日照雨

春想亭 桜木春緒

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 江戸への出立の前日、逸は月子とともに、畑野に連れられて、笹生家と鳥越家に挨拶に行った。畑野家の長男の志郎は、それ以前に挨拶を済ませている。
 この日は娘達だけを畑野は連れて行った。

 大手前三番町の笹尾家には畑野一家が法華町に移るまで滞在してたこともあり、主の笹生平太夫のほか家族とも顔なじみであり、親しみがあった。
 また笹生自身も同時に江戸へ行く。笹生家では主の夫婦のほか、二五歳になる長男の夫婦と、次男が共に行く。道中のことなどの打ち合わせもあって話が伸びて、少々長居をしてしまった。
 黄昏近くなって鳥越家に行った。
 ちょうど、鳥越は下城したところだったらしい。
「遅くなったかと思ったら、まだ来ていないと言うではないか。遅かったなあ」
「申し訳なかった。しかし結局ちょうど良かったということだろう。責めるには当たるまいよ」
「責めはしない。だが笹生とは江戸で一緒だろう。話なら道中でもできるだろうに、あちらに長居をしてこちらに遅く来るとはどういうことだ」
 ひどいな、と鳥越は拗ねるように言う。
「いやに絡むじゃないか。……もう直ぐ筆頭家老だろう。うちの娘達に少しは威厳を見せてやってくれんか」
 畑野は呆れた口調で言う。
 先ほどからの鳥越と畑野のまったくもってぞんざいで親しげな言葉のやり取りに、月子も逸も、唖然としていた。
 つい半年前までは山奥の辺境で、代官所の下働きに近いような立場だった父親が、はるか雲の上の人と感じていた家老と、対等以上の口を利いている。若いころに親しかったらしいとは、先日の鳥越の訪問で知ってはいたが、それにしても不思議な光景だと思う。娘達はただぽかんと見守るしかなかった。
 促されて月子と逸は鳥越に挨拶をする。
「まったく可愛らしい娘達だな。畑野の子とも思えないな」
「何とでも言えばよろしい」
「江戸は忙しない町だが、多彩な町でもある。女子の身でも学べることが色々あると思う。ただ同じくらい悪しきことも多い。それにだけ気をつけて、二人とも堅固で過ごしてくれるように」
「お言葉、ありがとうございます」
 月子と逸は、鳥越に頭を下げる。
 ときに、とその鳥越が言う。
「逸子」
「はい」
「あの折は、怖い思いをしただろう。その後は良く眠れているか?」
「お心に掛けて頂きありがとうございます。大丈夫でございます」
 それはよかった、と鳥越は微笑を含んで言った。
 畑野が少しはらはらした表情で鳥越を見ている。夫婦が黙っていたいと思っていることを、彼が逸に告げてしまうのではないかと、心配している。
「頼みがあるよ」
「私に、でございますか」
 逸は、ふと顔を上げて鳥越を見た。大振りな目鼻立ちながら品良くまとまった彼の面差しに、温かな思いが流れているのがわかる。
「道中からも、江戸からも、なるべくまめにそなたの近況を教えておくれ。私に手紙を書いて欲しい。返事は書けぬかもしれんが…。面倒かな?」
「いえ。そのようなことはありません。必ず書いてお送りします」
「約束してくれるかな?」
「畏まりました。お約束いたします」
 柔らかく微笑む鳥越に釣られ、逸も笑顔を見せて頭を下げた。
 同時に、畑野も頭を下げている。その父の姿を、月子だけが少し怪訝に見ていた。

 法華町に残す幸枝と睦郎をそれとなく見守ってくれるように、などということを頼み、逸たちは鳥越邸を辞した。
 主の鳥越は、門の外まで三人を送り出す。畑野と親しいということもあるが、これが鳥越と言う男の性質なのだろう。情が濃い。
「あの」
 さて帰宅という段に成って、逸が思いを決したように言う。
「鳥越様、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「何であろう」
「……水城様は、いかがなりましょうか」
 張り詰めたような声で、夕闇の中、逸は鳥越にすがるように訊いた。
 鳥越の視線の隅に、逸の後ろで少し困ったような表情の畑野が居る。
「難しい事だよ。殿も思いあぐねておいでだ」
 まだ、わからない、と鳥越は逸に答えた。
 それを聞いた畑野が、ふと藍色の夜空を仰ぐ。
「彼もお沙汰を待ってずっと神妙にしている。何かあれば必ず知らせよう」
 信じてくれるかね、と幼児に言い聞かせるような少し甘い声で付け足した。
 逸はそんな鳥越に深く頭を下げて、礼を言った。

 鳥越も畑野も逸に言わないが、新兵衛への罰は、ずっと以前に決まっていた。
 藩主大和守はほぼ即断に近い形で、その沙汰を下した。

 半知召上げの上、永蟄居。
 寛典であるともそうでないともいえる。
 永蟄居ということは、終身、一室にて謹慎を続けなければならないということである。新兵衛は生涯、太陽の下に出ることが出来ない身となった。
 生命は残っている。
 しかし社会的には死者となった。

 新兵衛にその藩主の沙汰を伝えたのは、たってとその役を買って出た鳥越だった。
 その役に出かける前に、鳥越は人気の無い暗い部屋に畑野を連れ込み、襟首を掴んで揺さぶった。
「貴様は、」
 と畑野が調べ上げた仙之介の最期に関する調書について責めた。
「お前は危ういよ」
 鳥越の鼻までの身の丈しかない畑野が、彼を睨み上げて言う。
「その怒りは何だ?あの男を煽ったのは貴様等だったのではないか? 恨みを晴らせと声をかけさせたのはお前だろう、鳥越。若君が寺へ行く日時まで教えたのは誰だ?従順で、正直で無欲な男だ。哀れなものだな。見事にやり遂げてくれたよな。……その罪滅ぼしのつもりで、お前は殿を欺こうとしているのだろう」
 違うか、と畑野は青白い顔色をして、低い声で鳥越に迫る。
「お前はそこまで解っていて、何故、そういう真似をした?」
 鳥越はなおも畑野の小柄な身体を揺すった。
「役目は役目だ。そこに事実がある限り、殿に歪めて伝えるべきではない。情に流されて恣意に事実を隠すのは、それ自体で罪ではないか」
 しかし、と鳥越は思う。
 仙之介は最終的には自害だった。その経緯において新兵衛が傷を負わせたのは確かだとしても、致命傷ではなかった。最期には彼の判断で自ら死を選んだのだから、新兵衛の為したことは無にしても良かったのではないか。
 それ以前に、新兵衛は仙之介からこの上ない痛手を被っている。仙之介に与えた傷を差し引いてちょうど良いか足りなかったくらいだろう。
「ああ、正しいのは貴様だ。いつでもそうだ。……何て親だよ」
 投げ捨てるように畑野を離しながら鳥越は言い放つ。
「解ってるんだろう?逸子に如何に伝える?お前が殿に報告した事実故に、このような咎になったと、言えるのか?あれが無ければ、あの殿の仰せのご様子であれば、もっと…、もっと」
 鳥越に掴まれて乱れた襟元を直しながら、畑野は項垂れている。
「全くな、……何と言ったものだろうな」
 言えぬかもしれん、語尾は、独語に似た。

 暗いうちに逸は旅立った。
 その日も、それでもお百度参りに行くことは止めなかった。
 江戸に向かうのは逸の畑野家だけではない。江戸家老を拝命した笹生の他にも何人か居る。今回の道中で最も高い身分が笹生、その次が畑野ということになる。
 逸は母が作ってくれた紫の縮緬の頭巾を被っている。未だに髪の長さが足りない。ただ後頭部で髪を束ね、その上から頭巾で髪型を隠した。
 
 江戸には行かない、行きたくない、と逸は母に言った。
 何故かとは、幸枝は逸に訊かない。彼女は既に逸の想いを察していて、新兵衛について畑野が黙っていることも承知している。
 未だに新兵衛の罰が決まっていないと信じているらしい逸が、些か気の毒ではある。しかしそれを逸には言えなかった。
 もう少し時を置けば、と幸枝は思う。年齢を重ねて解ったことがある。全ての出来事において、時間というものが、何よりも心を鎮める薬になるということだ。
 今はまだ思いが生々しすぎる。もっと時が経ってからであれば、同じ事実を知っても、少しは落ち着いて受け止めることを得るだろう。環境を変えることも良い。江戸に行くのも良い変化であるかもしれない。
 そして、残酷なことかもしれないが、幸枝は逸が新兵衛を忘れることを望み始めている。
 永蟄居では、世間的には死者である。そんな人物を想い続けることは逸にとっても幸せなことでは有るまい。それは美しく純粋な思いであろうとも、寂しく悲しいばかりだ。
 幸枝は親として、逸にそのような人生を歩ませたいとは思えない。

「江戸には行きなさい。貴方には必要なことです。それに、逸がここに居ても何になるというの?解っているはず」
 酷な言葉だったかもしれないが、幸枝は少し突き放すように逸を諭した。

 そう、江戸に行くことは必要なことなのだ。幸枝はそう思うようにした。
 逸にしても月子にしても、貧しい頃に被った出来事があり、それが周囲の悲しい視線を生んでいる。その出来事を知らぬ江戸に行ったほうが、娘達は人となりをそのままに見てもらえる可能性がある。
 そして今後もし国許に帰ってくるとしても、何年か江戸に行っている間に、この国の世間は、月子と逸のことは忘れるだろう。忘れてもらいたい、幸枝は切にそう願っている。
 さらに、もし、という希望がもちろんある。
 二人とも、何年か後でも、良い伴侶に恵まれ、孫の姿を見せてくれれば何よりのことだ。
 繁華な江戸という町が、月子と逸を励ましてくれると良い。そして辛かったことを忘れさせてくれるほどの華やぎを、二人が楽しんでくれると良い。幸枝はそんなことを望んでいた。
 一度は不幸な結婚と離別を経験した月子もまだ二二歳、逸はまだ十七歳に過ぎない。

 忘れる時間も、それから幸せになる時間も、充分にあるはずだ。

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