いた。
 別々の歳月を過ごしていたことが、過去になっている。その嬉しさを、胸に染み渡らせるような笑みを浮かべていた。

 文箱の一番下に、最初に届けられた手紙がある。
 他の文と違う感触に、逸は少し眉を寄せた。
「……これは」
 紙を丸めて、それを引き伸ばしたような、ごわごわとした皺が寄っている。
 逸の背後から、新兵衛は腕をのばして彼女の手元のその皺皺の手紙に触れた。
 静かな声で、新兵衛は、
「逸に言わねばならないことがある」
 と言った。

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