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やはり、と夜の帳の中で逸は思った。新兵衛は帰ってこない。
周囲を片付けて床を延べる。
そのときふと、下腹に違和感を覚えた。
月のものが来たようだ。静かに寝床を出て、その始末をする。少し苦笑いした。これでは、新兵衛が居たとしても彼のところには泊まれなかっただろう。
新兵衛の不意の不在はたびたびあった。日中には外出の予定などしていなかったものの、夕暮れになってふと出かけて、深更に帰宅したり、払暁に戻ったりするのだ。戻ったときには酒気を帯びているときもそうでないときもある。
逸は台所脇の小部屋に居る。その薄い寝床で横になりながら、新兵衛を思う。
彼が出かけるときに逸を訪れたのは初めてのことだ。普段は門番でもある留吉か、用人の松尾から新兵衛の外出を伝え聞くことがほとんどだった。
どうなさったのだろうか、逸はそればかりを考えている。
そればかり、というよりは、新兵衛のことばかりを、逸は思っているのだ。
鷹揚で、優しく穏やかで、親切で、すこし照れ屋。そんな風に逸は新兵衛を見ている。彼を目で追って、胸を高鳴らせていたころを思い出す。背が高く、逞しく、挙措が落ち着いていて姿勢が良い。時折、少し憂いのある表情を見せる顔から目が離せなかった。
納戸の本を片付けがてら、色々と話をしたときも楽しかった。逸が話すことを軽く頷きながら聞き、時々小さく笑う新兵衛の顔を見るのが好きだった。
逸は、彼に、憧れた。
あの夜、不意に新兵衛が「そなたを抱く」と宣言し、逸は慄きながら身を任せた。あの時に感じたのは、恐れだけではなかったと今ならわかる。
欲められた喜びに、心の芯が震えた。
逸はあの日の前よりも、あの日からのほうがずっと新兵衛を好きだと思っている。
俺が好きか、と新兵衛に逸は訊かれた。では、新兵衛はどうなのだろう。逸を好きでいてくれるのだろうか。そうであってくれれば嬉しい。そうであろうと思いたい。もしそうでなかったとしても、逸は自分の気持ちは変わらないだろうと思った。
(旦那さまが好き…)そう思っただけで、涙が出るほど胸が熱い。そんな昂揚と温もりを与えられたことを、逸は幸せだと感じている。それ以上の贅沢は言わないつもりだ。
この水城家に来なかったとしたら、逸は家族の糧を得るために、身体を売らなければならなかっただろう。誰とも知らぬ男に身体に触れられるなど、そのことを知った今となっては、想像しただけで悪寒が走る。それから救われただけでも、どれほどありがたかったことだろう。
逸は自分の身のほどをわきまえている。分を超えるつもりはない。
新兵衛は二百石の当主で、逸はその下働きの端下女に過ぎない身である。いずれ新兵衛は水城家の跡継ぎを得るために身分のつりあう家柄から後添いを迎える日が来るかもしれない。その時は逸は身を引かねばならないと思っている。そんな日が来なければいいのに、と考える自分を、心の中で少し叱る。
薄い褥の中で、逸は寝返りを打った。
溜め息を一つつく。
奥様は、と虚空を見つめて思う。
見知らぬ人物である。逸が知っているのは、新兵衛が静かに香華を手向ける位牌の姿だけだ。
三年ほど前に亡くなったその人は、結、というのが生前の名であるらしい。大柄な新兵衛と並んでも見劣りしないくらい背が高く、朗らかで美しい人だったと、いねや和子からずいぶん前に聞いた。夫婦仲は傍から見ても睦まじかったそうである。
不慮の事故で亡くなったということだった。
どれほど心残りだっただろう、と逸は亡くなった結という人の気持ちになって思った。
きっと、結も新兵衛を好きだっただろう。それなのに一人、先に死んでしまった。その後の新兵衛のことも心配だっただろうし、彼を悲しませることを、きっと辛く思ったに違いない。
ごめんなさい、と逸は心の中で結に謝る。
逸は、自分が新兵衛を好きであることを、見知らぬ結に許して欲しいと祈った。
そんなことを考えているうちに、眠りに落ちていた。
東の空に藍の色が差しかかってきた頃。
新兵衛は、川口の宿の渡船の桟橋に居た。城下へ向かう船を待っている。彼の前に、高井屋の一行に扮した鳥越らもひっそりと並んでいる。他にも商人らしき早立ちの旅人と、城下から来て宿場女郎を買った帰りの武士らしい男も居た。傍目には、新兵衛もそんな遊びの帰りに見えていたかもしれない。
対岸から舟がやってくる。客は四人ほどのものだ。
近づいてくる船の中に、見覚えのある者が居る。桟橋の上で彼とすれ違うとき、袂が触れた。失礼、と言いたげに彼は笠を少し傾けた。
書物を背負っているのに、達者な足取りだと、船の上から井川を見送って新兵衛は思った。
新兵衛は船尾に乗った。彼の後ろには艪を持つ船頭しか居ない。
川の中ほどで、袂から結び文を出した。桟橋の上で井川が新兵衛の袖に投げ込んだものだ。
「杉尾村名主善右衛門方、笹生人数、報国寺、榊」
短冊状に裂かれた懐紙に、それだけ記してあった。
渡船を下りて南に回れば、新兵衛の屋敷がある諏訪町の方から城下に入ることができる。これが本道であり、最も近道であった。達者なものであれば、大手門前まで二刻を必要としないだろう。
杉尾村は、城下の北西にあたり、そちらを回ると城下に入るにはさらに一刻を要するだろう。井川はその道を行けと指示してきた。
船を降りた鳥越ら高井屋の一行は、わざとらしく腰を叩いたり腿を叩いたりして歩を前に進めない。
彼らを避けるようにして、新兵衛は北へと足を向けた。
高井屋の若主人と本物の手代らしき男だけが僅かに顔を見合わせたが、鳥越や、笹生の家臣である崎田は、何食わぬ顔で新兵衛の跡に続けて歩き出した。
周囲を片付けて床を延べる。
そのときふと、下腹に違和感を覚えた。
月のものが来たようだ。静かに寝床を出て、その始末をする。少し苦笑いした。これでは、新兵衛が居たとしても彼のところには泊まれなかっただろう。
新兵衛の不意の不在はたびたびあった。日中には外出の予定などしていなかったものの、夕暮れになってふと出かけて、深更に帰宅したり、払暁に戻ったりするのだ。戻ったときには酒気を帯びているときもそうでないときもある。
逸は台所脇の小部屋に居る。その薄い寝床で横になりながら、新兵衛を思う。
彼が出かけるときに逸を訪れたのは初めてのことだ。普段は門番でもある留吉か、用人の松尾から新兵衛の外出を伝え聞くことがほとんどだった。
どうなさったのだろうか、逸はそればかりを考えている。
そればかり、というよりは、新兵衛のことばかりを、逸は思っているのだ。
鷹揚で、優しく穏やかで、親切で、すこし照れ屋。そんな風に逸は新兵衛を見ている。彼を目で追って、胸を高鳴らせていたころを思い出す。背が高く、逞しく、挙措が落ち着いていて姿勢が良い。時折、少し憂いのある表情を見せる顔から目が離せなかった。
納戸の本を片付けがてら、色々と話をしたときも楽しかった。逸が話すことを軽く頷きながら聞き、時々小さく笑う新兵衛の顔を見るのが好きだった。
逸は、彼に、憧れた。
あの夜、不意に新兵衛が「そなたを抱く」と宣言し、逸は慄きながら身を任せた。あの時に感じたのは、恐れだけではなかったと今ならわかる。
欲められた喜びに、心の芯が震えた。
逸はあの日の前よりも、あの日からのほうがずっと新兵衛を好きだと思っている。
俺が好きか、と新兵衛に逸は訊かれた。では、新兵衛はどうなのだろう。逸を好きでいてくれるのだろうか。そうであってくれれば嬉しい。そうであろうと思いたい。もしそうでなかったとしても、逸は自分の気持ちは変わらないだろうと思った。
(旦那さまが好き…)そう思っただけで、涙が出るほど胸が熱い。そんな昂揚と温もりを与えられたことを、逸は幸せだと感じている。それ以上の贅沢は言わないつもりだ。
この水城家に来なかったとしたら、逸は家族の糧を得るために、身体を売らなければならなかっただろう。誰とも知らぬ男に身体に触れられるなど、そのことを知った今となっては、想像しただけで悪寒が走る。それから救われただけでも、どれほどありがたかったことだろう。
逸は自分の身のほどをわきまえている。分を超えるつもりはない。
新兵衛は二百石の当主で、逸はその下働きの端下女に過ぎない身である。いずれ新兵衛は水城家の跡継ぎを得るために身分のつりあう家柄から後添いを迎える日が来るかもしれない。その時は逸は身を引かねばならないと思っている。そんな日が来なければいいのに、と考える自分を、心の中で少し叱る。
薄い褥の中で、逸は寝返りを打った。
溜め息を一つつく。
奥様は、と虚空を見つめて思う。
見知らぬ人物である。逸が知っているのは、新兵衛が静かに香華を手向ける位牌の姿だけだ。
三年ほど前に亡くなったその人は、結、というのが生前の名であるらしい。大柄な新兵衛と並んでも見劣りしないくらい背が高く、朗らかで美しい人だったと、いねや和子からずいぶん前に聞いた。夫婦仲は傍から見ても睦まじかったそうである。
不慮の事故で亡くなったということだった。
どれほど心残りだっただろう、と逸は亡くなった結という人の気持ちになって思った。
きっと、結も新兵衛を好きだっただろう。それなのに一人、先に死んでしまった。その後の新兵衛のことも心配だっただろうし、彼を悲しませることを、きっと辛く思ったに違いない。
ごめんなさい、と逸は心の中で結に謝る。
逸は、自分が新兵衛を好きであることを、見知らぬ結に許して欲しいと祈った。
そんなことを考えているうちに、眠りに落ちていた。
東の空に藍の色が差しかかってきた頃。
新兵衛は、川口の宿の渡船の桟橋に居た。城下へ向かう船を待っている。彼の前に、高井屋の一行に扮した鳥越らもひっそりと並んでいる。他にも商人らしき早立ちの旅人と、城下から来て宿場女郎を買った帰りの武士らしい男も居た。傍目には、新兵衛もそんな遊びの帰りに見えていたかもしれない。
対岸から舟がやってくる。客は四人ほどのものだ。
近づいてくる船の中に、見覚えのある者が居る。桟橋の上で彼とすれ違うとき、袂が触れた。失礼、と言いたげに彼は笠を少し傾けた。
書物を背負っているのに、達者な足取りだと、船の上から井川を見送って新兵衛は思った。
新兵衛は船尾に乗った。彼の後ろには艪を持つ船頭しか居ない。
川の中ほどで、袂から結び文を出した。桟橋の上で井川が新兵衛の袖に投げ込んだものだ。
「杉尾村名主善右衛門方、笹生人数、報国寺、榊」
短冊状に裂かれた懐紙に、それだけ記してあった。
渡船を下りて南に回れば、新兵衛の屋敷がある諏訪町の方から城下に入ることができる。これが本道であり、最も近道であった。達者なものであれば、大手門前まで二刻を必要としないだろう。
杉尾村は、城下の北西にあたり、そちらを回ると城下に入るにはさらに一刻を要するだろう。井川はその道を行けと指示してきた。
船を降りた鳥越ら高井屋の一行は、わざとらしく腰を叩いたり腿を叩いたりして歩を前に進めない。
彼らを避けるようにして、新兵衛は北へと足を向けた。
高井屋の若主人と本物の手代らしき男だけが僅かに顔を見合わせたが、鳥越や、笹生の家臣である崎田は、何食わぬ顔で新兵衛の跡に続けて歩き出した。
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